第4話「古い言葉」
研究所に勤め始めて、数週間が経った。
最初は戸惑うことも多かったが、今では一日の仕事の流れを覚え、少しずつ余裕ができていた。
それでも、肉や魚が食卓から消えた理由についての疑問は、消えることがなかった。
「今は仕事に集中しなきゃ」
私は気持ちを切り替え、今日の実験結果を確認した。
「斉藤さん、昨日の実験結果はまとまりましたか?」
水野さんが声をかけてきた。
「はい。こちらです」
私はパソコンに表示したデータを見せた。
水野さんは画面をのぞき込み、数値を一つずつ確認していった。
「ふむ……細胞の生存率も安定していますね」
「はい。前回よりも良い結果が出ました」
「培養条件は変更しましたか?」
「培養液の成分を少し調整しました。温度や培養時間は変えていません」
「なるほど」
水野さんはしばらく画面を見つめていた。
「比較対象のデータも確認できますか?」
「はい。こちらです」
私は別の画面を開いた。
前回の実験結果と、今回の結果を並べて表示する。
水野さんは頷いた。
「いいですね。重畳、重畳」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
「どうしました?」
「あの……今、何ておっしゃいました?」
「重畳、重畳ですよ」
「ちょうじょう……ですか?」
「ええ。大変喜ばしいという意味です」
「そうなんですね。初めて聞きました」
水野さんは小さく笑った。
「古い言い方ですからね」
「よく使われるんですか?」
「私には馴染みのある言葉なんですよ。昔からずっとこの土地に住んでいるものですから、古い言葉が抜けなくてね」
「そうなんですね」
「まあ、最近ではあまり耳にしませんけどね」
水野さんは再び画面に目を向けた。
「では、この条件でもう一度実験してみましょう。再現性が確認できれば、次の段階に進めます」
「分かりました」
私は頷き、実験結果を保存した。
水野さんは別の研究員に呼ばれ、研究室を出ていった。
私はパソコンの画面に目を戻した。
重畳、重畳。
聞き慣れない言葉だった。
私は次の実験の準備を始めた。
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昼休み。
私は同僚の研究員と一緒に、休憩室で昼食を取っていた。
「斉藤さん、仕事には慣れました?」
「はい。まだ覚えることは多いですけど」
「最初は大変ですよね。うちは人数も少ないですし」
「そうですね。でも、水野さんが丁寧に教えてくださるので助かっています」
「ああ、水野さんは仕事に関しては細かいですからね」
同僚は笑った。
「実験結果も、ちゃんと確認してくれますし」
「そうですね」
私は午前中の出来事を思い出した。
「そういえば、水野さんって、少し言葉遣いが古風ですよね」
「ああ、分かります。私が入った頃から、ずっとあんな感じですよ」
「そうなんですね」
「まあ、仕事はできる方ですし、別に気になりませんけどね」
同僚はそう言って、昼食を食べ続けた。
私もそれ以上は話さなかった。
午後からは、午前中に確認した実験をもう一度行う予定だった。
休憩を終えると、私は研究室へ戻った。
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その日の夜。
帰宅すると、直人が台所に立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は早かったな」
「うん。実験が予定どおり終わったから」
私は鞄を置き、手を洗った。
食卓には、直人が作った夕食が並んでいた。
「いただきます」
「いただきます」
食事を始めてしばらくした頃、私は昼間の出来事を思い出した。
「ねえ、直人。重畳、重畳って知ってる?」
「……何それ? 呪文?」
直人は箸を止めた。
「違うよ。大変喜ばしいって意味の、古い言葉なんだって。今日、上司の水野さんが使ってたの。昔からこの土地に住んでるから、抜けないらしいよ」
「へえ……じゃあ、今日の夕飯も重畳、重畳?」
「ふふっ、使い方合ってるのかな、それ」
私が笑うと、直人も笑った。
「でもさ、うちの祖父や祖母だって、そんな言葉使わないよ?」
「そういえば、そうだね」
「昔から住んでるってだけで、そんな言葉が出るものなのかな」
「どうなんだろう」
私は味噌汁を一口飲んだ。
「古い言葉が好きな人なのかもしれないね」
「そうかもな」
私も笑った。
考えてみれば、言葉遣いなんて人それぞれだ。
古い小説が好きな人もいるだろうし、家族の影響で昔の言葉を使う人だっている。
それだけで、何か特別な意味があるとは思えなかった。
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夕食を終えた後、私はソファに座り、温かいお茶を飲んでいた。
直人は隣で、動物病院の勤務予定を確認している。
私は湯呑みを両手で包みながら、今日の実験結果を思い返していた。
研究所に入れば、何か分かるかもしれない。
そう思っていた。
けれど、実際に働き始めてみると、毎日の仕事を覚えるだけでも精一杯だった。
私は隣に座る直人を見た。
「ねえ、直人」
「何?」
「私、ちゃんと研究者になれてるかな」
直人は少し驚いた顔をした。
「何言ってるんだよ。もう研究者だろ?」
「そうなんだけど……まだ分からないことばっかりで」
「最初から何でも分かる人なんていないだろ」
「そうかな」
「そうだよ。由紀、昔からずっと勉強してきたじゃん」
直人は笑った。
「焦らなくていいんじゃない?」
「……うん」
私は頷いた。
曾祖母が何をしていたのか。
なぜ、食糧危機の責任を負わされ、処刑されたのか。
その答えを知りたいという気持ちは、今も変わっていない。
私は空になった湯呑みをテーブルに置いた。
「明日も頑張ろう」
「うん。でも、無理はするなよ」
「直人もね」
「俺は大丈夫」
「そう言って、この前も帰ってくるの遅かったじゃない」
「それは急患が来たからだよ」
「じゃあ、お互い無理しないようにしようね」
「そうだな」
直人は笑い、再び勤務予定に目を落とした。
私はソファにもたれかかった。
重畳、重畳。
昼間聞いた言葉が、ふと頭に浮かんだ。
私はもう一度、その言葉を小さく口にしてみた。
「……重畳、重畳」
「どうした?」
直人が顔を上げた。
「ううん。何でもない」
私は笑った。
少し変わった言葉遣いだけど、そういう人もいるのだろう。




