第18話「消えた傷」
じいちゃんの様子を観察し始めてから、さらに数日が経った。
保護猫のじいちゃんは、処置を受けた日とほとんど変わらない姿で過ごしていた。
食事量も活動時間も大きく変わらず、目立った衰弱の進行も見られない。
ただ、それが細胞死停止処置によるものなのかは、まだ分からなかった。
その日の午前中、私は研究所でいつもどおりの仕事をしていた。
実験の記録を整理していると、机の上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面には、直人の名前が表示されていた。
「もしもし?」
『由紀、今ちょっといい?』
「うん。どうしたの?」
『じいちゃんのことで、気になることがあってさ』
「何かあった?」
『今朝、ケージの金具に体を引っかけたみたいで、小さな傷ができてたんだ』
「えっ、大丈夫なの?」
『うん。傷自体は浅かったから、確認して普通に手当てしたんだけど……』
直人はそこで言葉を止めた。
「……けど?」
『さっきもう一度見たら、その傷がほとんど分からなくなってた』
「……え?」
私は思わず聞き返した。
『写真も撮ってある。由紀にも見てもらいたいんだ』
「分かった。仕事が終わったら、観察室に行くね」
『うん。待ってる』
電話を切ったあと、私はしばらくスマートフォンを見つめていた。
傷が、ほとんど分からなくなっていた。
その言葉が、妙に気になった。
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仕事を終えた私は、研究施設の観察室へ向かった。
直人は机に向かい、記録を確認していた。
「お疲れさま」
「お疲れ。こっち来て」
直人は私に写真を見せた。
一枚目には、猫の体にできた小さな傷が写っていた。
毛の間から、赤くなった皮膚が見えている。
「これが今朝の写真?」
「うん。金具に引っかけた直後に確認したもの」
「出血は?」
「少しだけ。傷は浅かったし、ほかに異常もなかったから、洗浄して手当てした」
直人は次の写真を表示した。
「それで、これが数時間後」
私は画面を覗き込んだ。
「……え?」
同じ場所が写っていた。
けれど、先ほどまであった赤い傷が、ほとんど見当たらなかった。
「これ、本当に同じところ?」
「うん。撮影した位置も確認した」
「……こんなに早く?」
「普通なら、ここまで短時間で目立たなくなるとは考えにくい」
「手当ての影響じゃなくて?」
「洗浄はしたけど、それだけで傷がなくなるわけじゃないからな」
直人は観察記録を開いた。
そこには、傷を確認した時刻と、手当てを行った内容が書かれていた。
さらに、傷の状態を再確認した時刻も記録されている。
私は二つの時刻を見比べた。
「……数時間しか経ってない」
「そうなんだ」
「じいちゃんは?」
「今は落ち着いてるよ。見てみる?」
「うん」
私たちは猫のそばへ向かった。
じいちゃんは敷物の上に座り、前足を舐めていた。
「じいちゃん、ちょっと見せてな」
直人が優しく声をかけ、傷のあった場所を確認した。
私は隣から覗き込んだ。
「……本当だ」
毛を分けても、赤くなっていた部分はほとんど分からなかった。
猫は嫌がる様子もなく、直人の手に顔を寄せている。
「痛がってる感じもないね」
「うん。今のところ、特に気にしてないみたいだ」
私は猫の体を見つめた。
そのときだった。
ふと、以前の出来事が頭に浮かんだ。
「……ねえ、直人」
「ん?」
「私、前にも似たようなことを見た気がする」
「似たようなこと?」
「うん。研究所で……」
私は言葉を止めた。
水野さん。
以前、研究所で水野さんがビーカーを割り、手を切ったことがあった。
確かに傷ができていたはずなのに、あとで見たときには消えていた。
あのときの違和感が、突然よみがえった。
「……水野さん」
「水野さん?」
「研究所の人。前に、その人がビーカーを割って、手を切ったことがあったの」
直人は私を見た。
「大丈夫だったの?」
「うん。でも、そのあと見たら、傷がなくなってたの」
「傷が?」
「そう。あのときは不思議だと思ったけど、詳しく確認しなかったから……」
私は猫の傷があった場所に目を戻した。
「今のじいちゃんを見て、思い出したの」
直人は少し考えていた。
「その人の傷も、短い時間で消えたの?」
「そこまでは分からない。ただ、確かに傷があったことは覚えてる」
私はもう一つ、思い出したことがあった。
数日前、研究所で水野さんにした質問。
あのとき聞いた話も、今になって気になり始めていた。
「……そういえば、この前、水野さんに研究のことで質問したの」
「何て聞いたんだ?」
「処置を受けたあとの体の変化について、少しだけ」
「それで?」
「そのときの答えと、今のじいちゃんの状態が、何となくつながる気がして」
直人は写真を見つめた。
「でも、水野さんとじいちゃんに同じことが起きてるとは限らないよな」
「うん。それは分かってる」
私は記録用紙を手に取った。
処置後も変わらない、じいちゃんの体。
そして、数時間で消えた傷。
それぞれに関係があるのかどうかは、まだ分からない。
「……ねえ、直人」
「ん?」
「この傷、もう少し詳しく記録しておきたい」
「もちろん。写真も保存してあるし、時間ごとの状態も残してる」
「ありがとう」
直人は猫の背中を撫でた。
「じいちゃん自身は落ち着いてるから、そこは安心したけどな」
「そうだね」
猫は小さく鳴くと、敷物の上に横になった。
私はその姿を見つめた。
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その日の夜。
帰宅した私は、机に向かってノートを開いた。
今日確認した傷の変化について、考えを整理していく。
私が気になっていたのは、傷が消えたことだけではなかった。
以前、研究所で目にした水野さんの様子。
そして、先日交わした会話。
別々の出来事だと思っていたものが、今になって気になり始めていた。
「……同じなのかな」
私はペンを止めた。
直人が温かい飲み物を持ってきた。
「まだ考えてるの?」
「うん。水野さんのことが気になって」
直人は隣に座った。
「何か調べられそう?」
「今のところは難しいかな。水野さんのときは、写真も記録もないし」
「そうか」
「でも、じいちゃんのほうは記録が残ってるから、比較はできると思う」
「うん。それなら、明日も状態を確認してみよう」
私はノートに一文を書き加えた。
『傷の状態に、通常とは異なる変化が見られた。原因は不明。』
そして、ノートを閉じた。
水野さんの傷。
じいちゃんの傷。
二つの出来事が、私の中で重なっていた。
けれど、今はまだ、それ以上のことは言えない。
私は机の上に置かれた曾祖母のノートを見た。
あのノートに残された記録は、何を意味しているのだろう。
その答えを知るためにも、観察を続ける必要があった。




