第17話「止まった時間」
あの日の処置から、数日が経った。
私は仕事を終えると、研究施設の観察室へ向かった。
扉を開けると、直人が猫の様子を確認していた。
「お疲れさま」
「お疲れ。ちょうど今、記録を取ってたところ」
「じいちゃんは?」
「いつもどおりだよ。見てみな」
直人が指さした先には、あの保護猫がいた。
柔らかな敷物の上で横になり、静かに目を閉じている。
白い毛が混じった顔。
痩せた体。
少し硬くなった毛並み。
初めて会った日と、ほとんど変わらない姿だった。
「……じいちゃん」
私が声をかけると、猫はゆっくりと目を開けた。
そして、小さく鳴いた。
「ふふっ、今日も返事してくれた」
「人の声には反応するんだよな」
直人は猫のそばにしゃがんだ。
「ただ、相変わらず自分から動くことは少ないよ」
「そっか」
私は猫の背中をそっと撫でた。
骨ばった体も、毛並みも、処置を行った日と変わっていない。
「……やっぱり、見た目は変わらないね」
「そうだな。若返ったような変化は見られない」
「うん」
私は曾祖母の研究記録を思い出した。
細胞死停止処置。
処置を受けた時点の状態が維持され、老化が進まなくなるという技術。
もし、じいちゃんに施した処置が成功しているのなら。
この子は、二十歳ほどの老いた体のまま、これからも生き続けることになる。
けれど、それを確かめるには、まだ時間が必要だった。
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「そういえば、食事はどう?」
私が尋ねると、直人は机の上に置かれた記録用紙を手に取った。
「相変わらず少量ずつだよ。ただ、ここ数日は大きく減ってない」
「体重は?」
「ほとんど変わってないな」
私は記録用紙を覗き込んだ。
そこには、処置を行う前からの数値がまとめられていた。
体重。
体温。
心拍数。
血液検査の結果。
食事量と飲水量。
活動時間。
直人はそれぞれの項目を指さしながら説明してくれた。
「体温と心拍数は安定してる。血液検査でも、今のところ大きな異常は出てない」
「処置前と比べると?」
「目立った変化はないな」
「……そうなんだ」
私は日付ごとの記録を確認した。
処置を行った日から今日まで、数値はほぼ同じ範囲で推移している。
「……ずっと変わってないね」
「うん」
直人は頷いた。
「ただ、数日間なら珍しいことじゃない。今までのケアで状態が安定してる可能性もあるし」
「そうだよね」
「でも、これからも同じ状態が続くなら、考える必要があるかもしれない」
私はもう一度、記録を見た。
じいちゃんは、処置を受ける前からかなり衰弱していた。
食事量が減り、自分から動くことも少なくなっていた。
高齢の猫であれば、今後さらに体力が落ちていくことも考えられる。
けれど、処置後のじいちゃんには、今のところ明らかな衰弱の進行が見られなかった。
「……ねえ、直人」
「ん?」
「もし、このままずっと変わらなかったら?」
直人は少し考えた。
「それが処置の影響なのか、ほかの理由なのかを調べる必要があるな」
「うん」
「でも、少なくとも今は、急に悪くなるような変化は見られないよ」
私は猫のほうへ目を向けた。
じいちゃんは敷物の上で、静かに目を閉じていた。
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しばらくすると、直人が餌の器を持ってきた。
「じいちゃん、ご飯だぞ」
猫はゆっくりと顔を上げた。
直人が器を近づけると、匂いを確かめるように鼻を動かした。
そして、少しずつ食べ始めた。
「今日も食べてくれてるね」
「うん。量は少ないけどな」
じいちゃんは途中で何度か休みながら、ゆっくりと餌を食べていた。
食事を終えると、そのまま敷物の上に顔を伏せた。
「……やっぱり、体力は戻ってないんだね」
「そうだな。年齢による衰えは、そのままだと思う」
直人は猫の背中を優しく撫でた。
「じいちゃん、今日も頑張ったな」
猫は小さく鳴いた。
私はその様子を見ながら、ふと考えた。
もし、細胞死停止処置が本当に成功していたら。
この子は、今の体のまま老化しなくなる。
若返ることもなく、衰えた体が元気な頃に戻るわけでもない。
ただ、それ以上、年を取らなくなる。
「……ねえ、直人」
「ん?」
「この子、ずっとこのままなのかな」
直人は私を見た。
「どういう意味?」
「もし処置が成功してたら、これ以上老化しないんだよね」
「理論上は、そうなるな」
「でも、今の状態から若返るわけじゃない」
「うん」
私はじいちゃんを見つめた。
「……それって、いいことなのかな」
直人はすぐには答えなかった。
しばらく猫の背中を撫でてから、静かに口を開いた。
「難しいな」
「うん」
「老化が止まることと、健康になることは別だからな」
私は頷いた。
「そうだよね」
「ただ、今のじいちゃんが苦しんでるわけじゃないし、できる限りのケアは続けていくよ」
「……うん」
私は猫の頭をそっと撫でた。
じいちゃんは目を細め、小さく喉を鳴らした。
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観察を終える頃には、外が暗くなり始めていた。
直人はその日の記録を整理し、私は隣で数値を確認していた。
「今日も大きな異常はなかったね」
「うん。今のところ、状態は安定してる」
直人は記録用紙をまとめた。
「明日も同じ項目を確認しよう」
「うん」
私は最後に猫の様子を確認した。
じいちゃんは敷物の上で丸くなり、静かに目を閉じていた。
呼吸は穏やかだった。
「じいちゃん、また明日ね」
声をかけると、猫は片方の耳を小さく動かした。
直人が笑った。
「聞こえてるみたいだな」
「ふふっ、そうだね」
私たちは観察室を後にした。
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帰宅後、私は机に向かい、今日の記録をノートにまとめていた。
研究施設で確認した数値。
じいちゃんの体調。
処置前からの変化。
それらを曾祖母の研究記録と照らし合わせていく。
「……やっぱり、まだ分からないな」
私はペンを置いた。
直人が温かい飲み物を持ってきた。
「まだ調べてるの?」
「うん。今日のことを整理してた」
「何か分かった?」
「ううん。でも、気になることがあるの」
「何?」
私はノートを直人に見せた。
「じいちゃん、処置をしてからずっと、ほとんど同じ状態なんだよね」
「そうだな」
「もし、この状態が何年も続いたら?」
直人はしばらく考えた。
「……それなら、普通の老化とは違う現象が起きてる可能性はあるな」
「うん」
「でも、まだ数日だろ?」
「そうなんだよね」
私は小さくため息をついた。
「結果が分かるまで、何年かかるんだろう」
直人は笑った。
「由紀、焦りすぎ」
「だって、気になるんだもん」
「分かるけどさ。研究って、そういうものだろ?」
「……まあね」
「時間をかけて、記録を取り続ければいい」
私は直人を見た。
「由紀の得意なことじゃん」
「そうかな」
「そうだよ。昔から、気になったことは最後まで調べないと気が済まなかっただろ?」
「……確かに」
私も笑った。
直人がキッチンへ向かったあと、私はもう一度ノートを開いた。
そして、最後に一つの文章を書き加えた。
『処置後、外見および身体状態に明らかな変化は認められない。衰弱の進行も現時点では確認されていない。継続的な観察が必要。』
私はしばらくその一文を見つめた。
何も変わらない。
普通なら、特に気にすることもない結果だろう。
けれど、百年以上前に開発された細胞死停止処置が、本当に再現できていたとしたら。
この「変わらない」という状態こそが、重要な意味を持つのかもしれない。
私はノートを閉じた。
まだ、答えは出ていない。
明日も、じいちゃんの様子を確かめよう。
その小さな体に起きていることを、見逃さないために。




