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『undying ―食卓から消えたもの』  作者: 季波


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17/25

第17話「止まった時間」

あの日の処置から、数日が経った。


私は仕事を終えると、研究施設の観察室へ向かった。


扉を開けると、直人が猫の様子を確認していた。


「お疲れさま」


「お疲れ。ちょうど今、記録を取ってたところ」


「じいちゃんは?」


「いつもどおりだよ。見てみな」


直人が指さした先には、あの保護猫がいた。


柔らかな敷物の上で横になり、静かに目を閉じている。


白い毛が混じった顔。


痩せた体。


少し硬くなった毛並み。


初めて会った日と、ほとんど変わらない姿だった。


「……じいちゃん」


私が声をかけると、猫はゆっくりと目を開けた。


そして、小さく鳴いた。


「ふふっ、今日も返事してくれた」


「人の声には反応するんだよな」


直人は猫のそばにしゃがんだ。


「ただ、相変わらず自分から動くことは少ないよ」


「そっか」


私は猫の背中をそっと撫でた。


骨ばった体も、毛並みも、処置を行った日と変わっていない。


「……やっぱり、見た目は変わらないね」


「そうだな。若返ったような変化は見られない」


「うん」


私は曾祖母の研究記録を思い出した。


細胞死停止処置。


処置を受けた時点の状態が維持され、老化が進まなくなるという技術。


もし、じいちゃんに施した処置が成功しているのなら。


この子は、二十歳ほどの老いた体のまま、これからも生き続けることになる。


けれど、それを確かめるには、まだ時間が必要だった。


---


「そういえば、食事はどう?」


私が尋ねると、直人は机の上に置かれた記録用紙を手に取った。


「相変わらず少量ずつだよ。ただ、ここ数日は大きく減ってない」


「体重は?」


「ほとんど変わってないな」


私は記録用紙を覗き込んだ。


そこには、処置を行う前からの数値がまとめられていた。


体重。


体温。


心拍数。


血液検査の結果。


食事量と飲水量。


活動時間。


直人はそれぞれの項目を指さしながら説明してくれた。


「体温と心拍数は安定してる。血液検査でも、今のところ大きな異常は出てない」


「処置前と比べると?」


「目立った変化はないな」


「……そうなんだ」


私は日付ごとの記録を確認した。


処置を行った日から今日まで、数値はほぼ同じ範囲で推移している。


「……ずっと変わってないね」


「うん」


直人は頷いた。


「ただ、数日間なら珍しいことじゃない。今までのケアで状態が安定してる可能性もあるし」


「そうだよね」


「でも、これからも同じ状態が続くなら、考える必要があるかもしれない」


私はもう一度、記録を見た。


じいちゃんは、処置を受ける前からかなり衰弱していた。


食事量が減り、自分から動くことも少なくなっていた。


高齢の猫であれば、今後さらに体力が落ちていくことも考えられる。


けれど、処置後のじいちゃんには、今のところ明らかな衰弱の進行が見られなかった。


「……ねえ、直人」


「ん?」


「もし、このままずっと変わらなかったら?」


直人は少し考えた。


「それが処置の影響なのか、ほかの理由なのかを調べる必要があるな」


「うん」


「でも、少なくとも今は、急に悪くなるような変化は見られないよ」


私は猫のほうへ目を向けた。


じいちゃんは敷物の上で、静かに目を閉じていた。


---


しばらくすると、直人が餌の器を持ってきた。


「じいちゃん、ご飯だぞ」


猫はゆっくりと顔を上げた。


直人が器を近づけると、匂いを確かめるように鼻を動かした。


そして、少しずつ食べ始めた。


「今日も食べてくれてるね」


「うん。量は少ないけどな」


じいちゃんは途中で何度か休みながら、ゆっくりと餌を食べていた。


食事を終えると、そのまま敷物の上に顔を伏せた。


「……やっぱり、体力は戻ってないんだね」


「そうだな。年齢による衰えは、そのままだと思う」


直人は猫の背中を優しく撫でた。


「じいちゃん、今日も頑張ったな」


猫は小さく鳴いた。


私はその様子を見ながら、ふと考えた。


もし、細胞死停止処置が本当に成功していたら。


この子は、今の体のまま老化しなくなる。


若返ることもなく、衰えた体が元気な頃に戻るわけでもない。


ただ、それ以上、年を取らなくなる。


「……ねえ、直人」


「ん?」


「この子、ずっとこのままなのかな」


直人は私を見た。


「どういう意味?」


「もし処置が成功してたら、これ以上老化しないんだよね」


「理論上は、そうなるな」


「でも、今の状態から若返るわけじゃない」


「うん」


私はじいちゃんを見つめた。


「……それって、いいことなのかな」


直人はすぐには答えなかった。


しばらく猫の背中を撫でてから、静かに口を開いた。


「難しいな」


「うん」


「老化が止まることと、健康になることは別だからな」


私は頷いた。


「そうだよね」


「ただ、今のじいちゃんが苦しんでるわけじゃないし、できる限りのケアは続けていくよ」


「……うん」


私は猫の頭をそっと撫でた。


じいちゃんは目を細め、小さく喉を鳴らした。


---


観察を終える頃には、外が暗くなり始めていた。


直人はその日の記録を整理し、私は隣で数値を確認していた。


「今日も大きな異常はなかったね」


「うん。今のところ、状態は安定してる」


直人は記録用紙をまとめた。


「明日も同じ項目を確認しよう」


「うん」


私は最後に猫の様子を確認した。


じいちゃんは敷物の上で丸くなり、静かに目を閉じていた。


呼吸は穏やかだった。


「じいちゃん、また明日ね」


声をかけると、猫は片方の耳を小さく動かした。


直人が笑った。


「聞こえてるみたいだな」


「ふふっ、そうだね」


私たちは観察室を後にした。


---


帰宅後、私は机に向かい、今日の記録をノートにまとめていた。


研究施設で確認した数値。


じいちゃんの体調。


処置前からの変化。


それらを曾祖母の研究記録と照らし合わせていく。


「……やっぱり、まだ分からないな」


私はペンを置いた。


直人が温かい飲み物を持ってきた。


「まだ調べてるの?」


「うん。今日のことを整理してた」


「何か分かった?」


「ううん。でも、気になることがあるの」


「何?」


私はノートを直人に見せた。


「じいちゃん、処置をしてからずっと、ほとんど同じ状態なんだよね」


「そうだな」


「もし、この状態が何年も続いたら?」


直人はしばらく考えた。


「……それなら、普通の老化とは違う現象が起きてる可能性はあるな」


「うん」


「でも、まだ数日だろ?」


「そうなんだよね」


私は小さくため息をついた。


「結果が分かるまで、何年かかるんだろう」


直人は笑った。


「由紀、焦りすぎ」


「だって、気になるんだもん」


「分かるけどさ。研究って、そういうものだろ?」


「……まあね」


「時間をかけて、記録を取り続ければいい」


私は直人を見た。


「由紀の得意なことじゃん」


「そうかな」


「そうだよ。昔から、気になったことは最後まで調べないと気が済まなかっただろ?」


「……確かに」


私も笑った。


直人がキッチンへ向かったあと、私はもう一度ノートを開いた。


そして、最後に一つの文章を書き加えた。


『処置後、外見および身体状態に明らかな変化は認められない。衰弱の進行も現時点では確認されていない。継続的な観察が必要。』


私はしばらくその一文を見つめた。


何も変わらない。


普通なら、特に気にすることもない結果だろう。


けれど、百年以上前に開発された細胞死停止処置が、本当に再現できていたとしたら。


この「変わらない」という状態こそが、重要な意味を持つのかもしれない。


私はノートを閉じた。


まだ、答えは出ていない。


明日も、じいちゃんの様子を確かめよう。


その小さな体に起きていることを、見逃さないために。

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