第16話「仮説と小さな変化」
週明けから、数日が経った。
私は仕事を終えて帰宅すると、曾祖母のノートを机に広げた。
そこには、百年以上前に行われた研究の記録が残されていた。
私は記録に目を通しながら、これまで調べてきたことを整理していた。
「……やっぱり、実際に確かめてみないと分からないよね」
曾祖母が開発した細胞死停止処置。
細胞が死ぬことを防ぎ、損傷しても元の状態へ戻るという技術。
その仕組みについては、まだ分からないことが多かった。
「由紀、何してるの?」
振り返ると、直人がリビングに入ってきた。
「曾祖母の研究を調べてたの」
「何か分かった?」
「ううん。でも、ちょっと考えてることがあって」
「何?」
私はノートを直人に見せた。
「この処置、今の設備なら再現できるかもしれないの」
直人は記録に目を通した。
「……なるほど」
「どう思う?」
「記録は残ってるけど、実際に同じ結果が出るかは分からないな」
「うん。だから確かめてみたいの」
直人は少し考えてから頷いた。
「まずは培養細胞で確認することになるだろうな」
「そうだね。いきなり動物に使うわけにはいかないし」
私はノートを閉じた。
「それでね、もし細胞で再現できたら、実際の生物ではどうなるのかも調べたいの」
「……生物か」
直人はしばらく考えていた。
「そういえば、今うちで保護してる猫がいるんだけど」
「猫?」
「うん。推定二十歳くらいの老猫でさ」
「二十歳? すごい長生きだね」
「そうなんだ。でも、かなり衰弱してて、最近はほとんど動けないんだ」
「病気なの?」
「検査では、今すぐ治療が必要な病気は見つかってない。ただ、年齢による衰えが大きいと思う」
私は少し考えた。
「……その子、会ってみてもいい?」
「もちろん」
直人は頷いた。
「ただ、研究に協力してもらうかどうかは、ちゃんと考えないとな」
「うん。分かってる」
私は曾祖母のノートに目を落とした。
百年以上前の研究。
その技術が、今も同じように再現できるのだろうか。
まずは、そこから確かめる必要があった。
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それから数日後。
私は研究施設で、培養細胞を使った実験を行っていた。
同じ条件で培養した細胞を二つに分け、一方には曾祖母の記録をもとに再現した処置を施した。
もう一方には処置を行わず、それぞれの状態を比較していく。
最初の観察では、大きな違いは見られなかった。
しかし、翌日の測定で、わずかな差が確認された。
「……あれ?」
私は画面に表示された数値を見つめた。
処置を施した細胞のほうが、生存率が高かった。
「……本当に?」
測定をやり直し、試料の状態も確認した。
機器の異常や記録の間違いは見つからなかった。
それでも、一度の結果だけで判断するわけにはいかない。
私は同じ実験を繰り返した。
数日かけて観察を続けると、処置した細胞では、同じように生存率が高くなる傾向が確認された。
「……やっぱり、違う」
私は曾祖母の記録を開いた。
そこに残された数値と、今回の測定結果を照らし合わせる。
完全に一致しているわけではない。
けれど、変化の方向は似ていた。
ただし、細胞が死ににくくなっただけでは、細胞死停止処置が再現できたとは言えない。
損傷した細胞が元の状態へ戻るのか。
その状態が維持されるのか。
まだ確認しなければならないことは残っていた。
私は結果を記録し、次の実験計画をまとめた。
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数日後。
私は直人と一緒に、保護猫がいる施設を訪れた。
「この子だよ」
直人が案内してくれた部屋には、一匹の猫が横になっていた。
白い毛が混じった顔。
痩せた体。
少し硬くなった毛並み。
「……この子?」
「うん。推定二十歳くらいのおじいちゃん猫」
私は猫のそばにしゃがんだ。
「名前は?」
「正式な名前はないんだけど、みんな『じいちゃん』って呼んでる」
「じいちゃん?」
「見た目がすっかりおじいちゃんだからな」
「ふふっ、そのままだね」
私はそっと声をかけた。
「こんにちは、じいちゃん」
猫はゆっくりと顔を上げ、小さく鳴いた。
「……返事してくれた」
「人には慣れてるんだよ。でも、最近は体力が落ちててな」
直人は猫の状態を説明してくれた。
食事量が減り、自分から動くことも少なくなっている。
以前は部屋の中を歩いていたが、最近は横になっている時間がほとんどだった。
「……かなり弱ってるんだね」
「うん。できる限りのケアは続けてるんだけど」
私は猫を見つめた。
じいちゃんは再び目を閉じた。
「……ねえ、直人」
「ん?」
「もし、この子に細胞死停止処置を使ったら、どうなると思う?」
直人はすぐには答えなかった。
「……正直、分からないな」
「そうだよね」
「細胞で確認できたことが、体全体でも同じように起きるとは限らないし」
「うん」
「それに、処置が成功した場合、元に戻せない可能性もあるんだろ?」
私は頷いた。
「だから、慎重に考えたいの」
直人は猫の背中を撫でた。
「じいちゃんに負担がかかることも考えないとな」
「うん。もちろん」
私は曾祖母の研究記録を思い出した。
あの処置が本当に再現できるのなら、老化によって衰えた体には、どのような変化が現れるのだろう。
ただ、それを確かめるためだけに、じいちゃんを危険にさらすわけにはいかない。
私は直人に相談しながら、研究として実施できるかどうかを検討することにした。
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それからしばらくして。
私たちは必要な手続きと確認を進めていた。
じいちゃんの健康状態を調べ、処置に伴う危険性や、処置後の観察方法について検討した。
研究計画についても審査を受けた。
そして、必要な承認を得たうえで、処置を実施することになった。
当日。
私は研究施設の一室で、準備された器具と記録を確認していた。
直人はじいちゃんの体調を調べている。
「体温は安定してる。心拍数も問題ない」
「食事は?」
「今朝も少し食べたよ」
「そっか」
私はじいちゃんの様子を見た。
猫は敷物の上に横になり、静かに目を閉じていた。
「……じいちゃん」
声をかけると、片方の耳が小さく動いた。
直人がこちらを見た。
「由紀、準備はいい?」
「……うん」
私はもう一度、曾祖母の記録を確認した。
百年以上前に開発された技術。
その処置を、今から再現しようとしている。
「……ちょっと緊張するね」
「そりゃそうだろ」
直人は小さく笑った。
「でも、焦らずにやろう」
「うん」
私たちは事前に確認した手順に従い、慎重に処置を進めた。
処置を終えると、じいちゃんを観察用のスペースへ移した。
「……終わったね」
「うん。まずは状態を確認しよう」
直人は体温や心拍数を測定した。
私は処置後の時刻と数値を記録していく。
「今のところ、大きな変化はないな」
「うん」
じいちゃんは敷物の上で静かに横になっていた。
見た目は、処置前と何も変わらない。
白くなった毛も、痩せた体も、そのままだった。
私は猫の様子を見つめた。
「……どうなるんだろう」
直人が記録用紙を置いた。
「これから観察していくしかないな」
「そうだね」
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数時間後。
じいちゃんの状態に大きな異常は見られなかった。
呼吸は安定している。
体温や心拍数にも、目立った変化はない。
私は観察記録を確認した。
「……今のところ、処置前とほとんど同じだね」
「そうだな」
直人は猫のそばにしゃがんだ。
「じいちゃん、調子はどうだ?」
猫はゆっくりと目を開けた。
そして、小さく鳴いた。
「……返事したね」
「うん」
直人は笑った。
私は猫の顔を覗き込んだ。
じいちゃんは私たちを見つめたあと、再び目を閉じた。
「……ねえ、直人」
「ん?」
「もし処置が成功していたら、この子はどうなるんだろうね」
直人は少し考えた。
「少なくとも、すぐに若返るようなことはないんじゃないかな」
「うん。私もそう思う」
「でも、これ以上衰弱しなくなる可能性はあるかもしれない」
「……そうだね」
私は記録用紙に目を落とした。
今の段階では、処置が成功したのかどうかも分からない。
ただ、これからの変化を確かめるための記録は残せる。
私は観察開始時刻を書き込み、じいちゃんの状態をもう一度確認した。
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その日の夜。
帰宅した私は、机に向かって今日の記録を整理していた。
処置前と処置後の数値。
じいちゃんの様子。
観察中に確認したこと。
一つずつノートにまとめていく。
「まだ調べてるの?」
直人が温かい飲み物を持ってきた。
「うん。今日のことを整理してた」
「何か気になることでもあった?」
「ううん。今のところ、大きな変化はないんだけど」
私はノートを見つめた。
「……もし、この処置が本当に成功していたら、じいちゃんはこれ以上年を取らなくなるんだよね」
「理論上は、そういうことになるな」
「でも、今の状態からどう変わるのかは分からない」
「そうだな」
直人は隣に座った。
「明日も様子を確認するよ」
「うん。ありがとう」
私は今日の記録の最後に、一文を書き加えた。
『処置後、現時点で明らかな異常は確認されていない。継続的な観察が必要。』
そして、ノートを閉じた。
じいちゃんの体に、これから何が起きるのか。
それは、まだ分からない。
けれど、もし曾祖母の研究が再現できていたのなら。
あの小さな体に、何か変化が現れるかもしれない。
私は机の上に置かれた記録をもう一度見た。
明日も、観察を続けよう。
その変化を見逃さないために。




