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『undying ―食卓から消えたもの』  作者: 季波


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15/25

第15話「いつもどおりの研究所」

週明けの月曜日。


私はいつもと同じ時間に家を出た。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。気をつけてな」


玄関まで見送りに来た直人に手を振り、車に乗り込んだ。


研究所までは、車で三十分ほど。


道を走りながら、今日の予定を頭の中で確認する。


午前中は細胞の観察と記録の整理。


午後は、先週から続けている実験の経過確認だった。


今日も特別な予定はなかった。


研究所に到着すると、私は職員用の駐車場に車を停めた。


建物の中へ入り、更衣室で白衣に着替える。


廊下では、何人かの研究員とすれ違った。


「おはようございます」


「おはようございます、斉藤さん」


挨拶を交わしながら、研究室へ向かう。


扉を開けると、水野さんがパソコンに向かっていた。


「おはようございます」


「ああ、斉藤さん。おはようございます」


水野さんは画面から顔を上げた。


「週末はゆっくりできましたか?」


「はい。少し出かけてきました」


「それはよかったですね。最近、忙しかったでしょう」


「そうですね。でも、いい気分転換になりました」


私は自分の席に荷物を置き、パソコンを起動した。


机の上には、先週まとめた実験記録が置かれている。


まずは、それを確認することにした。


しばらくすると、ほかの研究員たちも出勤してきた。


研究室にはキーボードを打つ音や、資料をめくる音が響き始める。


午前中の作業が一段落した頃、水野さんが声をかけてきた。


「斉藤さん、先週のデータはまとまりましたか?」


「はい。ちょうど確認していたところです」


「何か気になる点はありました?」


「今のところ、大きな問題はありません」


「そうですか。それならよかった」


水野さんはうなずいた。


私は画面を見ながら、少し考えた。


「水野さん、一つ聞いてもいいですか?」


「はい。何でしょう?」


「細胞の修復って、処置の種類によって違いがありますよね?」


「もちろんです。どのような処置を行うかによって、反応も変わりますから」


「例えば、傷ついた組織が元に戻る場合なんですけど」


「はい」


「修復が終わったあとって、何か痕跡は残るものなんでしょうか?」


水野さんは椅子の背もたれに体を預けた。


「それは損傷の程度によりますね。浅い傷なら、ほとんど分からなくなることもあります」


「なるほど」


「ただ、組織の状態を詳しく調べれば、修復された部分に変化が見つかる場合もありますよ」


私は手元のメモに書き込んだ。


「じゃあ、修復がすごく速かった場合はどうですか?」


「速い?」


「はい。例えば、通常よりずっと短い時間で修復が進むことはあるんでしょうか?」


水野さんは少し考えた。


「それは、かなり特殊な状態ですね」


「やっぱりそうですよね」


「少なくとも、一般的な細胞の修復では考えにくいでしょう」


「処置によっては、そういうことも可能なんでしょうか?」


「理論上は、細胞の働きを大きく変化させることで、修復速度に影響を与えることは考えられます」


「へえ……」


「ただし、実際にどこまで可能かは別の話ですよ」


水野さんはそう言って笑った。


「斉藤さん、面白いところに興味を持ちますね」


「すみません。ちょっと気になって」


「謝ることはありませんよ。疑問を持つのは大切なことですから」


私はうなずき、もう一度画面に目を向けた。


けれど、まだ聞きたいことがあった。


「もう一つだけ、いいですか?」


「どうぞ」


「処置によって変化した細胞の状態って、長期間維持できるものなんでしょうか?」


水野さんは少し首を傾げた。


「処置の内容にもよりますが、一定の状態を維持させる研究はありますよ」


「ずっと、ですか?」


「ずっとというのは難しいですね。通常の細胞には、分裂や維持に限界がありますから」


「そうですよね」


「ただ、細胞の活動を制御することで、通常とは異なる状態を長期間維持するという考え方はあります」


「なるほど……」


私はメモを取る手を止めた。


「でも、それって途中で元に戻ることはないんですか?」


「処置が可逆的なものであれば、元の状態に戻すことも考えられます」


「可逆的?」


「簡単に言えば、変化させた状態を元に戻せるということです」


「じゃあ、逆に戻せない処置もあるんですね」


「ええ。不可逆的な変化を起こすものもあります」


水野さんは机の上に置かれた資料を手に取った。


「そもそも、何をどう変化させたのか分からなければ、元に戻す方法も考えられませんから」


「……確かに」


「それに、長期間維持されている状態を急に変化させれば、予想外の反応が起こる可能性もあります」


「予想外の反応?」


「細胞の機能が正常に戻るとは限りません。逆に、組織に負担がかかることも考えられます」


私はゆっくりうなずいた。


水野さんは少し考えてから、言葉を続けた。


「例えば、長い間変化しなかった組織が、ある処置をきっかけに急激に変化することも、理論上は考えられます」


「……長い間変化しなかった組織、ですか?」


「ええ。ただ、実際にそのような現象が起きるかどうかは、詳しく調べてみないと分かりません」


「そうなんですね」


私はメモに書き加えた。


水野さんは資料を机に戻した。


「何か、今の実験で気になることでもありましたか?」


「いえ。先週のデータを見ていて、少し疑問に思っただけです」


「なるほど」


私はメモを閉じようとして、以前調べた研究資料のことを思い出した。


「そういえば、水野さん。昔の研究についても聞いていいですか?」


「ええ、どうぞ」


「百年以上前に、家畜や養殖魚の間で感染症が広がったんですよね?」


「そうですね。当時は深刻な食糧危機になったとされています」


「その頃、黒田理沙という研究者が処刑されていますよね?」


「ああ、黒田理沙ですか」


「どうして処刑されたんでしょうか?」


「当時の政府の判断だったんですよ。研究の責任を問われたとされていますね」


「でも、感染症が広がったのは、その人のせいだったんですか?」


「さあ、そこまでは分かりませんね。百年以上も前のことですから」


「そうだったんですね」


私はうなずいた。


「それと、当時の研究者たちが写った集合写真を見つけたんです」


「集合写真ですか?」


「はい。その中に、相馬圭介という人がいたんですけど、ご存じですか?」


「いえ、知りませんね」


「黒田理沙と一緒に研究していたみたいなので、気になって」


「百年以上前の研究者ですからね。私も詳しくは知りません」


「そうですよね。ありがとうございます」


集合写真に写っていた相馬圭介。


その顔は、目の前にいる水野さんと驚くほどよく似ていた。


けれど、私はそのことには触れなかった。


水野さんは私が黒田理沙の曾孫であることを知らない。


今は、それでよかった。


水野さんは再びパソコンに向き直った。


私も作業を再開した。


画面には、観察した細胞の画像が並んでいる。


私は一つずつ確認しながら、記録を入力していった。


昼休みになると、同僚に声をかけられた。


「斉藤さん、お昼行きません?」


「あ、はい。今行きます」


私は画面から目を離し、席を立った。


食堂では、研究員たちが昼食を取っていた。


「週末、何してたんですか?」


向かいに座った同僚が聞いてきた。


「ちょっと遠出してました」


「いいですね。私なんて、ずっと家で寝てましたよ」


「それもいい休日じゃないですか」


「まあ、そうなんですけどね」


二人で笑った。


食事を終えると、私は研究室へ戻った。


午後は予定どおり、実験の経過を確認した。


観察結果を記録していると、水野さんから別の資料の確認を頼まれた。


「斉藤さん、これもお願いできますか?」


「はい。今日中で大丈夫ですか?」


「ええ。急ぎではありませんから」


「分かりました」


私は受け取った資料にも目を通し、必要なデータを整理した。


研究室では、それぞれが自分の作業に集中していた。


夕方になり、私は一日の記録を保存した。


「お先に失礼します」


「お疲れさまでした」


水野さんが顔を上げた。


「斉藤さん」


「はい?」


「午前中に聞いていた細胞の話ですけど」


「はい」


「もし実際にそういう現象が確認されたら、興味深い研究対象になるでしょうね」


「そうですね」


「ただ、細胞の反応というのは複雑です。見た目だけで判断しないことが大切ですよ」


「分かりました。ありがとうございます」


水野さんは微笑んだ。


「それでは、また明日」


「はい。お疲れさまでした」


私は研究室を出た。


廊下を歩きながら、午前中の会話を思い返した。


修復された組織に残る変化。


長期間維持される細胞の状態。


そして、元に戻すことが難しい処置。


どれも、研究者なら知っていておかしくない話だった。


けれど、一つだけ気になったことがある。


私は足を止め、手帳を取り出した。


午前中に書いたメモを読み返す。


『長い間変化しなかった組織が、ある処置をきっかけに急激に変化する』


水野さんが話していた言葉だった。


一般的な説明としては理解できる。


それでも、なぜかその部分が頭から離れなかった。


相馬圭介という名前を聞いたとき、水野さんは知らないと答えた。


本当にそうなのだろうか。


私は手帳に短い一文を書き加えた。


『相馬圭介と水野さんの関係は不明。』


手帳を閉じ、鞄にしまう。


駐車場に出ると、夕方の空が薄い橙色に染まっていた。


私は車に乗り込み、エンジンをかけた。


帰ったら、直人にも話しておこう。


今日、水野さんから聞いたことを。


そして、あの返答についても。


私はいつもの道を走り始めた。


研究所では、今日もいつもどおりだった。


少なくとも、周りの人たちにとっては。

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