第15話「いつもどおりの研究所」
週明けの月曜日。
私はいつもと同じ時間に家を出た。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてな」
玄関まで見送りに来た直人に手を振り、車に乗り込んだ。
研究所までは、車で三十分ほど。
道を走りながら、今日の予定を頭の中で確認する。
午前中は細胞の観察と記録の整理。
午後は、先週から続けている実験の経過確認だった。
今日も特別な予定はなかった。
研究所に到着すると、私は職員用の駐車場に車を停めた。
建物の中へ入り、更衣室で白衣に着替える。
廊下では、何人かの研究員とすれ違った。
「おはようございます」
「おはようございます、斉藤さん」
挨拶を交わしながら、研究室へ向かう。
扉を開けると、水野さんがパソコンに向かっていた。
「おはようございます」
「ああ、斉藤さん。おはようございます」
水野さんは画面から顔を上げた。
「週末はゆっくりできましたか?」
「はい。少し出かけてきました」
「それはよかったですね。最近、忙しかったでしょう」
「そうですね。でも、いい気分転換になりました」
私は自分の席に荷物を置き、パソコンを起動した。
机の上には、先週まとめた実験記録が置かれている。
まずは、それを確認することにした。
しばらくすると、ほかの研究員たちも出勤してきた。
研究室にはキーボードを打つ音や、資料をめくる音が響き始める。
午前中の作業が一段落した頃、水野さんが声をかけてきた。
「斉藤さん、先週のデータはまとまりましたか?」
「はい。ちょうど確認していたところです」
「何か気になる点はありました?」
「今のところ、大きな問題はありません」
「そうですか。それならよかった」
水野さんはうなずいた。
私は画面を見ながら、少し考えた。
「水野さん、一つ聞いてもいいですか?」
「はい。何でしょう?」
「細胞の修復って、処置の種類によって違いがありますよね?」
「もちろんです。どのような処置を行うかによって、反応も変わりますから」
「例えば、傷ついた組織が元に戻る場合なんですけど」
「はい」
「修復が終わったあとって、何か痕跡は残るものなんでしょうか?」
水野さんは椅子の背もたれに体を預けた。
「それは損傷の程度によりますね。浅い傷なら、ほとんど分からなくなることもあります」
「なるほど」
「ただ、組織の状態を詳しく調べれば、修復された部分に変化が見つかる場合もありますよ」
私は手元のメモに書き込んだ。
「じゃあ、修復がすごく速かった場合はどうですか?」
「速い?」
「はい。例えば、通常よりずっと短い時間で修復が進むことはあるんでしょうか?」
水野さんは少し考えた。
「それは、かなり特殊な状態ですね」
「やっぱりそうですよね」
「少なくとも、一般的な細胞の修復では考えにくいでしょう」
「処置によっては、そういうことも可能なんでしょうか?」
「理論上は、細胞の働きを大きく変化させることで、修復速度に影響を与えることは考えられます」
「へえ……」
「ただし、実際にどこまで可能かは別の話ですよ」
水野さんはそう言って笑った。
「斉藤さん、面白いところに興味を持ちますね」
「すみません。ちょっと気になって」
「謝ることはありませんよ。疑問を持つのは大切なことですから」
私はうなずき、もう一度画面に目を向けた。
けれど、まだ聞きたいことがあった。
「もう一つだけ、いいですか?」
「どうぞ」
「処置によって変化した細胞の状態って、長期間維持できるものなんでしょうか?」
水野さんは少し首を傾げた。
「処置の内容にもよりますが、一定の状態を維持させる研究はありますよ」
「ずっと、ですか?」
「ずっとというのは難しいですね。通常の細胞には、分裂や維持に限界がありますから」
「そうですよね」
「ただ、細胞の活動を制御することで、通常とは異なる状態を長期間維持するという考え方はあります」
「なるほど……」
私はメモを取る手を止めた。
「でも、それって途中で元に戻ることはないんですか?」
「処置が可逆的なものであれば、元の状態に戻すことも考えられます」
「可逆的?」
「簡単に言えば、変化させた状態を元に戻せるということです」
「じゃあ、逆に戻せない処置もあるんですね」
「ええ。不可逆的な変化を起こすものもあります」
水野さんは机の上に置かれた資料を手に取った。
「そもそも、何をどう変化させたのか分からなければ、元に戻す方法も考えられませんから」
「……確かに」
「それに、長期間維持されている状態を急に変化させれば、予想外の反応が起こる可能性もあります」
「予想外の反応?」
「細胞の機能が正常に戻るとは限りません。逆に、組織に負担がかかることも考えられます」
私はゆっくりうなずいた。
水野さんは少し考えてから、言葉を続けた。
「例えば、長い間変化しなかった組織が、ある処置をきっかけに急激に変化することも、理論上は考えられます」
「……長い間変化しなかった組織、ですか?」
「ええ。ただ、実際にそのような現象が起きるかどうかは、詳しく調べてみないと分かりません」
「そうなんですね」
私はメモに書き加えた。
水野さんは資料を机に戻した。
「何か、今の実験で気になることでもありましたか?」
「いえ。先週のデータを見ていて、少し疑問に思っただけです」
「なるほど」
私はメモを閉じようとして、以前調べた研究資料のことを思い出した。
「そういえば、水野さん。昔の研究についても聞いていいですか?」
「ええ、どうぞ」
「百年以上前に、家畜や養殖魚の間で感染症が広がったんですよね?」
「そうですね。当時は深刻な食糧危機になったとされています」
「その頃、黒田理沙という研究者が処刑されていますよね?」
「ああ、黒田理沙ですか」
「どうして処刑されたんでしょうか?」
「当時の政府の判断だったんですよ。研究の責任を問われたとされていますね」
「でも、感染症が広がったのは、その人のせいだったんですか?」
「さあ、そこまでは分かりませんね。百年以上も前のことですから」
「そうだったんですね」
私はうなずいた。
「それと、当時の研究者たちが写った集合写真を見つけたんです」
「集合写真ですか?」
「はい。その中に、相馬圭介という人がいたんですけど、ご存じですか?」
「いえ、知りませんね」
「黒田理沙と一緒に研究していたみたいなので、気になって」
「百年以上前の研究者ですからね。私も詳しくは知りません」
「そうですよね。ありがとうございます」
集合写真に写っていた相馬圭介。
その顔は、目の前にいる水野さんと驚くほどよく似ていた。
けれど、私はそのことには触れなかった。
水野さんは私が黒田理沙の曾孫であることを知らない。
今は、それでよかった。
水野さんは再びパソコンに向き直った。
私も作業を再開した。
画面には、観察した細胞の画像が並んでいる。
私は一つずつ確認しながら、記録を入力していった。
昼休みになると、同僚に声をかけられた。
「斉藤さん、お昼行きません?」
「あ、はい。今行きます」
私は画面から目を離し、席を立った。
食堂では、研究員たちが昼食を取っていた。
「週末、何してたんですか?」
向かいに座った同僚が聞いてきた。
「ちょっと遠出してました」
「いいですね。私なんて、ずっと家で寝てましたよ」
「それもいい休日じゃないですか」
「まあ、そうなんですけどね」
二人で笑った。
食事を終えると、私は研究室へ戻った。
午後は予定どおり、実験の経過を確認した。
観察結果を記録していると、水野さんから別の資料の確認を頼まれた。
「斉藤さん、これもお願いできますか?」
「はい。今日中で大丈夫ですか?」
「ええ。急ぎではありませんから」
「分かりました」
私は受け取った資料にも目を通し、必要なデータを整理した。
研究室では、それぞれが自分の作業に集中していた。
夕方になり、私は一日の記録を保存した。
「お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
水野さんが顔を上げた。
「斉藤さん」
「はい?」
「午前中に聞いていた細胞の話ですけど」
「はい」
「もし実際にそういう現象が確認されたら、興味深い研究対象になるでしょうね」
「そうですね」
「ただ、細胞の反応というのは複雑です。見た目だけで判断しないことが大切ですよ」
「分かりました。ありがとうございます」
水野さんは微笑んだ。
「それでは、また明日」
「はい。お疲れさまでした」
私は研究室を出た。
廊下を歩きながら、午前中の会話を思い返した。
修復された組織に残る変化。
長期間維持される細胞の状態。
そして、元に戻すことが難しい処置。
どれも、研究者なら知っていておかしくない話だった。
けれど、一つだけ気になったことがある。
私は足を止め、手帳を取り出した。
午前中に書いたメモを読み返す。
『長い間変化しなかった組織が、ある処置をきっかけに急激に変化する』
水野さんが話していた言葉だった。
一般的な説明としては理解できる。
それでも、なぜかその部分が頭から離れなかった。
相馬圭介という名前を聞いたとき、水野さんは知らないと答えた。
本当にそうなのだろうか。
私は手帳に短い一文を書き加えた。
『相馬圭介と水野さんの関係は不明。』
手帳を閉じ、鞄にしまう。
駐車場に出ると、夕方の空が薄い橙色に染まっていた。
私は車に乗り込み、エンジンをかけた。
帰ったら、直人にも話しておこう。
今日、水野さんから聞いたことを。
そして、あの返答についても。
私はいつもの道を走り始めた。
研究所では、今日もいつもどおりだった。
少なくとも、周りの人たちにとっては。




