第14話「休日の外出」
休日の朝。
私はいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンを開けると、外には青空が広がっていた。
「……いい天気」
今日は、直人と少し遠くまで出かける予定だった。
リビングへ向かうと、直人が朝食の準備をしていた。
「おはよう、由紀」
「おはよう。早いね」
「由紀こそ。まだ寝てると思った」
「なんか目が覚めちゃった」
直人は笑いながら、皿をテーブルに並べた。
「今日は結構歩くかもしれないから、ちゃんと食べとけよ」
「分かってるって」
私は椅子に座り、朝食に手を伸ばした。
「ねえ、直人」
「ん?」
「今日、付き合ってくれてありがとう」
「まだ出発もしてないけど?」
「そうだけど」
直人は小さく笑った。
「別にいいよ。由紀と出かけるんだから」
何でもないことのように言われて、私は思わず笑ってしまった。
「……そういうこと、さらっと言うよね」
「何が?」
「何でもない」
直人は不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞いてこなかった。
朝食を済ませ、必要なものを準備してから家を出た。
車に乗り込むと、直人がエンジンをかけた。
「忘れ物ない?」
「たぶん大丈夫」
「たぶんって」
「大丈夫だってば」
「じゃあ、行きますか」
車はゆっくりと走り出した。
窓の外には、見慣れた街並みが流れていく。
しばらく走ると、建物が少なくなり、道路の両側には田畑が広がり始めた。
「なんか、こうやって二人で遠出するの久しぶりだね」
私が言うと、直人は前を向いたまま頷いた。
「そうだな。最近、由紀ずっと忙しかったし」
「直人だって忙しいじゃん」
「まあ、動物相手だからな。こっちの都合なんか関係ないし」
「ふふっ、確かに」
直人は獣医として、毎日さまざまな動物の診療をしている。
急な呼び出しが入ることも珍しくない。
「そういえばさ。昔もよく、こうやって出かけたよな」
「昔?」
「ほら、俺んちの動物たちの餌を買いに行ったり」
「ああ、行ったね!」
思わず声が大きくなった。
「直人のお父さんに連れていってもらったこともあったよね」
「そうそう。由紀、帰りたくないって言い出して」
「えっ、そんなことあった?」
「あったよ。動物の世話がまだ終わってないって」
「……私、そんなに夢中だったんだ」
「毎日のように来てたじゃん」
「だって、楽しかったんだもん」
直人の家では、昔からさまざまな動物を飼っていた。
犬や猫だけでなく、ウサギや鳥などもいて、幼い私にとっては小さな動物園のような場所だった。
餌をあげたり、小屋を掃除したり。
最初は怖くて触れなかった動物も、直人と一緒なら少しずつ近づくことができた。
「由紀、ウサギに指かじられたこともあったよな」
「あった! あれ、すごくびっくりした!」
「餌と間違えられたんだよ」
「直人、あのとき笑ってたでしょ」
「笑ってないって」
「絶対笑ってた!」
「ちょっとだけな」
「ほら!」
二人で笑った。
あの頃は、毎日が新しい発見の連続だった。
動物の体温も、鼓動も、食べるものも。
同じ生き物なのに、こんなに違うのかと驚いてばかりいた。
「直人、昔から動物のこと詳しかったよね。私、いつも直人に聞いてた気がする」
「今も聞いてくるじゃん」
「今はちゃんと研究者として聞いてるの」
「はいはい」
「何、その返事」
「いや、昔と変わんないなって」
私は少し頬を膨らませた。
けれど、すぐに笑ってしまった。
しばらくすると、車は山あいの道へ入った。
窓の外には木々が増え、街中とは違う景色が広がっていた。
私は流れていく景色を眺めながら、ふと昔のことを思い出した。
「ねえ、直人」
「ん?」
「私が学校で嫌なこと言われてたときのこと、覚えてる?」
直人は少しだけ表情を変えた。
「……覚えてるよ」
「曾祖母のことで、いろいろ言われてた頃」
「うん」
「直人、いつも助けてくれたよね」
「そんな大したことしてないよ」
「そんなことない」
私は首を横に振った。
「私、あの頃は学校に行くのも嫌だったんだ」
直人は黙って聞いていた。
「でも、直人がいてくれたから、学校に行けた日もあったし、普通に笑えた日もあった。本当は、ずっとお礼を言いたかったんだよね」
「今まで何回も言ってるだろ」
「そうだけど、何回言っても足りないくらい」
直人は少し照れたように笑った。
「俺だって、由紀がいたから楽しかったこといっぱいあるよ」
「そうなの?」
「そりゃそうだろ。毎日一緒に遊んでたんだから」
「ふふっ、そうだね」
少しの間、車内に穏やかな沈黙が流れた。
やがて、直人が口を開いた。
「でも、まさか結婚するとは思わなかったな」
「えっ、そう?」
「子どもの頃は、そんなこと考えてなかったし。大学生になって、由紀から結婚の話が出たときは驚いたよ」
私は思わず直人を見た。
「そんなに?」
「そりゃ驚くだろ。まだ学生だったんだぞ」
「でも、ちゃんと考えてたんだよ?」
「知ってる」
直人は笑った。
「由紀が研究を続けたいことも、将来どうしたいかも、全部聞いてたから。それに、俺も由紀と一緒にいたかったし」
私は少し俯いた。
結婚してから、もう何年も経つ。
大学での勉強、大学院での研究、そして研究所への就職。
忙しくて帰りが遅くなった日も、研究が思うように進まなかった日も、直人はいつもそばにいてくれた。
何も聞かずに食事を用意してくれたり、話を聞いてくれたりした。
「……ねえ、直人。私と結婚して、後悔したことない?」
「何だよ、急に」
「ちょっと聞いてみたくなっただけ」
直人は少し考えるような顔をした。
「後悔か……」
「……ある?」
「ないな」
あまりにもあっさりした返事だった。
「即答じゃん」
「だって、ないし」
「私、研究ばっかりしてるよ?」
「知ってる」
「家でも資料読んでるし」
「知ってる」
「最近なんて、休みの日も調べ物してるし」
「それも知ってる」
「……直人」
「何?」
「もうちょっと何か言ってよ」
直人は笑った。
「じゃあ、たまには俺のことも構ってください」
「えっ」
「冗談だよ」
「もう!」
私は思わず笑ってしまった。
「でもさ」
直人は前を向いたまま続けた。
「由紀がやりたいことをやれてるなら、それでいいと思ってるよ。もちろん、無理してるときは止めるけど」
「それは分かってる」
「だったらいいじゃん」
私は膝の上で手を重ねた。
「……ありがとう、直人。私、直人と結婚してよかった」
直人は一瞬こちらを見て、それから小さく笑った。
「俺もだよ」
その言葉が、胸の奥にゆっくりと染み込んでいくようだった。
車はさらに山道を進んだ。
途中、休憩のために小さな駐車場へ立ち寄った。
車を降りると、ひんやりとした空気が頬に触れた。
「うわ、涼しい!」
「街中と全然違うな」
私は大きく背伸びをした。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。
「ねえ、直人。今日のこと、誰かに聞かれたらどうする?」
「普通にドライブしてきたって言えばいいんじゃない?」
「……そうだね」
「何か気になる?」
私は少し考えてから首を横に振った。
「ううん。大丈夫」
直人はそれ以上、何も聞かなかった。
私が何かを調べていることは知っている。
それでも、必要以上に踏み込んでこない。
昔から、そういう人だった。
休憩を終えると、再び車に乗り込んだ。
目的地に近づくにつれて、道は次第に狭くなっていった。
やがて直人は、山道の脇にある小さな駐車スペースに車を停めた。
「この辺りだな」
「うん。ここからは歩こう」
私たちは荷物を確認した。
懐中電灯、飲み物、そして曾祖母の植物図鑑から見つかった古い鍵。
言い伝えが書かれた紙も持ってきていた。
車を降りると、木々に囲まれた細い道が続いていた。
「足元、気をつけて」
「うん」
直人が先に進み、歩きにくいところでは手を差し伸べてくれた。
「ありがとう」
「転んだら大変だからな」
「子ども扱いしてない?」
「してないって」
私は差し出された手を握った。
しばらく歩くと、岩肌がむき出しになった場所に出た。
白っぽい岩が重なり、その奥に小さな穴が開いている。
「……あれかな」
直人が指さした。
私は持ってきた紙を広げた。
『白き山の懐に、眠る花あり。』
「……白い岩」
「石灰岩だな」
「じゃあ、あそこが……」
私たちは顔を見合わせた。
「行ってみよう」
「うん」
洞窟の入口は、人がかがめば通れるほどの大きさだった。
中を覗くと、奥は暗く、どこまで続いているのか分からない。
直人が懐中電灯をつけた。
「無理そうだったら戻ろうな」
「うん」
私たちは足元を照らしながら、ゆっくりと洞窟に入った。
外の光が届かなくなるにつれて、空気がひんやりとしてきた。
天井から、ときおり水滴が落ちてくる。
ぽちゃん。
静かな洞窟に、水の音が響いた。
「……本当に水が滴ってる」
「言い伝えに書いてあったな」
私は紙を確認した。
『天の雫が石の皿を満たし、
水は留まらず、絶えず巡る。』
「……この先にあるのかな」
「行ってみよう」
少し歩くと、洞窟の奥に人工的なものが見えてきた。
「……あれ?」
私は足を止めた。
岩壁の間に、古びた鉄の扉が設置されていた。
「扉……?」
直人が近づいた。
扉には、南京錠がかかっている。
表面は黒ずんでいたが、形はしっかりと残っていた。
「こんなところに扉があるなんて……」
「誰かが作ったんだろうな」
私は南京錠を見つめた。
そして、鞄の中に入れていた古い鍵を思い出した。
「……直人」
「ん?」
「もしかして、これ……」
私は鍵を取り出した。
直人が目を見開いた。
「まさか、その鍵で?」
「……試してみる」
私は南京錠の鍵穴に、ゆっくりと鍵を差し込んだ。
ぴったりと収まった。
「……入った」
「回してみて」
私は慎重に鍵を回した。
少し抵抗があったものの、鍵はゆっくりと動いた。
カチリ。
小さな音が響いた。
「……開いた」
直人が驚いたように南京錠を見つめた。
「本当に開いたな……」
私は南京錠を外した。
直人と一緒に扉を押す。
重い音を立てながら、扉がゆっくりと開いた。
「……えっ?」
思わず声が漏れた。
扉の向こうには、想像していたものとはまったく違う景色が広がっていた。
岩壁に囲まれた広い空間。
見上げると、天井の一部が大きく開け、青い空が見えた。
そこから柔らかな日差しが差し込んでいる。
「……こんな場所があったんだ」
直人も驚いたように周囲を見渡した。
岩の隙間からは澄んだ水が湧き出し、白い石の窪みを満たしていた。
溢れた水は細い流れとなって、岩の間を通っている。
私は言い伝えの紙を取り出した。
『天の雫が石の皿を満たし、
水は留まらず、絶えず巡る。』
「……これだ」
「言い伝えのとおりだな」
私はゆっくりと奥へ目を向けた。
そして、息を呑んだ。
「……直人、見て」
そこには、無数の白い花が咲いていた。
細い茎の先に、六枚の花びらが広がっている。
日の光を受けた白い花が、岩壁に囲まれた空間一面に咲き誇っていた。
「……すごい」
私は鞄から植物図鑑の写しを取り出した。
描かれている花と、目の前の花を見比べる。
「……同じだ」
「じゃあ、これが……」
「時待草……」
私はもう一度、言い伝えを読んだ。
『百年の時を待ち、白き花は目を覚ます。』
「……本当にあったんだ」
直人は周囲を見渡した。
「日光も入るし、水もある。ここなら植物が育つ環境は整ってるな」
「うん……」
私は花の周囲に目を向けた。
岩の間には土が残り、湧き水がその近くを流れている。
「でも、どうしてこんな場所に……」
洞窟の奥に設置されていた扉。
植物図鑑に隠されていた鍵。
そして、この花が育つ環境。
「……もしかして、曾祖母が?」
直人が私を見た。
「ここを用意したってこと?」
「分からない。でも、偶然とは思えないの」
私はもう一度、白い花を見つめた。
曾祖母は、どうしてこの場所を隠したのだろう。
どうして、百年に一度しか咲かない花を守ろうとしたのだろう。
その理由は、まだ分からない。
けれど、ようやく曾祖母が残したものに辿り着いた。
そんな気がした。
「由紀、どうする?」
直人が尋ねた。
私は花を見つめた。
「……少し、持って帰りたい」
「調べるため?」
「うん。曾祖母が残したものなら、何か意味があるはずだから」
直人は頷いた。
「分かった。でも、慎重にな」
「うん」
私は持参した容器を取り出した。
花の状態を一つずつ確かめながら、傷つけないように慎重に採取していく。
直人も隣で手伝ってくれた。
「……これで大丈夫かな」
「たぶんな。帰ったらすぐ確認しよう」
「うん」
私は容器を鞄にしまった。
残った花には触れず、周囲の環境もできるだけ変えないようにした。
最後にもう一度、辺りを見渡した。
青い空。
岩の隙間から湧き出す水。
そして、一面に広がる白い花。
百年以上前、曾祖母もこの景色を見ていたのだろうか。
私は小さく息を吐いた。
「……行こうか」
直人が言った。
「うん」
私たちは扉を閉め、南京錠をかけ直した。
洞窟を出ると、外の光がまぶしく感じられた。
私は大きく息を吸った。
「……なんだか、すごい一日になっちゃったね」
「そうだな」
直人は笑った。
「普通のドライブじゃなかったな」
「ふふっ、確かに」
私たちは来た道を戻り、車へ向かった。
帰り道、直人がコンビニに寄ってくれた。
私は温かい飲み物を買い、助手席に座った。
「今日、楽しかった?」
直人が聞いてきた。
「うん。楽しかった」
「それならよかった」
私は飲み物を両手で包んだ。
「……ねえ、直人。また、こうやって出かけようね」
「いいよ。今度は普通に遊びに行こう」
「普通にって何?」
「美味しいもの食べたり、観光したり。最近、そういうのしてないだろ?」
「確かに」
私は少し考えた。
「じゃあ、今度は私が行き先決めるね」
「また山奥だったりして」
「そんなことないって!」
「どうだかな」
「もう、信用ないなあ」
直人は楽しそうに笑った。
私もつられて笑った。
家に着いた頃には、すっかり夕方になっていた。
荷物を運び込み、私はすぐに容器の中身を確認した。
「由紀、夕飯どうする?」
キッチンから直人の声が聞こえた。
「簡単なのでいいよ。私も手伝う」
「分かった。じゃあ、先に準備してるな」
「うん、ありがとう」
私は持ち帰った花を一つずつ確かめた。
傷んでいる様子はない。
「由紀、どうだった?」
夕食の準備を一段落させた直人が、隣に来た。
「うん。大丈夫そう」
直人も容器の中を覗き込んだ。
第14話「休日の外出」
「……これって、あの図鑑に描かれてた花だよな?」
「うん。特徴も一致してる」
「こんなにたくさん必要なのか?」
「まだ分からない。でも、詳しく調べてみたいの」
私は容器の中の花を見つめた。
「これ、料理帳に暗号まで隠して、守っていたんだよね。栽培方法だって、数え歌に隠していたし。きっと何か特別なものなんだと思う」
「そうだね」
「これで、ようやく確かめられるかもしれない」
「そうだね」
「うん。でも、その前に確かめなきゃいけないことがあるの。あと曾祖母だけが責任を取らされた理由も、まだ分かっていないから」
「うん」
「……もう少し、私に付き合ってね」
直人は私を見た。
「今さら何言ってんだよ。最初から、そのつもりだろ? 最後まで付き合うよ」
「……ありがとう」
私は小さく笑った。
持ち帰った花を、あらかじめ用意しておいた場所へ移した。
扱いには十分注意しなければならない。
少しでも状態が変われば、これまでの時間が無駄になってしまうかもしれない。
私は最後に状態を確認し、静かに扉を閉めた。
「……よし」
これで、ひとまず大丈夫だろう。
リビングへ戻ると、直人が夕食の準備を続けていた。
「終わった?」
「うん」
「じゃあ、こっち手伝って」
「はーい」
私は手を洗い、直人の隣に立った。
いつもと変わらない夕食の準備。
いつもと変わらない、二人の時間。
けれど、今日という日は、私にとって大切な一日になった。
「由紀、今日は早めに寝ろよ。結構歩いたんだから」
「直人こそ」
「俺は平気」
「さっき疲れたって言ってたじゃん」
「……覚えてたか」
「もちろん」
私たちは顔を見合わせて笑った。




