賢者の術式
賢者の術式/
ある大国の西の端
隣国へ抜ける街道沿いにある
岩山に龍が棲みついた
旅人たちは大いに困り
陳情が山となった
時の宰相は遠く旅をして
一人の賢者を見出した
北の山の奥に
その賢者はいた
姿は透き通り
淡い虹色であり
景色が透けて見えた
宰相が頼むと
優しい眼差しで頷き
山を下りた
宰相の一行と共に賢者は歩んだ
緩やかな歩みであったが
騎馬の疾駆にも悠然と付き添い
常に穏やかであった
賢者が一行にそのまま
龍の元へ連れていけと言ったので
宰相たちは
龍の岩山へ向かった
いよいよ近づいてみれば
辺りは不気味に静かであった
背丈程も伸びた草を掻き分け
岩山まで二駈けの距離へ近づくと
草木は枯れて景色が開け
すっかりと岩山の斜面が見えた
そこに龍の棲み処であろう
洞窟の入り口が黒々とあった
賢者は
一行にここで待てと言い捨てて
滑るような足取りで
一人洞窟へ入って行った
その奥には
果たして巨大な龍がいた
龍は憤怒の眼差しで賢者を捉えたが
賢者の身は既に虚ろであるから
全ての干渉をすり抜けてしまうので
龍は何も出来なかった
悪夢の顎をしても
賢者の頭を噛み砕くことも出来ず
災厄の爪をしても
賢者の身を切り裂くことも出来ず
暗黒の息をしても
賢者を窒息させることも出来なかった
賢者は龍が治まるのを待ち
まるで犬を宥めるように
彼を伏せさせて
その大きく黒い瞳を見下ろし
穏やかに諭した
若き黒龍よ
この術式により
汝の中に無償の幻を宿らしめる
汝が無垢なれば
その身は健やかなままに
もしも邪なれば
幻は堂々たる水晶の柱を具現するだろう
汝はその贖いとして
その身を捧げねばならない
賢者は懐より
ひとかけらの陽炎を取り出し
龍の首元に置いた
それは賢者の一部のようであったが
やがて龍の中へ溶けていった
その時 黒い龍は
びくっと震えて目を閉じた
賢者が洞窟より出でたので
宰相は賢者へ龍について問うたが
賢者は
彼は己の身をもって
潔白を贖うだろう
と語るのみであった
そして
しばらくは静かなままであったが
突然に
龍の洞窟より咆哮が響き渡り
すぐに轟音と共に
突き上げるように足元が大きく揺れた
目の前の岩山が弾けるように割れて崩れ
一行の上へも岩礫が降り注いだ
賢者は
何事かと慌てる一堂を落ち着かせると
なぜか少し沈んだ面持で
崩れた岩山の方を指さした
そこには
巨大な水晶の柱の一部が突き出ていて
場違いなほどに柔らかな
昼下がりの陽光に輝いていた
唖然としたままの宰相に向かい
賢者は言った
彼の龍を滅ぼしたのは
わたしではない
彼は己の邪を贖うために
その身の全てを捧げたのだ
あの龍は若すぎたのだろうか
あるいは手遅れだったのだのだろうか
宰相が龍の脅威は去ったのだなと問うと
賢者は
彼は一つの変化でしかない
全ては常に世に満ちている
邪さを脅威と言うならば
それは今も昔も無くなることはない
しかしそれでも
無垢もまた満ちているものなれば
不変の理として
それを生きることは出来よう
そして
賢者は懐より
ひとかけらの陽炎を取り出し
宰相の胸元へ近づけた
それは賢者の一部のようであったが
やがて宰相の中へ溶けていった
宰相は
びくっと震え思わず目を閉じた
賢者は彼の恐れが治まるのを待ち
まるで犬を宥めるように
彼を伏せさせて
その知性の瞳を見下ろし
穏やかに諭した
若き宰相よ
この術式により
汝の中に無償の幻を宿らしめる
汝が無垢なれば
その身は健やかなままに
もしも邪なれば
幻は堂々たる水晶の柱を具現するだろう
汝はその贖いとして
その身を捧げねばならない
宰相は大いにまた恐れ
賢者を捕えようとしたが
賢者の身は既に虚ろであるから
全ての干渉をすり抜けてしまうので
彼らには何も出来なかった
そして賢者は
彼らから離れたところに立った
その姿は
次第にますます朧になり
遂には
一陣の風に紛れて消えてしまった
一行は茫然としたまま
ただ賢者のいた辺りを見つめていたが
宰相だけは
かつて龍であった水晶の柱を
睨みつけて何時までも動かなかった
その後
宰相は一生をひたむきに努めて
邪な思いを遂に大きくすることはなく
国は大いに栄えた
人々は賢者のことを
いつしか忘れてしまったが
野に遊ぶ子どもらは
時折
どこからともなく注がれる
優し気な眼差しを感じることがあるという
邪さは小さな手段でありたい。無垢であることを見失わず生きることは哀しいが、それでもその苦しみは古来人間の背負ってきた罪と呼ばれてきた。これに迷えば穢れが生じ、我々は祓えにてそれを祓ってきたのだ。大晦日には大祓が行われる。これはそのためであろう。