↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/19

第八章 わしの手

源さん ── 二〇一六年八月


 あの晩、わしは縁側でうとうとしとった。

 祭りの晩は、毎年そうや。港で花火が上がって、若いもんが騒いで、それが静かになったころに、蚊取り線香を焚いて、縁側で団扇を使いながら寝てしまう。七十六にもなると、布団まで行くのが面倒になる。

 網小屋の裏では、葉山の娘と朝倉の坊主が花火をしとった。あの二人は、ちっこいころから網小屋の裏で遊んどった。坊主が網の浮きを蹴飛ばして、娘がそれを叱る。そういう二人やった。

 バケツを貸してやった。火の始末だけはせえよ、と言うた。二人とも、はい、と言うた。九時ごろに、自転車の音が遠ざかっていくのを、夢うつつで聞いた。

 それから、どれくらい寝とったか分からん。


 ひゅう、という音で目が覚めた。

 続けて、ぱん、と乾いた音がした。

 花火や、と思った。まだ誰か遊んどるんか、と。寝ぼけた頭で縁側から顔を出すと、網小屋の軒のあたりが、ぼうっと赤かった。

 目をこすった。赤いのは、消えんかった。大きくなっとった。

 軒下には、繕いの済んだ網を干しとった。その奥に、船外機の燃料缶を置いとった。

 わしは裸足で飛び出した。

 防波堤のほうへ、ちっこい影が走っていくのが見えた。

 子どもや。背丈は、わしの胸くらいしかない。頭に野球帽をかぶっとった。一瞬、網小屋の火に照らされて、帽子のつばの裏が白く光った。何か、白い糸で縫い取りがしてあった。

「こら!」

 怒鳴ったが、影は止まらんかった。防波堤の上を、町のほうへ一目散に走って、闇に消えた。


 追いかけるより先に、網や。

 あれは漁師たちから預かった網やった。何十年も、わしが繕ってきた網や。燃やすわけにはいかん。

 軒下に飛び込んで、干してある網をつかんで引きずり出そうとした。熱い、と思う間もなかった。網のナイロンが溶けて、手のひらに張りついた。放そうとしても放れん。燃料缶のあたりで、ごう、と音がした。

 もうあかん、と思うた。

 そのとき、後ろから腕をつかまれた。

「源さん!」

 女の子の声やった。

 つかまれた腕を、ものすごい力で引っぱられた。わしは網を手に張りつかせたまま、後ろに尻もちをついた。その子は、わしの手から網をむしり取った。自分の手で。

 燃えとる網を、素手でや。

「源さん、離れて! 早く!」

 葉山の娘やった。

 Tシャツに、裸足にサンダル。髪は濡れとった。風呂上がりのまま走ってきたような格好やった。わしを引きずって、防波堤の陰まで下がらせた。娘の左手から、嫌な匂いがしとった。

 近所の家に灯りがついた。誰かが叫んだ。遠くでサイレンが鳴りはじめた。

 娘は、わしの横にしゃがみこんで、燃える網小屋を見とった。

 泣いてはおらんかった。ただ、唇を噛んで、じっと見とった。


 娘がどっちから走ってきたか、わしは見とった。

 町のほうからや。

 あの子どもが逃げていったのと、同じ方角から。


   ◇


 市内の病院に運ばれて、両手に包帯を巻かれた。医者は、指が動くようになるかどうかは分からん、と言うた。

 その二日後の朝、葉山の娘が来た。

 甥の圭介に乗せてもらった、と言うた。圭介は、気を遣ったんか、カーテンの外で待っとった。

 娘は、ベッドの足元に立った。左手に、ちゃんとした包帯が巻いてあった。それから、深く頭を下げた。

「私が、花火で火をつけました」

 はっきりした声やった。

「九時にいったん家に帰って、残りのロケット花火を持って、ひとりで戻りました。網小屋のほうに飛んでいって、火がつきました。怖くなって逃げて、でも戻りました。……弁償します。警察にも行きます」

 一気に、そう言うた。

 昨夜のうちに、何べんも練習してきたような言い方やった。

 わしは、娘の顔を見た。それから、包帯の左手を見た。

 あの晩、燃える網をわしの手から引きはがした手や。

 花火で火をつけて、怖くなって逃げたもんが、わざわざ燃えとる小屋に戻ってきて、年寄りを火の中から引きずり出すか。

 逃げていったんは、野球帽をかぶった、胸くらいまでしかない子どもやった。

 この娘は、背丈も、髪も、何もかも違う。

「顔、上げえ」

 娘は顔を上げなかった。

「上げえ言うとる」

 ようやく、上げた。目が真っ赤やった。眠っとらん顔やった。

 わしは、しばらく黙っとった。

 あの帽子のつばの、白い縫い取りのことを思い出しかけた。この町で少年野球をやっとる子どもの数など、たかが知れとる。その中で、帽子に母親か姉さんが名前を縫うてやるような家は——

 そこで、考えるのをやめた。


「圭介」

 カーテンの向こうに声をかけた。

「駐在の島田さんに電話してくれ。話がある、言うて」

 娘の顔から、血の気が引いた。

「源さん、私が自分で——」

「お前は黙っとれ」


 昼過ぎに、島田が来た。

 娘には、廊下で待っとれと言うた。

 わしは島田に、蚊取り線香の話をした。縁側で焚いとった線香を、網小屋の軒下に持っていって、消し忘れた。年寄りの不始末や。誰のせいでもない。わしのせいや。

 島田は、しばらく黙ってわしの顔を見とった。

「源さん。蚊取り線香は縁側に置いとったんと違うか」

「年寄りは、あっちこっち持って歩くんや」

「防波堤に、ロケット花火の棒が落ちとったんやが」

「祭りの晩や。どこにでも落ちとる」

 島田は、長いこと、何も言わんかった。それから、手帳を閉じた。

「……分かった。源さんがそう言うんなら、そういうことにしとこう」

「すまんな」

「謝られる筋合いはない」

 島田は帽子をかぶって、出ていった。廊下で、娘に何か声をかけていくのが聞こえた。


 夕方、娘がもう一度病室に入ってきた。

 今度は、ベッドの横の椅子に座らせた。

「お前は、やっとらん」

 わしは言うた。

 娘の肩が、びくりと動いた。

「わしが見た。お前は町のほうから走ってきて、わしを引っぱり出した。それだけや。それ以外のことは、わしは何も見とらん」

「でも——」

「誰が、とは聞かん」

 娘は、わしの顔を見た。

「聞かんし、言わんでええ。お前が言いたくないことは、わしも知りとうない。それでええ」

 娘の目から、涙がぼろぼろこぼれた。声は出さんかった。膝の上で、包帯の手を握りしめとった。

 しばらくして、娘は言うた。

「それでも、弁償させてください」

「いらん」

「させてください。お願いします」

 頑固な子や、と思った。昔から、そうやった。網の浮きを蹴飛ばした坊主に、謝るまで口をきかんかった。

 わしは、包帯でぐるぐる巻きの自分の両手を見た。

 医者の言うとおりなら、この手はもう、網の目を結べん。何十年も、この町の漁師の網を繕ってきた手や。

「そんなら」

 わしは言うた。

「わしの手になれ」

 娘が顔を上げた。

「わしはもう、網が編めん。お前が編め。わしが教える。それが弁償や。……できるか」

 娘は、しばらくわしの両手を見とった。

 それから、涙を手の甲で拭いて、うなずいた。

「はい」

 それが、あの子がわしの弟子になった日や。


 あの晩のことを、わしは十年、誰にも話さんかった。

 島田にも、圭介にも、娘にもや。

 燃える網小屋の明かりで、あの子どもの帽子のつばが白く光ったとき、白い糸で縫い取りがしてあるのが見えた。平仮名で、何か書いてあった。

 わしは、それを読まんことにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。