第八章 わしの手
源さん ── 二〇一六年八月
あの晩、わしは縁側でうとうとしとった。
祭りの晩は、毎年そうや。港で花火が上がって、若いもんが騒いで、それが静かになったころに、蚊取り線香を焚いて、縁側で団扇を使いながら寝てしまう。七十六にもなると、布団まで行くのが面倒になる。
網小屋の裏では、葉山の娘と朝倉の坊主が花火をしとった。あの二人は、ちっこいころから網小屋の裏で遊んどった。坊主が網の浮きを蹴飛ばして、娘がそれを叱る。そういう二人やった。
バケツを貸してやった。火の始末だけはせえよ、と言うた。二人とも、はい、と言うた。九時ごろに、自転車の音が遠ざかっていくのを、夢うつつで聞いた。
それから、どれくらい寝とったか分からん。
ひゅう、という音で目が覚めた。
続けて、ぱん、と乾いた音がした。
花火や、と思った。まだ誰か遊んどるんか、と。寝ぼけた頭で縁側から顔を出すと、網小屋の軒のあたりが、ぼうっと赤かった。
目をこすった。赤いのは、消えんかった。大きくなっとった。
軒下には、繕いの済んだ網を干しとった。その奥に、船外機の燃料缶を置いとった。
わしは裸足で飛び出した。
防波堤のほうへ、ちっこい影が走っていくのが見えた。
子どもや。背丈は、わしの胸くらいしかない。頭に野球帽をかぶっとった。一瞬、網小屋の火に照らされて、帽子のつばの裏が白く光った。何か、白い糸で縫い取りがしてあった。
「こら!」
怒鳴ったが、影は止まらんかった。防波堤の上を、町のほうへ一目散に走って、闇に消えた。
追いかけるより先に、網や。
あれは漁師たちから預かった網やった。何十年も、わしが繕ってきた網や。燃やすわけにはいかん。
軒下に飛び込んで、干してある網をつかんで引きずり出そうとした。熱い、と思う間もなかった。網のナイロンが溶けて、手のひらに張りついた。放そうとしても放れん。燃料缶のあたりで、ごう、と音がした。
もうあかん、と思うた。
そのとき、後ろから腕をつかまれた。
「源さん!」
女の子の声やった。
つかまれた腕を、ものすごい力で引っぱられた。わしは網を手に張りつかせたまま、後ろに尻もちをついた。その子は、わしの手から網をむしり取った。自分の手で。
燃えとる網を、素手でや。
「源さん、離れて! 早く!」
葉山の娘やった。
Tシャツに、裸足にサンダル。髪は濡れとった。風呂上がりのまま走ってきたような格好やった。わしを引きずって、防波堤の陰まで下がらせた。娘の左手から、嫌な匂いがしとった。
近所の家に灯りがついた。誰かが叫んだ。遠くでサイレンが鳴りはじめた。
娘は、わしの横にしゃがみこんで、燃える網小屋を見とった。
泣いてはおらんかった。ただ、唇を噛んで、じっと見とった。
娘がどっちから走ってきたか、わしは見とった。
町のほうからや。
あの子どもが逃げていったのと、同じ方角から。
◇
市内の病院に運ばれて、両手に包帯を巻かれた。医者は、指が動くようになるかどうかは分からん、と言うた。
その二日後の朝、葉山の娘が来た。
甥の圭介に乗せてもらった、と言うた。圭介は、気を遣ったんか、カーテンの外で待っとった。
娘は、ベッドの足元に立った。左手に、ちゃんとした包帯が巻いてあった。それから、深く頭を下げた。
「私が、花火で火をつけました」
はっきりした声やった。
「九時にいったん家に帰って、残りのロケット花火を持って、ひとりで戻りました。網小屋のほうに飛んでいって、火がつきました。怖くなって逃げて、でも戻りました。……弁償します。警察にも行きます」
一気に、そう言うた。
昨夜のうちに、何べんも練習してきたような言い方やった。
わしは、娘の顔を見た。それから、包帯の左手を見た。
あの晩、燃える網をわしの手から引きはがした手や。
花火で火をつけて、怖くなって逃げたもんが、わざわざ燃えとる小屋に戻ってきて、年寄りを火の中から引きずり出すか。
逃げていったんは、野球帽をかぶった、胸くらいまでしかない子どもやった。
この娘は、背丈も、髪も、何もかも違う。
「顔、上げえ」
娘は顔を上げなかった。
「上げえ言うとる」
ようやく、上げた。目が真っ赤やった。眠っとらん顔やった。
わしは、しばらく黙っとった。
あの帽子のつばの、白い縫い取りのことを思い出しかけた。この町で少年野球をやっとる子どもの数など、たかが知れとる。その中で、帽子に母親か姉さんが名前を縫うてやるような家は——
そこで、考えるのをやめた。
「圭介」
カーテンの向こうに声をかけた。
「駐在の島田さんに電話してくれ。話がある、言うて」
娘の顔から、血の気が引いた。
「源さん、私が自分で——」
「お前は黙っとれ」
昼過ぎに、島田が来た。
娘には、廊下で待っとれと言うた。
わしは島田に、蚊取り線香の話をした。縁側で焚いとった線香を、網小屋の軒下に持っていって、消し忘れた。年寄りの不始末や。誰のせいでもない。わしのせいや。
島田は、しばらく黙ってわしの顔を見とった。
「源さん。蚊取り線香は縁側に置いとったんと違うか」
「年寄りは、あっちこっち持って歩くんや」
「防波堤に、ロケット花火の棒が落ちとったんやが」
「祭りの晩や。どこにでも落ちとる」
島田は、長いこと、何も言わんかった。それから、手帳を閉じた。
「……分かった。源さんがそう言うんなら、そういうことにしとこう」
「すまんな」
「謝られる筋合いはない」
島田は帽子をかぶって、出ていった。廊下で、娘に何か声をかけていくのが聞こえた。
夕方、娘がもう一度病室に入ってきた。
今度は、ベッドの横の椅子に座らせた。
「お前は、やっとらん」
わしは言うた。
娘の肩が、びくりと動いた。
「わしが見た。お前は町のほうから走ってきて、わしを引っぱり出した。それだけや。それ以外のことは、わしは何も見とらん」
「でも——」
「誰が、とは聞かん」
娘は、わしの顔を見た。
「聞かんし、言わんでええ。お前が言いたくないことは、わしも知りとうない。それでええ」
娘の目から、涙がぼろぼろこぼれた。声は出さんかった。膝の上で、包帯の手を握りしめとった。
しばらくして、娘は言うた。
「それでも、弁償させてください」
「いらん」
「させてください。お願いします」
頑固な子や、と思った。昔から、そうやった。網の浮きを蹴飛ばした坊主に、謝るまで口をきかんかった。
わしは、包帯でぐるぐる巻きの自分の両手を見た。
医者の言うとおりなら、この手はもう、網の目を結べん。何十年も、この町の漁師の網を繕ってきた手や。
「そんなら」
わしは言うた。
「わしの手になれ」
娘が顔を上げた。
「わしはもう、網が編めん。お前が編め。わしが教える。それが弁償や。……できるか」
娘は、しばらくわしの両手を見とった。
それから、涙を手の甲で拭いて、うなずいた。
「はい」
それが、あの子がわしの弟子になった日や。
あの晩のことを、わしは十年、誰にも話さんかった。
島田にも、圭介にも、娘にもや。
燃える網小屋の明かりで、あの子どもの帽子のつばが白く光ったとき、白い糸で縫い取りがしてあるのが見えた。平仮名で、何か書いてあった。
わしは、それを読まんことにした。




