第七章 蚊取り線香
湊 ── 二〇二六年八月
「島田さんなら、毎日赤灯台の下で釣りしとるよ」
浜屋の女将さんは、昼の素麺を出しながらそう教えてくれた。
「駐在さん、定年でやめてからも、この町に残ってね。奥さん亡くしてからは、ずっと釣り。何か用?」
「昔、ちょっとお世話になって」
嘘ではなかった。でも、本当でもなかった。僕は島田さんに世話になった覚えなどない。会ったことがあるかどうかも、怪しかった。
あんた、港のそばのコンビニにいたでしょ。駐在さんにも、そう話したって。
千尋の声が、頭から離れなかった。
赤灯台は、防波堤の先端に立っている。
コンクリートの上を歩いていくと、灯台の根元の日陰に、麦わら帽子をかぶった老人が一人、折りたたみ椅子に座っていた。竿が二本、海に向かって出ている。クーラーボックスの上に、飲みかけの缶コーヒーが置いてあった。
「島田さんですか」
老人は顔を上げずに言った。
「そうやが」
「朝倉といいます。十年前、この町に住んでいた」
竿の先を見ていた老人の目が、ゆっくりとこちらを向いた。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれていた。
「朝倉……ああ」
島田さんは麦わら帽子のつばを少し上げた。
「朝倉さんとこの息子か。東京の大学に行った」
「はい」
「葉山さんとこの、あの子の新盆か」
島田さんは、それだけで全部分かったような顔をした。
僕はクーラーボックスの横にしゃがんだ。
「十年前の、網小屋の火事のことを聞きたいんです」
「ほう」
「あの夜、僕、港の近くのコンビニにいました。そのことを、片桐が島田さんに話したって聞いて」
島田さんは竿を一本上げて、餌を確かめ、また投げた。仕掛けが水面に落ちる、ぽちゃんという音がした。
「話したよ。片桐の坊主がな。十時半ごろ、朝倉くんが自転車で来た、と」
「それで」
「あんたに話を聞くつもりやった」
島田さんは、あっさりと言った。
「火事の翌々日の昼にな。家に行くつもりで、段取りまでしとった」
背中を、汗とは違う冷たいものが伝った。
「僕に……ですか」
「祭りの夜、網小屋の裏で花火をしとった高校生が二人おった。何人も見とる。葉山の娘さんと、朝倉さんとこの息子や。そのうちの一人が、夜中に現場のそばにおった。話を聞かんわけにはいかんやろう」
当たり前のことを話すような口調だった。実際、当たり前のことなのだろう。
「でも、話を聞かれた覚えはないです」
「そうやろうな」
島田さんは缶コーヒーを一口飲んだ。
「行く前に、源さんから呼ばれたんや。病院から。話がある、とな」
「火事のあと、現場はどうなってたんですか」
「どうもこうもない。小屋は半分焼け落ちて、軒下は丸焼けや。何が火元か、はっきりしたことは分からんかった」
島田さんは、遠くを見るような目をした。
「裏手に、水の入ったバケツがあった。花火の燃えさしが、きれいに沈めてあった。始末のいい子らやなと思った」
僕と灯のバケツだ。二人で一本ずつ確かめた。
「それとな。防波堤の上に、ロケット花火の棒が一本落ちとった」
「ロケット花火?」
声が少し上ずった。
「焦げた棒や。まだ新しかった。網小屋のほうを向いて落ちとった」
ロケット花火。
あの夜、僕たちはロケット花火をやっていない。網があるから危ない、と灯が言った。やらないって、と僕は答えた。花火の残りは、ロケット花火も含めて全部袋に入れて、灯の家の前で灯に渡した。
これ、蒼にやって。大人と一緒にな。
あの袋は、灯が持って帰ったはずだ。
「……それで、源さんは何て」
「蚊取り線香の消し忘れや、と」
島田さんは、ふっと鼻から息を吐いた。
「自分でつけて、自分で消し忘れた。だから誰のせいでもない。わしのせいや、と。そう言うてな。それで終いや」
「島田さんは、それを信じたんですか」
島田さんは、しばらく黙っていた。竿の先が、かすかに揺れた。魚ではなく、波のせいだった。
「腑に落ちんかった」
ぽつりと言った。
「源さんが蚊取り線香を置いとったのは、家の縁側や。網小屋の反対側や。あれが網小屋の軒下に火をつけるには、よっぽど器用な風が吹かんとあかん」
「じゃあ、なぜ」
「燃やされた当人が、自分のせいや言うとる。怪我したのも当人や。誰も訴えとらん。そんなら、事件にはならん。わしの出る幕やない」
島田さんは竿を持ち直した。
「駐在っちゅうのはな、町の人を捕まえるためにおるんやない。町で暮らしていくためにおるんや。……源さんは、そういうことをよう分かっとる人やった」
帰り際、島田さんが思い出したように言った。
「そういや、火事の次の日の夕方、葉山の娘さんにも話を聞きに行ったわ」
僕は足を止めた。
「九時に網小屋を離れた、花火は全部消した、とはっきり答えた。しっかりした子やと思った。それでな、わしが帰り際に言うたんや。朝倉くんが十時半ごろコンビニにおったらしいから、明日、話を聞かせてもらう、と」
「……灯は、何て」
「『湊くんにも、聞くんですか』と」
島田さんは、竿の先から目を離さなかった。
「顔が真っ白になっとった。わしはな、てっきり、あんたらのどっちかが何か知っとるんやと思った。それが、次の日には源さんの蚊取り線香や」
島田さんは麦わら帽子のつばを下げた。
「十年たっても、あれだけは腑に落ちんままや」
◇
防波堤を戻る足取りは、行きよりずっと重かった。
十年前の夏、僕は事情を聞かれる寸前だった。聞かれていたら、推薦はどうなっていただろう。火事の現場の近くにいた高校生。町の人はどう見ただろう。
そして、ロケット花火。
あの袋を持って帰ったのは灯だ。灯は、火事の夜に九時に家に帰ったと言った。本当にそうだったのだろうか。
あの二週間、灯はなぜ僕を避けたのか。なぜ学校をやめて、源さんの網小屋で働きはじめたのか。なぜ町の噂を否定しなかったのか。
答えは、ひとつしかないような気がした。考えたくない答えだった。
浜屋に戻ると、玄関の上がり框に、白いポロシャツの男が座っていた。
圭介さんだった。僕を見ると、立ち上がって頭を下げた。
「すみません、押しかけてしまって。女将さんに、ここだと聞いたので」
「……考えは、まとまったんですか」
「ええ」
圭介さんは、眼鏡を外して、ポロシャツの裾で拭いた。それから、かけ直した。
「伯父に電話で相談しました。伯父は、『お前が見たことはお前のもんや。好きにせえ』と。だから、僕が見たことだけ、お話しします」
僕たちは、浜屋の裏の、海に面した縁台に並んで座った。
「まず、あの夏、僕は彼女と付き合っていません。一度も」
圭介さんは、静かに言った。
「火事の翌朝、伯父の家の片づけに来たら、焼け跡の前に彼女がいました。いきなり、源さんの病院に連れていってください、と頼まれた。それから何度か、市内の病院まで乗せました。それだけです」
年上の。市内の人。
だから、湊とはもう、あんまり会えない。
灯の声が、ばらばらにほどけていく気がした。
「なんで灯は、そんな嘘を」
「それは、僕には分かりません」
圭介さんは、海を見たまま言った。
「ただ、最初に病院に連れていった日のことは、よく覚えています」
「……何があったんですか」
「僕は病室の外にいました。伯父のベッドはカーテンで仕切られていて、声は聞こえた」
圭介さんは、そこで一度言葉を切った。
海の上を、カモメが一羽、低く飛んでいった。
「彼女は、伯父のベッドの前で、こう言いました」
圭介さんは、その言葉を十年間、どこかに大切にしまっておいたような声で言った。
「『私が、花火で火をつけました。弁償します。警察にも行きます』」




