第六章 一生分の嘘
灯 ── 二〇一六年八月
八月三十日の夜、私は台所のテーブルで手紙を書いた。
母は夜勤に出ていた。蒼は奥の部屋で眠っていた。扇風機が首を振るたびに、便箋の端がかすかに浮いた。
左手が、まだ少し痛んだ。包帯の下で、皮膚が引きつれるように疼いている。ペンは右手で持つから、書くのに困りはしない。それでも便箋を押さえる左手に力を入れるたび、小さく息が詰まった。
一枚目は、最初の三行で破った。
二枚目は、半分まで書いて破った。
三枚目は、最後まで書いた。読み返して、破った。そこには本当のことが全部書いてあった。本当のことが全部書いてある手紙は、湊には渡せない。
四枚目を前にして、私はしばらくペンを置いた。
窓の外で、虫が鳴いていた。遠くで波の音がした。
五日前、神社の石段で、湊は言った。
「俺、推薦断るわ」
夕方だった。石段の上の木で、ひぐらしが鳴いていた。
「こっちで働く。灯のそば——」
その先は、思い出さないことにした。
四枚目の便箋に、ゆっくりと書いた。
この手紙を読んでいるなら、十年たったんだね。
十年後の湊を想像しようとした。うまくいかなかった。二十八歳の湊は、どんな部屋に住んでいるだろう。どんな服を着て、どんな顔で、この手紙を開くだろう。
せめて、ここではないどこかにいてほしかった。
この町のことなんか、半分くらい忘れていてほしかった。
書き終えた便箋は、本当のことをひとつしか書いていない一枚になった。それでいい、と思った。
三つ折りにして、封筒に入れる前に、ジーンズのポケットに手を入れた。
十年後用ね、とポケットにしまった線香花火は、あの夜からずっとそこにあった。洗濯のたびに、別のズボンのポケットに移し替えてきた。紙の軸が少し曲がっていた。指で伸ばしてから、便箋と一緒に封筒に入れた。
表に、「朝倉湊くんへ」と書いた。住所は書かなかった。
それから、居間の隅の、おばあちゃんの小引き出しを開けた。切手がぎっしり詰まっている。花の絵の、八十二円の切手を一枚取り出して、右上に貼った。
手紙は、切手を貼ってこそ手紙なんだよ。
自分で言ったことだ。だから、貼った。
このまま出すつもりはない。どこにも出さない。それでも、これは手紙でなければいけなかった。
封をして、裏に日付を書いた。
二〇二六年八月十四日に
書いてしまうと、十年は、ずいぶん短く見えた。
◇
八月三十一日。
約束の時間より、わざと十分遅れて家を出た。
早く着いて、ベンチで湊を待つ自信がなかった。先に座って待っている湊の背中を見たら、たぶん、決めたことが全部崩れてしまう。
トートバッグの中に、昨夜の封筒を入れた。
入れるつもりはなかった。家を出る直前に、机の上から取って、バッグに放り込んでいた。もし最後まで嘘をつききれなかったら、これを渡せばいい。そう思ったのかもしれない。自分でもよく分からなかった。
防波堤沿いのバス停に、湊はもう座っていた。
ベンチの真ん中あたりに、少し前かがみになって。Tシャツの首元が汗で濡れていた。顔を上げて私を見つけると、湊は何か言いかけて、やめた。
痩せたな、と思った。私のことを言えないくらい、湊も頬がこけていた。二週間、私が返事をしなかったあいだ、湊はきっとろくに眠れていない。
私はベンチの端に座った。湊とのあいだに、人がひとり座れるくらいの隙間を空けて。
湊の顔は見なかった。見たら、終わりだった。
「宿題、終わった?」
自分の声が、びっくりするくらい普通に聞こえた。
湊は、私の包帯のことを聞いた。返事をしなかった理由を聞いた。車の男のことを聞いた。
一つずつ、昨夜考えておいたとおりに答えた。
「彼氏」
そう言ったとき、久住さんの顔が浮かんだ。源さんの入院している病院に、何度も車で送ってくれた人だ。私が何を頼んでも、何も聞かずに車を出してくれた。ごめんなさい、と心の中で謝った。勝手に、あなたを私の彼氏にしてしまいます。
湊の肩が、小さく落ちるのが見えた。
左手の包帯を、右手で握った。爪を立てると、火傷の痕に痛みが走った。その痛みにしがみついた。痛いうちは、泣かずにいられる。
「推薦のこと——」
「東京、行きなよ」
それだけは、湊に最後まで言わせてはいけなかった。
五日前、石段で聞いた言葉の続きを、もう一度聞いたら、私はきっと、うなずいてしまう。
「そういうの、重いんだよね。正直」
言いながら、口の中が苦くなった。
「湊ってさ、嘘つけないでしょ」
それは、嘘ではなかった。
湊は、嘘がつけない。小学生のとき、給食のプリンをこっそり二個食べたのを、先生に聞かれて三秒で白状した人だ。聞かれれば、見たものを見たとおりに言う。知っていることを、知っているとおりに言う。
だから、湊には何も渡せない。何も知らせられない。
「だから、もう何も聞かないで」
湊が、私のバッグの口を見ていた。白い封筒の角が、のぞいていた。私は右手でバッグの口を押さえた。
国道のほうから、バスのエンジンの音が近づいてきた。
立ち上がった。膝が震えそうになって、ジーンズの上から二回はたいた。
「湊」
名前を呼んだ。湊が顔を上げる気配がした。
私は湊の目を見なかった。湊の頭の少し上の、何もない空を見た。そこなら、湊の顔は見えない。
息を吸った。
十八年生きてきて、いちばん大きな嘘を言った。
「私、あんたのこと、ずっと嫌いだった」
バスが止まった。
行き先表示を確かめる必要はなかった。この二週間、毎日このバスに乗っていた。市街・中央病院前。
「東京、行きなよ」
もう一度だけ言って、ステップを上がった。
振り返らなかった。振り返らないと決めていたし、振り返ったら、湊の顔を一生忘れられなくなる気がした。
海側の窓際に座った。ガラスに、午後の光が反射していた。外からは私の顔は見えない。そのことに、心の底からほっとした。
バスが動き出した。
窓の外で、バス停のベンチが小さくなっていく。湊は座ったまま、動かなかった。追いかけてこなかった。
それでいい。
それでいいのだと、何度も自分に言い聞かせた。
トートバッグを膝の上で抱きしめた。封筒の角が、胸に当たった。
声を出さずに泣いた。前の席のおばあさんが、一度だけ振り返った。私は窓のほうに顔を向けた。
湊は、あの夜のことを知らない。
知らないまま、東京へ行ってもらう。
それが、この夏に私が決めたことの全部だった。
バスは防波堤沿いの道を走り、港の横を通り過ぎた。
窓の外に、焼けた網小屋の黒い骨組みが見えた。
あそこでも、私はもう一つ嘘をついている。
源さんに。




