↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/19

第五章 網を編む人

第二部 燃えた網小屋

湊 ── 二〇二六年八月


 喫茶さえきを出ると、日差しがアスファルトに白く跳ね返っていた。

 僕は、港へ向かって歩いた。

 十年前と同じ道だった。魚市場の前を過ぎ、製氷所の角を曲がると、漁船が並ぶ岸壁に出る。潮と油と、干した魚の匂いがした。お盆で漁は休みなのか、船はどれも静かに舫われて、波にかすかに揺れていた。

 港のいちばん端に、それはあった。

 記憶の中の網小屋より、ひと回り小さかった。トタン屋根の、新しい木の小屋だ。戸口の上に板が掲げてあって、白いペンキで「久住網店」と書いてある。筆の運びに、見覚えがある気がした。

 小屋の横には、網がいくつも干してあった。緑色の網、黒い網、オレンジ色の浮きがついた網。風が吹くたびに、それがゆっくりとふくらんだ。

 隣にあったはずの源さんの家は、なくなっていた。かわりに砂利を敷いた駐車場があり、「潮見漁協 関係者以外駐車禁止」という看板が立っていた。


 戸は開いていた。

 中をのぞくと、薄暗い小屋の奥で、誰かが段ボール箱に書類を詰めていた。

「すみません」

 声をかけると、その人は顔を上げた。四十歳くらいの男の人だった。白いポロシャツに、細い銀縁の眼鏡をかけていた。

「はい。何か」

「あの、葉山……灯さんが、ここで働いていたと聞いて」

 男の人は少し目を細め、それから眼鏡の位置を指で直した。

「ご友人ですか」

「高校の、同級生です。朝倉といいます」

 その名前を聞いた瞬間、男の人の表情がかすかに動いた。

「……そうですか。どうぞ、散らかってますけど」

 僕は小屋の中に入った。


 網の匂いがした。

 麻と、ナイロンと、海の匂い。壁一面に木の棒が渡してあって、編みかけの網や、繕いの途中らしい網が何枚もかかっていた。床には色とりどりの糸の束が入った籠が並んでいる。窓際に古い作業台があり、その上に竹でできた道具がいくつも置いてあった。平たくて細長い、舟のような形の道具だった。

「網針です」

 男の人が言った。

「網を編むときに使う。糸を巻いておいて、目を結んでいくんです」

 網針の持ち手には、どれも白いビニールテープが巻かれていて、黒いマジックで「はやま」と書いてあった。丸みのある字だった。

 作業台の上には、ほかにも鋏、糸切り、小さなラジオ、それから蓋の開いたクッキー缶があった。缶の中は空っぽだった。

 壁のカレンダーは、六月のままだった。


「申し遅れました」

 男の人は、名刺を差し出した。

「久住圭介といいます。ここの持ち主の、久住源一郎の甥です。市内で司法書士をしていまして。伯父がもう施設に入っているので、代わりに片づけを」

 名刺を受け取りながら、僕は男の人の顔を見た。

 細い銀縁の眼鏡。

 十年前、商店街の角。銀色の車の運転席。灯が助手席に乗り込むのを、僕は少し離れたところから見ていた。運転席の男の横顔は一瞬しか見えなかったけれど、眼鏡の縁が光ったのを覚えている。

 年上の。市内の人。

「……あの」

 声がうまく出なかった。圭介さんは、僕の顔色に気づいたのか、気づかないふりをしたのか、作業台の椅子を僕のほうに引いてくれた。

「座ってください。暑かったでしょう」

 僕は座らなかった。


「灯さんは、ここで何を」

「網大工です」

 圭介さんは、壁の網を見上げた。

「伯父のあとを継いで、この町で最後の網大工でした。漁師さんたちの網を編んだり、破れたところを繕ったり。今はほとんどが工場で作った網ですけど、細かいところはやっぱり手でやらないといけない。漁師さんたちは、彼女の網は目がきれいだって、よく言ってました」

 目がきれい。

 灯の机の引き出しに入っていた、デザイン学校のパンフレットを思い出した。

「源さん……伯父さんは」

「潮見の里という施設にいます。八十六になりました。頭はしっかりしてますが、手がね」

 圭介さんは、自分の両手を軽く持ち上げてみせた。

「十年前の火事で、両手をひどく火傷したんです。それからは細かい仕事ができなくなった。この小屋も、あの火事で一度燃えて、建て直したものです」

「火事の原因は、蚊取り線香だったって聞きました」

「ええ。伯父がそう言ってます」

 圭介さんの答え方が、ほんの少し引っかかった。伯父がそう言っている。それが事実だとは、言わなかった。

「建て直すお金は」

「火災保険が下りましたから。それと、隣の家の土地を漁協に売りました。今の駐車場です。伯父ももう歳でしたし、ちょうどいい機会だったんですよ」

 ちょうどいい機会。

 僕は、窓の外の砂利の駐車場を見た。火事で家が焼けて、保険金が下りて、土地が売れた。それで得をした人間がいる。その人間の車に、あの夏、灯は乗っていた。

 考えすぎだ、と思った。けれど、一度浮かんだ考えは、なかなか消えてくれなかった。


 棚の上に、小さなガラス瓶が載っていた。

 ジャムの空き瓶のような、蓋つきの瓶だった。中に、焦げた細い紐のようなものが何本か、束になって立っている。網の切れ端か何かだろうと思った。灯は、どうでもいいものをとっておく癖があった。

 僕は瓶から目を離し、圭介さんに向き直った。

「ひとつ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「十年前の夏。あなたの車に、灯が乗っているのを見ました」

 圭介さんの手が止まった。

「灯と、付き合ってたんですか」

 小屋の中が、急に静かになった気がした。外で、干した網が風に鳴っていた。

 圭介さんは、しばらく僕の顔を見ていた。眼鏡の奥の目は、怒ってもいないし、驚いてもいなかった。ただ、何かをゆっくり確かめているようだった。

「……彼女が、そう言ったんですか」

 圭介さんは、それだけ言った。

「はい」

「そうですか」

 圭介さんは目を伏せて、段ボール箱の蓋を閉じた。

「そうか。……彼女は、そう言ったのか」

 独り言のようだった。それから顔を上げた。

「朝倉さん。申し訳ないけれど、その質問にはすぐには答えられません。答えていいのかどうか、僕には判断がつかない。少し、考えさせてください」

「答えられないって、どういう——」

「すみません」

 圭介さんは、頭を下げた。穏やかだが、はっきりした拒絶だった。

 僕はそれ以上、何も聞けなかった。


 小屋を出ようとしたとき、背中から声がかかった。

「朝倉さん」

 振り返ると、圭介さんが戸口に立っていた。

「ひとつだけ、伝えておかないといけないことがあります」

「何ですか」

「伯父から、ずっと言われていたんです。もう何年も前から」

 圭介さんは少し言いよどんで、それから、伯父の口調をまねるように言った。

「『もし朝倉の坊主が来たら、わしのとこへ寄こせ』と」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。