第五章 網を編む人
第二部 燃えた網小屋
湊 ── 二〇二六年八月
喫茶さえきを出ると、日差しがアスファルトに白く跳ね返っていた。
僕は、港へ向かって歩いた。
十年前と同じ道だった。魚市場の前を過ぎ、製氷所の角を曲がると、漁船が並ぶ岸壁に出る。潮と油と、干した魚の匂いがした。お盆で漁は休みなのか、船はどれも静かに舫われて、波にかすかに揺れていた。
港のいちばん端に、それはあった。
記憶の中の網小屋より、ひと回り小さかった。トタン屋根の、新しい木の小屋だ。戸口の上に板が掲げてあって、白いペンキで「久住網店」と書いてある。筆の運びに、見覚えがある気がした。
小屋の横には、網がいくつも干してあった。緑色の網、黒い網、オレンジ色の浮きがついた網。風が吹くたびに、それがゆっくりとふくらんだ。
隣にあったはずの源さんの家は、なくなっていた。かわりに砂利を敷いた駐車場があり、「潮見漁協 関係者以外駐車禁止」という看板が立っていた。
戸は開いていた。
中をのぞくと、薄暗い小屋の奥で、誰かが段ボール箱に書類を詰めていた。
「すみません」
声をかけると、その人は顔を上げた。四十歳くらいの男の人だった。白いポロシャツに、細い銀縁の眼鏡をかけていた。
「はい。何か」
「あの、葉山……灯さんが、ここで働いていたと聞いて」
男の人は少し目を細め、それから眼鏡の位置を指で直した。
「ご友人ですか」
「高校の、同級生です。朝倉といいます」
その名前を聞いた瞬間、男の人の表情がかすかに動いた。
「……そうですか。どうぞ、散らかってますけど」
僕は小屋の中に入った。
網の匂いがした。
麻と、ナイロンと、海の匂い。壁一面に木の棒が渡してあって、編みかけの網や、繕いの途中らしい網が何枚もかかっていた。床には色とりどりの糸の束が入った籠が並んでいる。窓際に古い作業台があり、その上に竹でできた道具がいくつも置いてあった。平たくて細長い、舟のような形の道具だった。
「網針です」
男の人が言った。
「網を編むときに使う。糸を巻いておいて、目を結んでいくんです」
網針の持ち手には、どれも白いビニールテープが巻かれていて、黒いマジックで「はやま」と書いてあった。丸みのある字だった。
作業台の上には、ほかにも鋏、糸切り、小さなラジオ、それから蓋の開いたクッキー缶があった。缶の中は空っぽだった。
壁のカレンダーは、六月のままだった。
「申し遅れました」
男の人は、名刺を差し出した。
「久住圭介といいます。ここの持ち主の、久住源一郎の甥です。市内で司法書士をしていまして。伯父がもう施設に入っているので、代わりに片づけを」
名刺を受け取りながら、僕は男の人の顔を見た。
細い銀縁の眼鏡。
十年前、商店街の角。銀色の車の運転席。灯が助手席に乗り込むのを、僕は少し離れたところから見ていた。運転席の男の横顔は一瞬しか見えなかったけれど、眼鏡の縁が光ったのを覚えている。
年上の。市内の人。
「……あの」
声がうまく出なかった。圭介さんは、僕の顔色に気づいたのか、気づかないふりをしたのか、作業台の椅子を僕のほうに引いてくれた。
「座ってください。暑かったでしょう」
僕は座らなかった。
「灯さんは、ここで何を」
「網大工です」
圭介さんは、壁の網を見上げた。
「伯父のあとを継いで、この町で最後の網大工でした。漁師さんたちの網を編んだり、破れたところを繕ったり。今はほとんどが工場で作った網ですけど、細かいところはやっぱり手でやらないといけない。漁師さんたちは、彼女の網は目がきれいだって、よく言ってました」
目がきれい。
灯の机の引き出しに入っていた、デザイン学校のパンフレットを思い出した。
「源さん……伯父さんは」
「潮見の里という施設にいます。八十六になりました。頭はしっかりしてますが、手がね」
圭介さんは、自分の両手を軽く持ち上げてみせた。
「十年前の火事で、両手をひどく火傷したんです。それからは細かい仕事ができなくなった。この小屋も、あの火事で一度燃えて、建て直したものです」
「火事の原因は、蚊取り線香だったって聞きました」
「ええ。伯父がそう言ってます」
圭介さんの答え方が、ほんの少し引っかかった。伯父がそう言っている。それが事実だとは、言わなかった。
「建て直すお金は」
「火災保険が下りましたから。それと、隣の家の土地を漁協に売りました。今の駐車場です。伯父ももう歳でしたし、ちょうどいい機会だったんですよ」
ちょうどいい機会。
僕は、窓の外の砂利の駐車場を見た。火事で家が焼けて、保険金が下りて、土地が売れた。それで得をした人間がいる。その人間の車に、あの夏、灯は乗っていた。
考えすぎだ、と思った。けれど、一度浮かんだ考えは、なかなか消えてくれなかった。
棚の上に、小さなガラス瓶が載っていた。
ジャムの空き瓶のような、蓋つきの瓶だった。中に、焦げた細い紐のようなものが何本か、束になって立っている。網の切れ端か何かだろうと思った。灯は、どうでもいいものをとっておく癖があった。
僕は瓶から目を離し、圭介さんに向き直った。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「十年前の夏。あなたの車に、灯が乗っているのを見ました」
圭介さんの手が止まった。
「灯と、付き合ってたんですか」
小屋の中が、急に静かになった気がした。外で、干した網が風に鳴っていた。
圭介さんは、しばらく僕の顔を見ていた。眼鏡の奥の目は、怒ってもいないし、驚いてもいなかった。ただ、何かをゆっくり確かめているようだった。
「……彼女が、そう言ったんですか」
圭介さんは、それだけ言った。
「はい」
「そうですか」
圭介さんは目を伏せて、段ボール箱の蓋を閉じた。
「そうか。……彼女は、そう言ったのか」
独り言のようだった。それから顔を上げた。
「朝倉さん。申し訳ないけれど、その質問にはすぐには答えられません。答えていいのかどうか、僕には判断がつかない。少し、考えさせてください」
「答えられないって、どういう——」
「すみません」
圭介さんは、頭を下げた。穏やかだが、はっきりした拒絶だった。
僕はそれ以上、何も聞けなかった。
小屋を出ようとしたとき、背中から声がかかった。
「朝倉さん」
振り返ると、圭介さんが戸口に立っていた。
「ひとつだけ、伝えておかないといけないことがあります」
「何ですか」
「伯父から、ずっと言われていたんです。もう何年も前から」
圭介さんは少し言いよどんで、それから、伯父の口調をまねるように言った。
「『もし朝倉の坊主が来たら、わしのとこへ寄こせ』と」




