第四章 朝の焼け跡
千尋 ── 二〇一六年八月~九月
あの朝のことを、私は十年間、誰にも話さなかった。
話すようなことでもないと思っていた。友達が、朝早くに焼け跡の前に立っていた。ただそれだけのことだ。でも、あの朝の灯の背中は、今でも瞼の裏に焼きついている。
八月十五日。祭りの翌朝。
私は五時に起きて、犬の散歩に出た。うちのチロは年寄りの柴犬で、夏は涼しいうちに歩かせないとすぐにへばってしまう。いつもは商店街を抜けて神社まで行くのだけれど、その朝、チロはなぜか港のほうへ私を引っぱっていった。
空気が焦げくさかった。
港のいちばん端、源さんの網小屋があったあたりに、黄色いロープが張られていた。小屋は半分以上が崩れ落ちて、黒い柱が何本か空に向かって突き出していた。濡れた灰の匂いがした。夜中にサイレンが鳴っていたのは、これだったのだ。
ロープの前に、誰かが立っていた。
灯だった。
Tシャツにジーンズで、髪はぼさぼさだった。左手に白い布をぐるぐる巻きにしていた。包帯ではなく、タオルか何かを裂いたもののように見えた。
声をかけようとして、やめた。
灯は、焼け跡に向かって、深く頭を下げていた。
腰から体を二つに折るような、深いお辞儀だった。長いあいだ、灯はそのまま動かなかった。朝の風が吹いて、灰がかすかに舞った。
ごめんなさい。
そう聞こえた。小さな声だった。それが焼け跡に向けたものなのか、そこにいない誰かに向けたものなのか、私には分からなかった。
チロが鼻を鳴らした。私はチロを抱き上げて、防波堤の陰に隠れた。なぜ隠れたのかは、自分でも分からない。ただ、見てはいけないものを見た気がした。
しばらくして、港の入口に銀色の車が停まった。眼鏡をかけた男の人が降りてきて、焼け跡を見上げ、それから灯に気づいた。灯は顔を上げ、男の人に近づいて何か話しかけた。男の人は驚いた顔をしていた。
私はチロを抱いたまま、そっとその場を離れた。
次の日、八月十六日の朝、商店街の角で、灯があの銀色の車に乗り込むのを見た。
運転席には、あの眼鏡の男の人がいた。三十歳くらいに見えた。灯は助手席に座ると、窓の外を見ないようにして、まっすぐ前を向いていた。
その日の夕方、私は灯の家に行った。灯は玄関先まで出てきたけれど、中には入れてくれなかった。左手には、ちゃんとした包帯が巻かれていた。
「今朝、車に乗ってたでしょ。あれ、誰」
灯は少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「見られてたか」
「誰なの」
「病院に行ってたの。乗せてもらっただけ」
「病院? その手?」
「……まあ、そんなとこ」
灯は、包帯の手を後ろに隠した。
「千尋。お願いがあるんだけど」
「何」
「このこと、誰にも言わないで。湊にも」
湊にも、というところで、灯の声がほんの少し揺れた。
「なんで湊に言っちゃいけないの」
「いいから」
灯は私の目を見た。冗談を言うときの顔ではなかった。
「湊に何聞かれても、私のこと、何も言わないで。お願い」
私はうなずいた。うなずくしかなかった。灯があんな顔で何かを頼んできたのは、後にも先にもそのときだけだった。
それから二週間、灯はほとんど外に出てこなかった。
メッセージを送っても、返事は短かった。〈大丈夫〉〈ちょっと忙しい〉〈またね〉。湊のほうは、目に見えて焦っていた。何度か商店街で会うたびに、「灯、なんか言ってた?」と聞いてきた。私は約束どおり、知らないと答えた。本当に、何も知らなかった。
ただ一度だけ、湊が妙なことを言った。
「灯、年上の男と付き合ってんのかな」
「え?」
「車に乗ってるの見たんだよ。銀色の。眼鏡の」
あの人だ、と思った。病院に乗せてもらっただけ、と灯は言っていた。でも、それを湊に言っていいのかどうか、私には分からなかった。
「知らない」
私はそう答えた。
今思えば、あのとき本当のことを言っていたら、何かが変わったのだろうか。たぶん、変わらなかった。灯は、私が何を言っても変わらないように、すべてを準備していたのだと思う。
八月三十一日の夕方。
私は母に頼まれて、市内の問屋へ行った帰りだった。同じバスに乗っていたわけではない。私は駅からの帰り道に、防波堤沿いのバス停の前を通りかかった。
ベンチに、灯が座っていた。
市内から戻ってきたバスが、ちょうど走り去ったところだった。灯は膝の上にトートバッグを抱えて、うつむいていた。
「灯?」
灯が顔を上げた。
泣いていた。
泣き顔の灯を見たのは、小学生のとき、飼っていた金魚が死んだとき以来だった。灯は、泣いているところを人に見せない子だった。その灯が、目も鼻も真っ赤にして、声も出さずに泣いていた。
「どうしたの。何があったの」
私が隣に座ると、灯は首を振った。
「湊と、何かあったの」
灯は答えなかった。しばらくして、小さな声で言った。
「これでいいの」
「何が」
「これで、いいの」
それしか言わなかった。何を聞いても、それしか言わなかった。
夕日が海に沈んでいくあいだ、私たちはずっとベンチに並んで座っていた。灯のトートバッグの口から、白い封筒の角がのぞいていた。灯はときどき、その角を指でなぞっていた。
あの日、私は決めつけた。湊が、灯を振ったのだと。東京へ行くのに、灯が邪魔になったのだと。灯はきっと、その日のうちに湊に何か言われたのだ。
そうとしか思えなかった。
あんなふうに泣く灯を、他に説明する方法がなかったから。
◇
九月になって、灯は学校に来なくなった。
通信制の高校に移ったのだと、担任が短く説明した。理由は言わなかった。教室の空気が、少しざわついた。
噂は、あっというまに広がった。
網小屋の火事は、祭りの夜、裏で花火をしていた高校生のせいらしい。その高校生は葉山灯だったらしい。だから学校をやめたのだ、と。
昼休み、クラスの女子の一人が、わざと聞こえるように言った。
「葉山さん、やっぱ火事の犯人だったんじゃない? じゃなきゃやめないでしょ」
私はその子の机を叩いた。先生に呼び出されて、反省文を書かされた。
その週末、私は灯に会いに行った。灯はもう、源さんの網小屋の焼け跡で働きはじめていた。焼け残った作業台の前に座って、慣れない手つきで網の目を結んでいた。
「ねえ、あんなこと言わせといていいの」
私が噂の話をすると、灯は網から目を上げずに言った。
「そうかもね」
「は?」
「私のせいかもね、火事」
「何言ってんの。蚊取り線香だって、源さんが言ったんでしょ」
「うん」
灯は、それ以上何も言わなかった。黙って網の目を結び続けていた。包帯の取れた左手の甲に、赤く引きつれた火傷の痕があった。
私は、灯が何かを守ろうとしていることだけは分かった。でも、それが何なのかは分からなかった。灯は私にも、最後まで言わなかった。
十月に、湊が推薦で東京の大学に決まったと聞いた。
私はそれを灯に伝えなかった。伝える必要もないと思った。
それなのに、次に網小屋へ行ったとき、灯は私の顔を見るなり言った。
「湊、決まったんだってね。東京」
「……誰に聞いたの」
「町の人は、みんな知ってるよ」
灯はそう言って、笑った。
心の底からほっとしたような笑い方だった。
どうして、自分を捨てた男の合格を、あんな顔で喜べるのだろう。私にはそれが、ずっと分からなかった。
あれから十年がたった。
灯は、あの夏のことを一度も話さなかった。私も一度も聞かなかった。聞けば、何かが壊れる気がしたから。
だから、今でも分からないままだ。
あの朝、灯が焼け跡の前で、誰に謝っていたのか。




