第三章 嘘つきの町
湊 ── 二〇二六年八月
線香花火を拾い上げたのは、ずいぶんたってからだった。
軸の紙は茶色く変色していて、指でつまむと、かさりと乾いた音がした。先のほうに火薬を包んだ和紙のふくらみがあって、そこだけ、かすかに赤い色が残っていた。
十年後用ね。
灯の声がした。
思い出した、というより、はじめからそこにあったものに、ようやく目を向けたような気がした。網小屋の裏。バケツの水。並んでしゃがんだ膝の感触。三本目の線香花火が落ちたとき、僕は何かを言いかけて、灯に止められた。
今言わないで。十年後の今日、ここで聞く。
約束、覚えてた?
手紙の一行目が、急に違う温度で読めた。
僕は便箋をもう一度開いた。窓の外では、港の常夜灯がぽつりぽつりと点りはじめていた。
あの夜のことを、僕はずっと、なるべく考えないようにしてきた。
告白しかけて止められたことも、その二週間後に「ずっと嫌いだった」と言われたことも、ひとつながりの恥ずかしい記憶だった。思い出すたびに、みぞおちのあたりが縮んだ。だから十年のあいだに、あの夏は、細部の抜け落ちた一枚の絵のようになっていた。
けれど、絵の端をめくると、その下にはまだいろいろなものが残っていた。
祭りの翌日、八月十五日の昼過ぎ。僕は母に頼まれて、商店街の八百屋に行った。
商店街は、網小屋の火事の話でもちきりだった。港のいちばん端の小屋が、夜中に燃えたらしい。源さんが病院に運ばれたらしい。花火じゃないか、と誰かが言っていた。
花火、という言葉に、僕はどきりとした。
八百屋の前で、灯に会った。
灯は買い物袋を右手に提げていた。左手には包帯が巻いてあった。
「それ、どうしたんだよ」
「料理で火傷した。ドジった」
灯は左手を軽く振って笑った。
「網小屋、燃えたって。俺らの花火、大丈夫だったよな」
「大丈夫。ちゃんと消したでしょ。二人で確かめたじゃん」
灯の声はいつもどおりだった。僕はほっとした。そうだ。燃えさしは全部バケツに沈めて、一本ずつ確かめた。
「だよな」
それから、僕は何の気なしに言った。
「そういえば昨日、夜中にコンビニ行ったらさ、蒼が走ってたぞ。あいつ、あんな時間に何してんの」
「見間違いだよ」
灯は言った。
「蒼はずっと家にいたよ」
「そうかな」
「そうだよ。暗かったんでしょ」
そう言われると、そうかもしれない気がした。一瞬すれ違っただけだ。僕はそれ以上考えなかった。
灯は急に用事を思い出したように「じゃあね」と言って、坂を上っていった。その日から、灯は僕のメッセージに返事をしなくなった。
それだけの記憶だった。
僕は便箋に目を戻した。
あなたは何も見ていないし、何も知らない。
何を見ていない、というのだろう。
何を知らない、というのだろう。
あの夏、僕が知らなかったことなら、いくらでもある。灯がなぜ急に僕を避けはじめたのか。車に乗っていた男が誰だったのか。なぜ「ずっと嫌いだった」なのか。けれど灯の書き方は、そういうことを言っているようには読めなかった。まるで、僕が何かを見たことを、灯が知っているみたいだった。
それから、日付。
二〇一六年八月三十日。
あの夏の終わり、僕はまだ東京へ行くと決めていなかった。それどころか、灯に「推薦を断る」と言ったばかりだった。なのに灯は、その前の晩に「東京は楽しいですか」と書いている。
僕が東京へ行くことを、灯は知っていた。
僕自身が、まだ決めてもいなかったのに。
窓を開けると、湿った夜風が入ってきた。港のほうから、船の舫い綱のきしむ音がした。
◇
八月十三日の朝、僕は商店街の「喫茶さえき」へ行った。
千尋の実家の喫茶店だ。高校のころ、灯と千尋はよく奥のボックス席でクリームソーダを飲んでいて、僕はときどき、そこに無理やり座らされた。
店の中は、十年前とほとんど変わっていなかった。焦げ茶色の木のカウンター、赤いビニール張りの椅子、壁の鳩時計。ただ、カウンターの内側に立っているのは千尋のお母さんではなく、千尋だった。
モーニングを食べに来た常連らしい老人が二人、新聞を広げていた。千尋は僕を見ると、無言でカウンターの端を顎で示した。
「コーヒーでいい?」
「うん」
千尋はサイフォンでコーヒーを淹れた。手つきが慣れていた。
「お店、継いだんだ」
「三年前にね。母さんが腰悪くして」
カップを僕の前に置くと、千尋はカウンターに両手をついた。
「で、もらったの? 蒼くんから」
「うん」
「なんだったの」
僕は少し迷ってから、答えた。
「手紙。灯の。十年前に書いたやつ」
千尋の眉がわずかに動いた。
「なんて書いてあったの」
「……嘘をたくさんついた、って。謝るつもりはない、って。嫌いなままでいてください、って」
言いながら、声が妙に平らになるのが自分でも分かった。千尋はしばらく黙っていた。
「それ、あんた信じたの」
「信じるも何も。本人がそう書いてるんだから」
「ふうん」
千尋はカウンターの上の布巾を取り、意味もなく天板を拭いた。
「あんたさ」
千尋は手を止めずに言った。
「あの日、バス停で灯に何言ったの」
「え?」
「八月の最後の日。あんた、灯をバス停に呼び出したでしょ」
「呼び出したっていうか……会ったけど。言われたのは僕のほうだよ。ずっと嫌いだった、って」
千尋の手が止まった。
「……は?」
「彼氏がいるって。年上の。東京行けって。それで、ずっと嫌いだったって」
千尋は布巾を握ったまま、僕の顔をじっと見た。何かを確かめるような目だった。
「灯ね」
千尋は、ゆっくり言った。
「あの日の夕方、泣いてたんだよ。バス停のベンチで」
僕は、コーヒーカップに伸ばしかけた手を止めた。
「市内から帰ってきたバスを降りて、そのままベンチに座り込んでた。私、たまたま通りかかって。声かけたら、顔上げて、泣いてた。どうしたのって聞いたら、『これでいいの』って。それしか言わなかった」
「これで、いい」
「私、ずっと、あんたが灯を振ったんだと思ってた。東京行くのに邪魔だから、切ったんだって。だから、あんたのこと十年恨んでた。正直」
千尋はそこで息を吐いた。
「……違ったんだ」
「分からない」
僕は正直に言った。
「分からないよ。本当に」
鳩時計が、八時半を告げた。老人の一人が新聞をめくった。
「灯、九月に学校やめたの、知ってる?」
千尋が言った。
「やめた?」
「通信制に移ったの。卒業はしたけどね。それで、ずっと源さんの網小屋で働いてた。網、編んでたんだよ。十年」
「網……」
蒼が言っていた「作業場」という言葉が頭に浮かんだ。
「専門学校は? デザインの」
「行かなかった。一度も町を出なかったよ、あの子」
僕は何も言えなかった。灯は東京へ行くはずだった。行けたらね、と笑っていた。僕が東京で暮らしていた十年のあいだ、灯はずっと、この町で網を編んでいた。
「あんた、あの火事のこと、どれくらい知ってる?」
千尋が声を落とした。老人たちに聞こえないように。
「網小屋が燃えた、くらいしか。源さんが怪我したって」
「源さん、両手に大火傷して、もう網を繕えなくなったの。それで灯が、代わりに」
千尋はそこで言葉を選ぶように間を置いた。
「町ではね、あの火事、灯のせいだって噂があったの。祭りの夜に網小屋の裏で花火してた高校生がいた、って。灯はその噂、一度も否定しなかった」
「なんで」
「知らない。聞いても、笑ってごまかされた」
花火。網小屋の裏。
それは、僕と灯のことだった。
でも、僕たちは火を消した。バケツに沈めて、二人で確かめた。九時には網小屋を離れた。火事が起きたのは、そのあとのはずだ。
「源さんの話では、蚊取り線香の消し忘れってことになってる。警察もそれで終わりにしたって。でも、町の人はそう思ってない。灯のこと、ずっと『あの火事の子』って」
昨日、葉山家で聞いた言葉がよみがえった。
灯ちゃんもねえ。あの火事さえなかったら。
「それとね」
千尋は、カウンター越しに少し身を乗り出した。
「これ、言おうかどうか迷ったんだけど」
「何」
「火事の夜さ。あんた、港のそばのコンビニにいたでしょ」
僕は千尋の顔を見た。
「片桐、覚えてる? 同じクラスの。あいつ、あの夏、あそこのコンビニでバイトしてて。十時半ごろ、あんたが来たって。駐在さんにも、そう話したって、あとで聞いた」
コーヒーの湯気が、目の前で揺れていた。
覚えていた。祭りの夜、灯を送って家に帰ったあと、眠れなくて、自転車で港のそばのコンビニまで行った。炭酸を一本買って、海を見ながら飲んで、帰った。帰ってから、遠くでサイレンが鳴っていた気がする。気にもとめなかった。
あの夜、港の近くにいたのは、灯だけではなかった。
僕も、いたのだ。




