第二章 線香花火の約束
灯 ── 二〇一六年七月~八月
湊が「推薦、断ろうかな」と言ったのは、七月の終わりの、ひどく暑い日だった。
終業式のあとで、私たちは学校の裏の石段に座り、半分溶けたアイスを食べていた。石段の上の木から蝉の声が降ってきて、耳の中がじんじんしていた。
「は?」
自分で思ったより、大きな声が出た。
「いや、なんとなく。東京って、別に行かなくてもいいかなって」
湊はアイスの棒を眺めながら言った。当たりかはずれか、確かめるみたいに。
「こっちで就職しても、いいかなって。親父の知り合いの工務店とか」
「バカじゃないの」
「なんで怒るんだよ」
「怒ってない」
怒っていた。自分でも理由がうまく言えないくらいに。
湊が指定校推薦をもらえるかもしれないという話は、六月から聞いていた。東京の、名前を言えば誰でも知っている大学だ。担任が職員室で「朝倉ならいける」と話しているのを、私は偶然聞いたことがある。なのに湊は、自分のことなのに、そういう話になるといつも他人事みたいな顔をする。
「なんとなく、で決めることじゃないでしょ」
「灯だって、東京行くんだろ」
「行くよ。行けたらね」
私は東京のデザインの専門学校に行きたかった。机の引き出しには、パンフレットが三冊入っている。学費を考えると、奨学金を借りて、向こうでアルバイトをして、それでもぎりぎりだった。行けたらね、というのは、本当にそういう意味だった。
「じゃあ、一緒に行けばいいじゃん」
「だったら、なんで断るとか言うの」
湊は答えなかった。アイスの棒を裏返すと、「はずれ」と書いてあった。
答えない理由を、私は知っていた気がする。知っていて、知らないふりをした。湊はたぶん、私が東京へ行けないかもしれないことに気づいている。うちの母が夜も働いていることも、蒼がまだ小学生だということも。だから「なんとなく」なんて言うのだ。
それが、私はたまらなく怖かった。
湊はそういう人だった。誰かのために自分の何かを差し出すとき、差し出したことにすら気づかない。気づかないまま、自分の人生を丸ごと置いていってしまう。
「湊は、東京行きなよ」
私は言った。
「絶対。私が行けなくても」
「なんだよ、それ」
湊は笑った。私は笑わなかった。
◇
うちは、母と私と、弟の蒼の三人家族だ。
父は、蒼が生まれてすぐにいなくなった。母はスーパーの仕事のあと、週に三回、隣町の水産加工場の夜勤に出ている。だから夜の家には、たいてい私と蒼しかいない。
蒼は小学六年生で、少年野球チームに入っていた。紺色の帽子のつばの裏に、私が白い糸で「あおい」と刺繍してやった。なくさないように。蒼は恥ずかしがったけれど、それでも毎日かぶっていった。
「ねえちゃん、ロケット花火やりたい」
夏休みに入ってから、蒼はそればかり言っていた。
「ダメ。危ない」
「たっくんちはやってるって」
「たっくんちは、たっくんちでしょ」
「ねえちゃんと湊くんだけ、ずるい」
私たちが祭りの夜に花火をするのを、蒼はどこかで聞きつけていた。
「連れてってよ」
「ダメ。子どもは寝る時間」
蒼は唇を尖らせて、帽子を目深にかぶり直した。怒ったときの、蒼の癖だった。
◇
八月の初め、ポストに暑中見舞いを出しに行く途中で、湊と会った。
「何それ」
「暑中見舞い。中学のときの先生に」
「メールでいいじゃん」
ばかだなあ、と思った。たぶん顔にも出ていた。
「手紙はね、切手を貼ってこそ手紙なんだよ」
「なんだそれ」
「切手を貼って、ポストに入れて、知らない誰かの手を何回も通って、やっと届くの。だから手紙なの」
おばあちゃんの受け売りだった。おばあちゃんは引き出しいっぱいに切手を買い置きして、誰にでもよく手紙を書く人だった。去年の冬に亡くなって、その引き出しの切手は、今もそのまま残っている。
「ふうん」
湊は、それしか言わなかった。
私は葉書をポストに落とした。かたん、と小さな音がした。
◇
八月十四日。
潮見の夏祭りは、お盆の真ん中の夜にある。商店街に夜店が並び、夜の八時から港で小さな花火が上がる。
浴衣は着なかった。母のお下がりの浴衣はあったけれど、自転車の後ろに乗るのに、浴衣は向いていない。
湊は七時半に迎えに来た。
「浴衣じゃないんだ」
「自転車だもん」
「……だよな」
湊が少しがっかりしたような顔をしたのを、私は見なかったことにした。本当は、ちょっとだけ嬉しかった。
夜店でりんご飴を買って、金魚すくいを眺めて、港で打ち上げ花火を見た。十五分くらいで終わる、小さな花火だった。みんなが帰りはじめたころ、私たちは港の奥の網小屋のほうへ歩いた。
網小屋は、港のいちばん端にある古い木造の小屋だ。もう漁には出なくなった源さんというおじいさんが、そこで漁師たちの網を繕っている。私たちが小さいころから、源さんは網小屋の裏で遊ぶのを黙って許してくれていた。
「おう、来たか」
網小屋の戸口に、源さんが座っていた。首にタオルをかけ、ステテコ姿で団扇を使っている。
「花火すんのか」
「はい。裏、ちょっと借りていいですか」
湊が言うと、源さんは小屋の中からバケツを出してきて、水道で水を汲んでくれた。
「火の始末だけはせえよ。網が干してあるからな」
「はい」
「わしはもう寝る。年寄りは早いんや」
源さんはそう言って、網小屋の隣の小さな家に入っていった。
湊が買ってきた花火のセットは、思ったより大きかった。手持ち花火と、線香花火と、ロケット花火が十本くらい。
「ロケットも買ったの?」
「セットに入ってたんだよ」
「ここじゃ危ないよ。網があるし」
「分かってる。やらないって」
手持ち花火に一本ずつ、交互に火をつけた。緑、赤、白。そのたびに、湊の横顔が違う色に光った。
最後に線香花火が残った。
並んでしゃがんで、同時に火をつける。ぱち、ぱち、と小さな火花が散って、先にできた火の玉が少しずつふくらんでいく。
三本目のとき、湊が言った。
「あのさ、灯」
「うん」
「俺さ——」
その声の感じで、分かった。何を言おうとしているのか。
分かった瞬間、胸の奥が熱くなって、それから、すっと冷たくなった。
今それを聞いたら、湊は東京に行かない。
そう思った。理由なんかなかった。ただ、そう思った。
「今言わないで」
私は湊の言葉にかぶせた。
湊は黙った。線香花火の玉が、ぽとりと落ちた。
「……なんで」
「今聞いたら、なんか、全部決まっちゃう気がする」
自分でも、うまく言えなかった。湊は私を見ていた。私は、火の玉が落ちたあとの黒い点を見ていた。
「じゃあ、いつならいいんだよ」
少し拗ねたような声だった。
私は顔を上げて港を見た。祭りの明かりが、水の上で揺れていた。
「十年後」
「は?」
「十年後の今日。ここで、また線香花火しよ。そのとき、まだ言いたかったら、聞く」
湊はしばらく何も言わなかった。それから、笑った。
「十年後って、二十八だぞ」
「うん」
「十年後も一緒にいるだろ、どうせ」
「どうかな」
私も笑った。笑いながら泣きそうになったのは、なぜだったんだろう。
線香花火は、あと一本残っていた。
「これ、十年後用ね」
私はそれを、ジーンズのポケットにしまった。
「湿気るぞ、十年も」
「いいの」
燃えさしを全部、バケツの水に沈めた。湊が一本ずつ確かめて、私も確かめた。火の気は、どこにもなかった。
帰りは、いつものように自転車の後ろに乗った。海沿いの道を、湊はゆっくり漕いだ。潮の匂いと火薬の匂いが、まだ服に残っていた。
家の前で降りると、湊は自転車のかごから、花火の残りが入ったビニール袋を取り出した。
「これ、蒼にやって」
「ロケット入ってるじゃん」
「だから、大人と一緒にな。ちゃんと言っとけよ」
「分かった」
「じゃあな」
「うん。……おやすみ」
湊の自転車のライトが角を曲がって見えなくなるまで、私は玄関の前に立っていた。
家に入ると、蒼は居間でテレビを見ていた。
「花火は?」
「もうおしまい。早く寝な」
私は花火の袋を、台所の戸棚のいちばん上に置いた。蒼の手が届かないところに。それから、お風呂を沸かした。
湯船に浸かりながら、ポケットから出しておいた一本の線香花火のことを考えた。十年後。二十八歳の私と湊は、どんな顔をしているだろう。どこにいるだろう。
十年なんて、ただの数字だと思っていた。
十年後の八月十四日は、ちゃんと来るものだと思っていた。
お風呂から上がって、髪を乾かしていたときだった。
玄関の戸が、からからと開く音がした。




