第一章 消印のない封筒
第一部 届かなかった手紙
湊 ── 二〇二六年八月
灯が死んだと知ったのは、七月の最初の火曜日だった。
その日のことは、あとから思い出そうとしても、ほとんど何も出てこない。朝、いつもの時間に目を覚まし、三鷹のアパートから中央線に乗った。会社でコードレビューを二件片づけて、昼はコンビニのサラダチキンを食べた。午後の定例会議では、たしか誰かが仕様の変更について長々と話していた。どれも、ほかの火曜日と見分けがつかない。
知らない番号から着信があったのは、会議が終わって席に戻ったときだった。
普段なら出ない。けれどそのときは、なぜか通話ボタンを押していた。
「朝倉? 湊だよね」
女の人の声だった。少し低くて、語尾がわずかに上がる。故郷の町の、あの抑揚だった。
「……千尋?」
「覚えてたんだ」
佐伯千尋。灯の親友で、高校の三年間、灯の隣にはたいてい千尋がいた。
「同窓会の名簿、春にメールで返してくれたでしょ。そこに番号あったから」
そういえば、そんなメールに返信した気がする。十年ぶりの同窓会の案内で、僕は欠席に丸をつけた。
「どうしたの、急に」
千尋は少し黙った。オフィスの空調の音が、やけに大きく聞こえた。
「灯がね、死んだの」
千尋はそう言った。
「六月。事故。雨の夜で、海沿いの道で。車がスリップして」
僕は「そう」と言った。ほかに何を言ったのかは覚えていない。
「八月に新盆をやるの。十三日から。……来なくてもいいけど」
千尋は、そこで言葉を切った。
「蒼くんが、あんたに渡したいものがあるって」
電話を切ってから、僕は長いあいだモニターを見ていた。画面にはプルリクエストのコメント欄が開いたままで、カーソルが点滅していた。
悲しい、とは思わなかった。
思わなかったことに、少し驚いた。十年だ。十年、一度も会っていない。声も聞いていない。僕の中の灯は十八歳のまま、防波堤沿いのバス停で、僕の頭の少し上を見ている。
ずっと嫌いだった、と言いながら。
その灯が二十八歳になって、雨の夜に死んだ。うまく想像できなかった。知らない人の訃報を、知っている名前で聞かされたような気がした。
三月まで付き合っていた沙耶は、別れ際にこう言った。
「湊ってさ、いつもどこか上の空だよね」
責める口調ではなかった。むしろ、少し気の毒そうだった。
「一緒にいても、ここにいない感じがする。どこにいるのかは分かんないけど」
僕は否定しなかった。できなかった、と言ったほうが正しい。
東京に来て十年。大学を出て、今の会社に入って六年になる。仕事はそれなりにこなしているし、友達もいないわけではない。休日には映画を観るし、たまにはひとりで知らない町を歩いたりもする。
なのに、この部屋はいつまでたっても仮住まいのようだった。段ボールをひとつ、開けないまま押し入れに入れてある。何が入っているのか、もう覚えていない。
行くつもりはなかった。
七月のあいだ、何度もそう思った。今さら帰ったところで、何ができるわけでもない。灯は僕を嫌っていたのだし、家族だって、僕の顔など見たくないだろう。
それでも八月十二日の朝、僕は東京駅から新幹線に乗っていた。
理由はうまく言えない。「蒼くんが、あんたに渡したいものがある」。千尋のその一言が、ずっと喉の奥に引っかかっていた。蒼の顔を思い出そうとすると、少年野球の帽子をかぶった、小学生の顔しか出てこない。あの子が、僕に何を渡すというのだろう。
新幹線を降りてローカル線に乗り換えると、窓の外が急に緑になった。単線の線路の両側に田んぼが広がり、その向こうに山が迫っている。トンネルをいくつか抜けたところで、左手に海が見えた。
鈍い銀色の海だった。
十年前と同じ色をしていた。
潮見駅の改札を出ると、ロータリーに白い軽自動車が停まっていた。運転席の窓が下りる。
「乗って」
千尋だった。髪が短くなって、頬の線が少し丸くなっている。後部座席にはチャイルドシートがあって、クマのぬいぐるみが座っていた。
「子ども?」
「三歳。今日は旦那の実家」
千尋はそれだけ言って、車を出した。
駅前の商店街は、半分ほどシャッターが下りていた。昔よく寄った本屋は携帯ショップになっている。けれど魚屋の軒先の看板と、郵便局の赤いポストは、十年前と同じ場所にあった。
「民宿、取ってあるんでしょ」
「うん。浜屋」
「ああ、あそこ。まだやってるんだ」
会話はそこで途切れた。千尋はまっすぐ前を見て運転していた。僕に対する温度が、電話のときより一段低い気がした。
信号待ちで、千尋がぽつりと言った。
「灯ね、春にあんたの住所、聞いてきたんだよ」
「え?」
「同窓会の名簿、作ってたとき。あんたが返信くれたあと、わりとすぐ。『湊の住所、分かる?』って」
千尋はハンドルを指で叩いた。
「十年ぶりだよ、あの子があんたの名前出したの。私、びっくりして。何に使うのって聞いたら、ちょっとね、って笑ってた」
「……それで」
「教えたよ。東京の住所」
信号が青に変わった。
「何に使うつもりだったのか、聞いとけばよかった」
千尋はそう言って、アクセルを踏んだ。
葉山家は、港から少し山側に上がった古い住宅街にあった。
平屋の小さな家で、玄関の軒下に白い提灯が下がっていた。新盆の家に吊るす、白い盆提灯だ。十年前、この玄関の前まで、僕は何度も灯を送ってきた。自転車の後ろに灯を乗せて。
千尋がインターホンを押すと、奥から女の人が出てきた。
「まあ……湊くん」
灯の母親の美津子さんだった。記憶よりずっと小さく見えた。僕が頭を下げると、美津子さんも深く頭を下げた。
「遠いところを、わざわざ」
「いえ。このたびは……」
続きがうまく出てこなかった。
靴を脱いで上がるとき、玄関の壁に野球帽がひとつかかっているのに気づいた。紺色で、つばが白く日焼けしている。子ども用の小さな帽子だった。その横には手作りらしい小さな風鈴が吊るしてあって、玄関の戸を閉めたときに一度だけ鳴った。
仏間に通された。
盆棚が組まれていて、真新しい位牌と、写真があった。
写真の灯は、僕の知らない顔をしていた。
髪は肩の上で短く切りそろえてあった。日に焼けて、目尻に笑い皺がある。首にタオルをかけて、どこか屋外で、誰かに向かって笑っていた。十八歳の灯とは、たしかに同じ人だった。けれど、別の人でもあった。
その十年を、僕は何も知らない。
線香を上げて手を合わせた。目を閉じても、何も浮かんでこなかった。祈る言葉さえ、見つからなかった。
お茶をいただいていると、玄関で声がした。近所の人らしい年配の女性が、盆菓子の箱を抱えて上がってきた。
「美津子さん、これ、お供えに」
「まあ、すみません」
女性は仏壇に手を合わせたあと、写真を見上げて、ため息のように言った。
「灯ちゃんもねえ。あの火事さえなかったら、今ごろ——」
「お茶、淹れますね」
美津子さんが、それを遮るように立ち上がった。女性は僕のほうをちらりと見て、口をつぐんだ。
火事。
僕は記憶を探った。あの夏、港の網小屋が一軒焼けた。そういえば、そんなことがあった。祭りの夜だったか、その翌日だったか。誰かが怪我をしたと聞いた気がするけれど、はっきりとは覚えていない。
それが、灯と何の関係があるのだろう。
聞こうとしたとき、廊下の奥から足音がした。
「——湊さん」
背の高い青年が、仏間の入口に立っていた。
一瞬、誰だか分からなかった。白いシャツに黒いスラックス。肩幅が広く、顔つきは細い。けれど目元だけは、灯によく似ていた。
「蒼……?」
「はい。ご無沙汰してます」
蒼は丁寧に頭を下げた。十年前は、僕の腰くらいまでしか背がなかった。今は僕より少し高い。
「大きくなったな」
間の抜けたことを言った、と思った。蒼は少しだけ笑った。
「もう二十二なんで」
「大学生?」
「四年です。教育学部。六月に教育実習に行ってて……」
蒼はそこで言葉を切った。六月。灯が死んだ月だ。
「来年から、小学校の先生なんです、この子」
お茶を運んできた美津子さんが、代わりに言った。どこか誇らしそうな声だった。
蒼は美津子さんに何か目で合図をして、僕のほうを向いた。
「少し、いいですか」
縁側に出ると、夕方の風が入ってきた。庭の向こうに、屋根と屋根のあいだから海が小さく見える。どこかの家で、子どもが花火をせがむ声がした。
蒼は、ずっと手に持っていたものを、両手で僕に差し出した。
「これを」
白い封筒だった。
受け取ると、紙は少し黄ばんで、角がわずかに丸くなっていた。表には、見覚えのある字でこう書いてあった。
朝倉湊くんへ
住所はなかった。名前だけだ。右上に、切手が一枚貼ってある。八十二円の切手だった。
消印は、なかった。
裏返すと、封はきちんと糊づけされていて、その下に小さく日付が書かれていた。
二〇二六年八月十四日に
「網小屋の、姉の作業場にあった缶の中に入ってました」
蒼が言った。
「作業場?」
「港の。姉、そこで働いてたんで」
僕が何か聞く前に、蒼は続けた。
「日付、明後日なんですけど。……もう、渡していいと思って」
蒼はそう言って、目を伏せた。何か言い足したそうに口を開いたけれど、結局、何も言わずに閉じた。
「ありがとう」
僕はそれだけ言った。
封筒は、ほとんど重さがなかった。
浜屋は、港の近くの古い民宿だった。
二階の六畳間に通されると、窓の外はもう暗くなりかけていた。遠くで漁船のエンジン音がする。廊下の突き当たりから、テレビの野球中継が小さく聞こえていた。
僕は畳の上に座って、封筒をしばらく眺めていた。
八十二円の切手。いつの切手だろう。今、手紙を出すなら百十円はかかるはずだ。消印がないということは、この手紙は一度もポストに入っていない。どこにも運ばれず、誰の手も通らないまま、十年間、缶の中にあった。
手紙は、切手を貼ってこそ手紙なんだよ。
灯の声が耳の奥でした。
それならこれは、手紙なのだろうか。
明後日まで待つべきか、少し迷った。けれど、宛てた本人はもういない。日付を守ったところで、誰が喜ぶわけでもない。
封筒の端を、慎重に指で裂いた。
中には便箋が一枚、三つ折りになって入っていた。
湊へ
この手紙を読んでいるなら、十年たったんだね。
約束、覚えてた? 覚えてなくても、怒らないよ。
あの夏、私はあなたに、たくさん嘘をつきました。
でも、ごめんねとは書きません。
あなたは何も見ていないし、何も知らない。
それが本当です。これからも、ずっと。
だから、この町のことは、もう思い出さなくていいです。
私のことも、嫌いなままでいてください。
東京は、楽しいですか。
二〇一六年八月三十日 灯
三回読んだ。
三回とも、最後の行で目が止まった。
東京は、楽しいですか。
楽しいかどうかなんて、考えたことがなかった。
二〇一六年八月三十日。あのバス停の前の日だ。灯は、僕に「ずっと嫌いだった」と言う前の晩に、十年後の僕に宛てた手紙を書いていた。
最初から、そういうつもりだったのだ。
たくさん嘘をついた。ごめんねとは書かない。嫌いなままでいてください。
やっぱり、と僕は思った。胸の奥が、十年ぶりに鈍く痛んだ。灯は僕に、何ひとつ本当のことを言っていなかった。それを十年後に、わざわざ念押ししてきたのだ。謝るつもりはない、と。
約束。
何のことだろう、と思いかけて、やめた。思い出したくなかった。
便箋を元どおりに折りたたみ、封筒に戻そうとした。そのとき、封筒の中で何かが引っかかった。
傾けると、畳の上に、細いものが一本転がり出た。
紙縒りのように細い軸。先のほうだけ、色褪せた和紙がふくらんでいる。
線香花火だった。
火のついていない、線香花火が一本。
僕はそれを拾い上げることができずに、しばらく見つめていた。
嫌いな相手に宛てた手紙に、なぜ、こんなものを入れたのだろう。




