プロローグ 八月三十一日
手紙は、切手を貼ってこそ手紙なんだよ。
いつだったか、灯はそう言った。
メールでいいじゃん、と僕が言ったときだったと思う。灯は「ばかだなあ」という顔をして、それから少しだけ得意そうに笑った。
切手を貼って、ポストに入れて、知らない誰かの手を何回も通って、やっと届くの。だから手紙なんだよ。
僕はたぶん、「ふうん」としか言わなかった。
十年たった今でも、あの夏を思い出そうとすると、最初に浮かぶのはその声だ。夏祭りでも花火でもなく、なぜかその声なのだ。理由は、ずっと分からなかった。
二〇一六年、八月三十一日。
夏休みの最後の日で、僕は宿題をひとつも終えていなかった。
防波堤沿いのバス停には、錆びた時刻表と、塗装のはげたベンチがあるだけだった。ベンチの背に「潮見信用金庫」と書いてあって、「潮」の字だけが妙に新しい。誰かがいたずらで削ったのを、信用金庫の人が塗り直したのだと、灯が前に教えてくれた。どうでもいいことほど、灯はよく知っていた。
午後三時。ツクツクボウシが鳴いていた。海から吹く風はまだ熱く、潮の匂いに、どこかで何かが焦げたような匂いが混じっていた。
灯から返信が来たのは、前の晩の十一時過ぎだった。
〈明日、三時。バス停。バスが来るまでなら〉
二週間ぶりの返信だった。その間に僕が送ったメッセージは、三十件を超えていたと思う。
灯は十分遅れてきた。
白いTシャツにジーンズ、肩には帆布のトートバッグ。いつもと同じ格好なのに、どこか知らない人みたいに見えた。髪を切ったのかと思ったけれど、そうではなかった。痩せたのだと気づいたのは、灯がベンチの端に腰を下ろしてからだった。
僕と灯のあいだには、人がひとり座れるくらいの隙間があった。
「宿題、終わった?」
先に口を開いたのは灯だった。海のほうを見たままだった。
「終わるわけないだろ」
「だよね」
灯はそれきり黙った。僕も黙った。聞きたいことが多すぎて、どれから聞けばいいのか分からなかった。
灯の左手には、まだ包帯が巻いてあった。お盆明けに商店街で会ったとき、料理で火傷した、と灯は言っていた。あれから二週間たつのに、包帯は少しも小さくなっていない。
「手、まだ治らないの」
「治ってるよ。大げさに巻いてるだけ」
灯は左手を右手で包むようにして、膝の上に置いた。その指に力がこもるのが分かった。包帯が、きゅっと鳴った気がした。
「なんで、返事くれなかったの」
ようやく、それだけ言えた。
「忙しかったから」
「何で」
「いろいろ」
「この前、車に乗ってただろ。商店街の角で。あれ、誰」
灯は少しだけ間を置いた。
「彼氏」
短く、そう言った。
「年上の。市内の人。だから、湊とはもう、あんまり会えない」
何か言おうとして、何も言えなかった。胸の真ん中を、冷たい手で押されたみたいだった。
灯の視線は、ずっと港のほうに向いていた。防波堤の切れ目の向こうに、網小屋の並ぶあたりが見える。そこに何があるのか、僕は確かめなかった。灯の横顔から目を離すのが、なぜだか怖かった。
「先週言ったことだけど」
僕は言った。
「あれ、本気だから。推薦のこと——」
「東京、行きなよ」
灯は、僕の言葉にかぶせるように言った。
「え」
「行きなよ、東京。せっかく推薦もらえるんだから。こんな町にいたって、何もないよ」
「何もないって、だってお前が」
「私がいるから?」
灯が初めてこっちを見た。でも、すぐにまた海へ視線を戻した。
「そういうの、重いんだよね。正直」
ツクツクボウシが鳴きやんだ。
「なあ、何かあったんだろ」
僕は食い下がった。
「祭りのあとから、おかしいよ。なんか隠してるだろ。俺にできることがあったら——」
「ないよ」
灯は笑った。少なくとも、笑ったように聞こえた。
「湊ってさ、嘘つけないでしょ。すぐ顔に出るもん。昔から」
「……それが何だよ」
「だから、もう何も聞かないで」
意味が分からなかった。分からないまま、僕は灯の膝の上のトートバッグを見ていた。口が少し開いていて、中から白い角がのぞいている。ノートか何かだと思った。灯は僕の視線に気づいたのか、右手でバッグの口を押さえた。
国道のほうから、エンジンの音が近づいてきた。
灯は立ち上がり、バッグを肩にかけ直して、ジーンズの膝を二回はたいた。はたくような汚れなんて、どこにもついていなかった。
「湊」
名前を呼ばれて、僕は顔を上げた。
灯は僕を見ていなかった。僕の頭の少し上、何もない空のあたりを見ていた。
「私、あんたのこと、ずっと嫌いだった」
バスが、ブレーキの音を立てて止まった。
行き先表示には「市街・中央病院前」と出ていた。
「東京、行きなよ」
灯はもう一度そう言って、ステップを上がった。振り返らなかった。窓際の、海側の席に座るのが見えたけれど、ガラスに光が反射して、顔までは見えなかった。
走り出したバスが防波堤の向こうへ小さくなっていくのを、僕はベンチに座ったまま見送った。追いかけようとは思わなかった。思うことさえ、できなかった。
ずっと嫌いだった、という言葉だけが、耳の奥に残っていた。
それが、僕が灯を見た最後だった。




