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第九章 焼けた手

第三部 夜の海沿い

湊 ── 二〇二六年八月


 潮見の里は、町の外れの、山の中腹にあった。

 圭介さんの車の助手席から、夕方の海が見えた。西の空が赤く、海はその色を映して、ゆっくりと暗くなっていくところだった。

 圭介さんは運転しながら、ほとんど何も話さなかった。一度だけ、「伯父は、口は悪いですけど」と言った。

「嘘はつかない人です。……いや、一度だけついたのか」

 そう言って、少し笑った。


 施設の廊下は、消毒液と夕食の匂いがした。

 いちばん奥の個室の窓際に、車椅子に座った老人がいた。痩せていたが、背筋はまっすぐで、白い髪を短く刈っていた。膝の上に、薄い毛布がかけてある。

 その上に置かれた両手を見て、僕は足を止めた。

 手の甲から指先まで、皮膚が白く、つるりと引きつれていた。指は何本か、内側に曲がったまま固まっている。握ることも、開くことも、もうできないのだと一目で分かった。

「来たか」

 源さんは、窓の外を見たまま言った。

「朝倉の坊主」

 十年ぶりに聞く声だった。記憶より少しかすれていたけれど、あの網小屋の戸口で「火の始末だけはせえよ」と言った声と、同じ声だった。

「……ご無沙汰してます」

「でかなったな。座れ」

 圭介さんが、壁際のパイプ椅子を広げてくれた。それから「外にいます」と言って、部屋を出ていった。


 僕は、何から話せばいいのか分からなかった。

 源さんは急かさなかった。窓の外で、カラスが鳴きながら山へ帰っていった。

「灯の手紙を、もらいました」

 ようやく、そう言った。

「十年前に書いたものです。蒼が、網小屋の缶の中から見つけて」

「そうか」

「たくさん嘘をついた、と書いてありました。それから、あなたは何も見ていないし、何も知らない、と」

 源さんは、ほんの少しだけ目を細めた。

「今日、島田さんに会いました。圭介さんからも話を聞きました。火事のあと、灯があなたの病室で、自分が火をつけたと言ったって」

 源さんは、何も言わなかった。

「それから、防波堤にロケット花火の棒が落ちていたって。あの夜、僕らはロケット花火をやってません。残りは全部、灯に渡しました」

 言いながら、喉がひりついた。

「源さん。灯が、火をつけたんですか」


 源さんは、しばらく窓の外を見ていた。

 それから、ゆっくりと僕のほうを向いた。

「わしはな、あの子と約束しとる」

「約束?」

「あの夏のことは、わしからは誰にも言わん。そういう約束や。十年守ってきた。あの子が死んだからいうて、破ってええもんやない」

「でも」

「ただな」

 源さんは、膝の上の両手を、ほんのわずかに持ち上げた。持ち上げるだけで精一杯という動きだった。

「これだけは言うとく。これは約束の外の話や」

 僕は、その手を見た。

「あの子はやっとらん」

 源さんは、はっきりと言った。

「あの晩、網小屋が燃えとるとき、わしは網を引き出そうとして、手に火がついた。燃えとる網が手に張りついて、離れんかった。もうあかん、と思うた」

 源さんの目が、僕の目をまっすぐに見た。

「そのとき、あの子が、わしの腕をつかんで引っぱり出した。燃えとる網を、わしの手から、素手でむしり取った」

 病室の空気が、急に薄くなった気がした。

「あの子の左手の火傷はな」

 源さんの声が、わずかに揺れた。

「わしのせいや」


 料理で火傷した。ドジった。

 八百屋の前で、灯は左手を軽く振って笑った。

 治ってるよ。大げさに巻いてるだけ。

 バス停のベンチで、灯は包帯の手を、もう片方の手で包んでいた。

 あれは、火の中に手を突っ込んで、この人を引きずり出した手だった。

 僕はそのことを、何も知らなかった。知らないまま、あの手を見て、彼氏がいるんだと思って、傷ついて、東京へ行った。

 膝の上で、自分の手が震えているのが分かった。


「……じゃあ」

 声がかすれた。

「誰が、火をつけたんですか」

「それは、わしが言うことやない」

「源さんは、知ってるんですね」

「知っとるとも、知らんとも言わん」

 源さんは、目を閉じた。

「わしは、あの晩のことを、あの子と同じくらいしか知らん。あの子が守ろうとしたもんを、わしが横から勝手にしゃべるわけにはいかん」

「灯は、なんで」

 抑えていたものが、あふれそうになった。

「なんで、自分がやったなんて。なんで、俺に何も言わないで、嫌いだなんて。なんで学校やめて、ずっとここで——」

「朝倉」

 源さんが、僕の言葉を静かに遮った。

「お前は、あの夜、何を見た」


 僕は、口を開いたまま固まった。

 あなたは何も見ていないし、何も知らない。

 手紙の一行が、頭の中で、別の声で読み上げられた気がした。

「……何も」

 僕は答えた。

「何も、見てません。灯を家に送って、帰って。眠れなかったから、コンビニに行って。それだけです」

 源さんは、しばらく僕の顔を見ていた。

 それから、深く息を吐いた。

「そうか」

 ほんの少しだけ、口の端が上がった。笑ったのか、泣きそうになったのか、分からなかった。

「あの子の望みどおりやな」


 帰り際、源さんが僕を呼び止めた。

「朝倉」

「はい」

「圭介に、お前が来たら寄こせと言うといたんはな、お前に渡すもんがあるからや」

「渡すもの?」

「今日は渡さん」

 源さんは、窓の外の暗くなった海を見た。

「あの子が何を守ったんか、お前が自分で分かってからや。それまでは、わしが預かっとく。……それが、あの子との約束の、もうひとつや」


 施設を出ると、外はもう暗かった。

 圭介さんの車の中で、僕は一言も話さなかった。

 お前は、あの夜、何を見た。

 あなたは何も見ていないし、何も知らない。

 二つの言葉が、頭の中で重なって、離れなかった。

 灯は比喩で書いたのではなかった。

 あの夜、僕は、何かを見ていたのだ。


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