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第十章 跨線橋

灯 ── 二〇一六年九月~二〇二五年


 網の目を結ぶのは、思っていたよりずっと難しかった。

 網針に糸を巻き、目板という薄い板に糸をかけて、ひと目ずつ結んでいく。結び目の形はひとつだけなのに、力の入れ方ひとつで、目の大きさがばらばらになる。

「あかん。ほどけ」

 源さんは、退院してからも毎日網小屋に来て、焼け残った作業台の横に座った。包帯の取れた両手は膝の上に置いたまま、口だけで教えた。

「目が揃うとらん網は、魚が逃げる。漁師の飯が減る。ほどいて、やり直せ」

 私は、半日かけて結んだ網をほどいた。

 指の皮が剥けた。左手の火傷の痕が、糸にこすれて痛んだ。それでも、ほどいて、結び直した。

 九月の終わりに、源さんがはじめて「まあ、ええやろ」と言った。

 帰り道、自転車を漕ぎながら、少しだけ泣いた。


 学校は、通信制に移った。

 昼間は網小屋で網を編み、夜は台所のテーブルでレポートを書いた。母には、源さんの手伝いをしたいから、とだけ言った。母は何か言いたそうにして、結局、何も聞かなかった。母は、そういう人だった。

 デザイン学校のパンフレットは、三冊とも紐で縛って、資源ごみの日に出した。

 出す前に、一度だけ開いた。東京の、白い校舎の写真。ガラス張りの教室で、学生たちが大きな机に向かっている。

 私は、パンフレットを閉じた。

 いいんだ、と思った。網の目だって、デザインみたいなものだ。


 町の噂のことは、千尋から聞かなくても知っていた。

 スーパーのレジで、郵便局の窓口で、網小屋の前を通りかかる人の目で、分かった。網小屋の火事は、祭りの夜に花火をしていた葉山の娘のせいらしい。だから学校をやめて、源さんのところで働かされているのだ、と。

 否定しなかった。

 千尋は怒った。噂を言いふらした子の机を叩いて、反省文を書かされたと聞いた。千尋に悪いと思った。でも、否定するわけにはいかなかった。

 祭りの夜、網小屋の裏で花火をしていた高校生は、二人いた。

 私が否定すれば、町の人の目は、もう一人のほうへ向く。あの夜、港の近くのコンビニにいた、もう一人のほうへ。

 そして、その一人が問いつめられて、正直に何かを話したら——

 だから、否定しなかった。


 郵便受けの封筒のことは、源さんには言わなかった。

 毎月の終わりに、網小屋で源さんからもらったお給料の中から一万円を抜いて、白い封筒に入れた。名前は書かない。切手も貼らない。夜、源さんの仮住まいのアパートまで自転車で行って、郵便受けにそっと落とした。

 源さんは何も言わなかった。私も何も言わなかった。

 一通目を落とした夜、アパートの二階の窓に、灯りがついたのが見えた。私は自転車を漕いで逃げた。

 源さんには、分かっていたと思う。分かっていて、何も言わずに受け取ってくれている。そう思うことにした。


 十月の半ば、網小屋に来た千尋が、妙に口数が少なかった。

 何かを言わないでいる顔だった。千尋は、嘘をつくのが下手だ。

「湊、決まったんだってね。東京」

 私が先に言うと、千尋は目を丸くした。

「……誰に聞いたの」

「町の人は、みんな知ってるよ」

 本当は、商店街の八百屋のおばさんが、湊のお母さんから聞いた話を大声でしていたのを、通りすがりに聞いただけだった。

 私は網針を置いて、笑った。

 笑うつもりはなかった。でも、体の奥から、力が抜けていった。ずっと息を止めていたのが、ようやく吐き出せたような気がした。

 よかった。

 湊は、東京へ行く。

 その夜、布団の中で、声を殺して泣いた。よかった、と思いながら泣いた。どうして泣いているのか、自分でもよく分からなかった。


   ◇


 二〇一七年、三月の終わり。

 湊が町を出る日を、私は知っていた。

 知ろうとしたわけではない。町が小さすぎるのだ。朝倉さんとこの息子は、二十八日の朝の電車で東京へ行くらしい。お父さんも春には転勤らしい。そういう話は、網小屋にいても、勝手に耳に入ってきた。

 その朝、私は網小屋へ行く前に、駅へ回った。

 潮見駅には、線路をまたぐ古い跨線橋がある。屋根のない、鉄の階段と通路だけの橋だ。その真ん中に立つと、ホームが真下に見える。

 私は、跨線橋の手すりの陰に立った。

 ホームには、湊と、湊のお母さんがいた。湊は大きなボストンバッグを肩にかけて、ポケットに手を突っ込んで立っていた。見送りは、お母さんだけだった。

 同級生は、誰も来ていなかった。私が行かないと分かっていたから、千尋も来なかったのだと思う。

 湊は、一度もこちらを見上げなかった。

 電車が入ってきた。二両編成の、古い電車だった。

 湊がお母さんに何か言って、電車に乗った。ドアの窓越しに、湊の横顔が見えた。少し痩せた気がした。髪が伸びていた。

 手を振ろうとして、やめた。

 右手を上げかけて、手すりを握った。

 ドアが閉まった。電車が動き出した。線路の継ぎ目を踏む音が、跨線橋の鉄骨に響いた。

 電車がトンネルに入って見えなくなるまで、私はそこにいた。

 湊は、最後まで、顔を上げなかった。

 それでいい。

 これで、湊の中の私は、あのバス停のベンチで終わる。


   ◇


 その年の八月十四日、私は網小屋の裏で、ひとりで線香花火をした。

 祭りの音が、港のほうから聞こえていた。建て直したばかりの網小屋は、木の匂いがした。源さんに借りたバケツに水を張って、一本だけ火をつけた。

 ぱち、ぱち、と火花が散った。火の玉がふくらんで、落ちた。

 燃えさしを、バケツの水に沈めなかった。

 乾かして、ジャムの空き瓶に入れて、蓋をした。瓶に小さなラベルを貼って、「2017」と書いた。

 馬鹿みたいだと思った。それでも、そうせずにはいられなかった。


 二〇一八年。二〇一九年。二〇二〇年。

 毎年、同じ日に、一本だけ。

 燃えさしは、一本ずつ増えていった。

 網の目は、年ごとに揃っていった。漁師さんたちが、私の網を名指しで頼んでくれるようになった。源さんは、あまり褒めなかった。ときどき、「まあ、ええやろ」と言った。その回数が、少しずつ増えていった。

 蒼は中学を出て、高校に入り、市内の大学の教育学部に受かった。合格発表の日、蒼は網小屋に走ってきて、何も言わずに私の前に合格通知を置いた。私はそれを三回読んで、網針を落とした。

 二〇二二年、源さんが施設に入った。私は毎週、面会に行った。封筒は、施設の事務室の郵便受けに入れるようになった。

 二〇二三年。二〇二四年。二〇二五年。

 瓶の中の燃えさしは、九本になった。

 十年目まで、あと一本だった。


   ◇


 ときどき、夜の網小屋で、ひとりで考えることがあった。

 もし、あの夏、町の噂を否定していたら。

 もし、源さんに、本当のことを話していたら。

 もし、湊に、全部打ち明けていたら。

 そのたびに、同じところで考えが止まった。

 否定すれば、次に名前が挙がるのは、あの子だった。

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