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第十一章 夜の海沿い

湊 ── 二〇二六年八月


 浜屋に戻ると、玄関の前で、女将さんが迎え火を焚いていた。

 素焼きの小皿に、皮をむいた麻の茎——苧殻を折って積み、マッチで火をつける。細い煙がまっすぐに立ちのぼって、夜の中に消えていく。

「お盆の間は、ご先祖さんが帰ってくるでね。道に迷わんように」

 女将さんは、しゃがんだまま団扇で煙を送った。

 通りの向こうでも、あちこちの家の玄関先で、小さな火が揺れていた。町じゅうが、薄く煙っていた。

 僕は部屋に上がる気になれなかった。

「女将さん。自転車、借りてもいいですか」

「ええよ。裏にあるで。ライトつくかどうか知らんけど」


 裏口の軒下に、錆の浮いたママチャリが一台立てかけてあった。前かごがへこんでいて、ライトはつかなかった。

 サドルにまたがると、膝が思ったより高い位置にきた。十年前、僕が乗っていた自転車も、こんなふうにサドルが低かった。灯を後ろに乗せるたびに、「低すぎ」と笑われた。

 ペダルを踏んだ。

 港の前を通り過ぎ、海沿いの道に出た。

 左手が海で、右手に古い家並みが続く。街灯はまばらで、家々の迎え火の明かりが、ぽつりぽつりと道を照らしていた。海のほうからは、波が防波堤に当たる低い音がした。

 十年前の八月十四日の夜、僕はこの道を走った。

 灯を家に送って、自分の家に帰って、布団に入った。眠れなかった。網小屋の裏で、灯に止められた言葉が、胸の中でぐるぐる回っていた。十年後、という灯の声も。

 十時過ぎに、家を抜け出した。炭酸でも買おうと思った。本当は、ただ夜の中を走りたかっただけだ。


 あのときも、こんなふうに風が生ぬるかった。

 あのときも、こんなふうに、どこかで何かが燃える匂いがしていた。

 ——いや。

 あのときは、迎え火の季節ではなかった。祭りの夜だった。十四日の夜だ。家々の玄関先に、火は焚かれていなかった。

 なのに、僕は覚えている。

 海沿いの道の、ちょうどこのあたりで、焦げたような匂いを嗅いだことを。

 ブレーキを握った。錆びたブレーキが、きいと鳴った。

 自転車を止めて、道の真ん中に立った。前を見た。港のほうから、この道はゆるくカーブしながら、町の中心へ続いている。

 ここだった。


 足音がした。

 軽い、速い足音だった。サンダルか、スニーカーか。アスファルトを叩くように、港のほうから近づいてくる。

 小さな影が、僕の自転車のライトの中に飛び込んできた。

 子どもだった。背丈は僕の胸くらい。Tシャツに半ズボン。頭に、紺色の野球帽をかぶっていた。

 息を切らしていた。顔は帽子のつばに隠れて、よく見えなかった。

 すれ違いざまに、焦げくさい匂いがした。火薬と、何か別のものが燃えたような匂いが。

「蒼?」

 僕は声をかけた。

 影は、止まらなかった。一瞬だけ、帽子のつばがこちらを向いた。つばの裏が、ライトに照らされて、白く光った気がした。そしてそのまま、町のほうへ走り去っていった。

 あいつ、こんな時間に何してんだ。

 僕はそう思った。それだけだった。夜遊びか、と苦笑して、ペダルを踏んだ。コンビニで炭酸を買って、防波堤で海を見ながら飲んで、家に帰った。帰ってしばらくしてから、遠くでサイレンが鳴っていた。

 それだけのことだった。

 だから、十年間、一度も思い出さなかった。


 僕は、ママチャリのハンドルを握ったまま、動けなかった。

 八月十五日の昼。八百屋の前。

 そういえば昨日、夜中にコンビニ行ったらさ、蒼が走ってたぞ。

 見間違いだよ。蒼はずっと家にいたよ。

 灯は、そう言った。すぐに、はっきりと。

 それから、急に用事を思い出したように帰っていった。その日から、僕のメッセージに返事をしなくなった。

 玄関の壁にかかっていた、紺色の小さな野球帽。つばが白く日焼けしていた。

 燃える網小屋の明かりの中を、野球帽の小さな影が走っていった。源さんはそれを見ていた。だからこそ、灯の自白を信じなかった。

 防波堤の上の、ロケット花火の棒。

 僕が灯に渡した袋。

 これ、蒼にやって。

 全部が、一本の線でつながっていった。つながってほしくない線だった。


 あなたは何も見ていないし、何も知らない。

 それが本当です。これからも、ずっと。


 あれは、突き放す言葉ではなかった。

 お願いだったのだ。

 あの夜、僕は蒼を見た。その僕が、翌日、駐在に事情を聞かれることになっていた。

 聞かれていたら、僕は何と答えただろう。

 嘘がつけない僕は、たぶん、見たとおりに答えた。夜中にコンビニへ行く途中、蒼が港のほうから走ってくるのを見ました、と。何の悪気もなく。

 湊ってさ、嘘つけないでしょ。すぐ顔に出るもん。

 だから、もう何も聞かないで。


 自転車を押して、港のほうへ歩いた。

 足が勝手に動いていた。

 防波堤の先で、赤灯台が点滅していた。岸壁に並ぶ船の影を過ぎ、港のいちばん端まで来ると、「久住網店」の小屋が見えた。

 窓から、明かりが漏れていた。

 戸が、少しだけ開いていた。

 僕は自転車を小屋の横に立てかけ、戸口に立った。

 作業台の前の椅子に、誰かが背中を丸めて座っていた。白いシャツの背中。灯の網針を一本、指先で転がしていた。

 蒼だった。

 蒼はゆっくりと振り返った。僕の顔を見ても、驚かなかった。まるで、ずっとそこで待っていたみたいだった。

 しばらく、どちらも何も言わなかった。

 干された網が、夜風に鳴っていた。

「……思い出したんですね」

 蒼が言った。

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