第十二章 僕の夏
蒼 ── 二〇一六年八月/二〇二六年
戸口に立った湊さんの顔を見て、分かった。
この人は、思い出したのだ。
十年前と同じ顔だった。あの夜、自転車のライトの向こうで、「蒼?」と僕を呼んだときと、同じ顔。驚いていて、少し困っていて、それでも、どこか心配そうな顔。
僕は、姉ちゃんの網針を作業台に置いた。
話さなければいけない。
そう思った瞬間、あの夜の匂いが、鼻の奥によみがえった。
◇
二〇一六年、八月十四日。
僕は十二歳で、どうしてもロケット花火がやりたかった。
たっくんの家では、お父さんが毎年、庭で打たせてくれるらしい。ひゅう、と音がして、空に飛んでいって、ぱん、と鳴る。そう聞いただけで、胸がどきどきした。
ねえちゃんは、絶対にダメだと言った。
祭りの夜、ねえちゃんは湊くんと出かけていった。僕は連れていってもらえなかった。居間でテレビを見ながら、ずっと面白くなかった。
九時過ぎに、ねえちゃんが帰ってきた。手に、コンビニのビニール袋を提げていた。
「花火は?」
「もうおしまい。早く寝な」
ねえちゃんはそう言って、台所へ行った。僕はテレビを見るふりをして、横目でねえちゃんを見ていた。
ねえちゃんは、ビニール袋を戸棚のいちばん上に置いた。背伸びをして、奥のほうへ押し込むように。
袋の口から、細い棒が何本か飛び出していた。
ロケット花火だ、と思った。
ねえちゃんがお風呂に入ったのは、十時前だった。
母さんは、その日は加工場の夜勤だった。家の中には、お風呂のお湯の音と、テレビの音しかしなかった。
僕は台所の椅子を戸棚の前まで引きずっていって、その上に乗った。背伸びをすると、指先が袋に届いた。
ロケット花火は、八本あった。ライターは、ねえちゃんの机の引き出しに入っていた。
帽子をかぶって、玄関の戸をそっと開けた。戸は、からからと少しだけ鳴った。お風呂の中のねえちゃんには、聞こえなかったと思う。
行き先は、港しかなかった。
昼間、ねえちゃんと湊くんが、網小屋の裏で花火をすると話していた。網小屋の裏は広くて、海に面していて、誰もいない。あそこなら、空に向かって打てる。
打てたら、明日、ねえちゃんに言うつもりだった。
ひとりでちゃんとできたよ、と。
網小屋の裏は、暗かった。
源さんの家の縁側に、蚊取り線香の赤い点がひとつ見えた。源さんはもう寝ているみたいだった。
僕は防波堤の上に立って、ロケット花火を一本、コンクリートの割れ目に差した。海のほうに向けて、ライターで導火線に火をつけた。
ひゅう、と音がして、海の上で、ぱん、と鳴った。
すごい、と思った。
二本目も、海の上で鳴った。
三本目は、差し方が悪かった。
導火線に火をつけた瞬間、棒が割れ目の中でぐらりと傾いた。止める間もなかった。ロケット花火は、ひゅう、という音を立てて、海ではなく、横に飛んだ。
網小屋のほうへ。
軒下の暗がりに吸い込まれて、ぱん、と鳴った。
それだけだった。何も起きなかったように見えた。
僕は、しばらくじっとしていた。心臓がばくばくしていた。
それから、軒下の暗がりが、ぼうっと赤くなった。
干してあった網の端が燃えていた。小さな炎だった。僕は走っていって、サンダルで踏んだ。何度も踏んだ。でも炎は、網の目を伝って、上へ、奥へと這い上がっていった。
熱かった。煙が目に染みた。
奥のほうで、何かの缶が、ごう、と音を立てた。
僕は、逃げた。
防波堤の上を、町のほうへ走った。
後ろで誰かが「こら!」と怒鳴った。源さんの声だった。振り返れなかった。
海沿いの道に出た。
前から、自転車が来た。ライトが、まっすぐ僕の顔を照らした。
「蒼?」
湊くんの声だった。
止まれなかった。止まったら、全部ばれると思った。帽子のつばを下げて、そのまま走り抜けた。
家に着くと、ねえちゃんが、濡れた髪をタオルで拭いていた。
僕の顔を見て、ねえちゃんの手が止まった。
「どこ行ってたの」
僕は、声を上げて泣き出した。
何を話したのか、よく覚えていない。ロケット、網小屋、燃えた、源さん。そんな言葉を、泣きながら、順番もめちゃくちゃに言ったのだと思う。
ねえちゃんは、僕の肩をつかんで、僕の目を見た。
「湊くんに、会った」
僕がそう言ったとき、ねえちゃんの顔から、すうっと色が消えた。
ねえちゃんは、僕の肩をつかんだまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと、はっきりと言った。
「蒼。よく聞いて」
僕は、しゃくりあげながらうなずいた。
「あんたは、ずっと家にいた。お風呂の音がしてて、テレビを見てて、そのまま寝た。どこにも行ってない。何も見てない。いいね」
「でも」
「いいね」
ねえちゃんは、僕の帽子を頭から取って、玄関の壁にかけた。
「寝てて。絶対に、外に出ないで」
そう言って、サンダルをつっかけて、玄関から飛び出していった。
遠くで、サイレンが鳴りはじめていた。
ねえちゃんが帰ってきたのは、夜中の一時過ぎだった。
僕は布団の中で、ずっと目を開けていた。玄関の戸が開く音がして、台所で水道の音がして、それから、押し殺したような、うめき声がした。
そっと起きていくと、ねえちゃんが流しの前にしゃがみこんで、左手を水にさらしていた。手の甲から指にかけて、赤黒く腫れていた。
「ねえちゃん、手」
「なんでもない」
ねえちゃんは、振り返らずに言った。
「寝てなさいって、言ったでしょ」
次の日から、ねえちゃんは何度も僕に同じことを言わせた。
あの夜、僕はどこにいた?
家にいた。
何を見た?
何も見てない。
夜、駐在さんが家に来た。僕は奥の部屋で、布団をかぶって息を殺していた。駐在さんが帰ったあと、ねえちゃんは長いこと台所の椅子に座って、テーブルの一点をじっと見ていた。
その次の日、ねえちゃんは朝早くから出かけていった。帰ってきたときは、目が真っ赤だった。そして、「もう大丈夫」と言った。
「火事は、源さんの蚊取り線香が原因だったって。あんたのせいじゃない」
僕は、それを信じようとした。
信じようとして、十年、信じきれなかった。
◇
ねえちゃんは、学校をやめて、源さんの網小屋で働きはじめた。
町の人たちは、ねえちゃんが火事を起こしたのだと噂した。中学に上がると、同級生の親が、僕の前でもそういう話をした。葉山さんとこのお姉さん、ほら、あの火事の。
僕は、何も言えなかった。
言えば、全部が壊れる気がした。ねえちゃんが守ってくれたものが、全部。
だから、そのかわりに、勉強した。
ちゃんとした大人にならなければいけないと思った。ねえちゃんが、自分の人生と引き換えに守ってくれた僕が、だめな大人になるわけにはいかない。それだけを考えて、十年を過ごした。
教師になろうと決めたのは、高校二年のときだ。
子どもが、ひとりで何かを抱えこまなくてもいいような場所を、つくりたかった。
今年の五月。
大型連休の最後の日、僕はねえちゃんに網小屋へ呼ばれた。
ねえちゃんは作業台の前に座って、網を編んでいた。僕が入っていくと、手を止めずに言った。
「八月十四日に、湊が来るかもしれない」
心臓が、跳ねた。
「来ないかもしれない。たぶん、来ない。でも、もし来たら」
ねえちゃんは、網針を置いて、僕を見た。
「あの夜のこと、湊に話すかどうかは、あんたが決めて」
「……え」
「十年、待ったの。あんたが大人になるまで。自分のことを、自分で決められるようになるまで」
ねえちゃんは、少しだけ笑った。
「話したくなかったら、話さなくていい。そのときは、私が一生黙ってる。湊には、何も言わない。それで、いいから」
僕は、何も言えなかった。
ねえちゃんはまた網針を取って、網の目を結びはじめた。その手の甲には、十年前の火傷の痕が、白く残っていた。
六月、ねえちゃんが死んだ。
雨の夜だった。源さんの施設からの帰り道だった。
葬式が終わって、網小屋を片づけていたとき、作業台の下のクッキー缶の中から、封筒が出てきた。
朝倉湊くんへ。
二〇二六年八月十四日に。
僕は、その封筒を持って、何日も迷った。
燃やしてしまおうかと思った夜もあった。これを渡せば、湊さんは、きっと何かに気づく。気づいたら、あの夜のことを聞かれる。
でも、燃やせなかった。
これは、ねえちゃんが十年守ってきたものだった。僕が勝手に消していいものじゃない。
千尋さんに頼んで、湊さんに連絡してもらった。
縁側で封筒を渡したとき、本当は言うつもりだった。でも、言えなかった。湊さんの顔を見たら、喉が詰まった。
◇
戸口に、湊さんが立っている。
十年前、自転車のライトの向こうにいた人が、今、網小屋の明かりの中にいる。
ねえちゃんは、十年待ってくれた。
僕が、自分で決められるようになるまで。
僕は、椅子から立ち上がった。膝が震えていた。十二歳のあの夜と同じように。
でも、今度は逃げなかった。
「湊さん」
声が、かすれた。
「あの夜、網小屋に火をつけたのは、僕です」




