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第十三章 守られた側

第四部 十年後の約束

湊 ── 二〇二六年八月


 蒼は、立ったまま僕を見ていた。

 震える膝を、両手で押さえるようにして。十二歳の子どもが、大人の体の中で、必死に逃げ出さないようにしている。そんなふうに見えた。

 僕は、何を言えばいいのか分からなかった。

 怒りは湧いてこなかった。驚きさえ、なかったのかもしれない。海沿いの道で自転車を止めたとき、僕はもう、全部分かっていた。分かっていて、蒼の口から聞くまで、それを認めたくなかっただけだ。

「……座れよ」

 ようやく、それだけ言った。

 蒼は、糸が切れたように椅子に座った。僕は作業台の反対側の、丸椅子に腰を下ろした。

 あいだに、灯の網針が一本、転がっていた。


「俺さ」

 僕は、網針を見ながら言った。

「あの夜、お前とすれ違ったの、覚えてたんだよ。ずっと。でも、覚えてることに気づいてなかった」

 蒼は顔を上げた。

「次の日、灯に言ったんだ。蒼が夜中に走ってたぞって。灯は、見間違いだって言った。俺はそれで納得した。それっきり、十年、一度も思い出さなかった」

「……はい」

「さっき、海沿いの道で、迎え火の煙の匂いがして。そしたら、全部出てきた。お前の帽子のつばが、白く光ったのまで」

 蒼は、ぎゅっと目を閉じた。

「ねえちゃんが、縫ってくれたんです。つばの裏に、名前」

「そうか」

 玄関の壁の、紺色の小さな帽子。十年間、あそこにかかっていたのだ。


 僕たちは、しばらく黙っていた。

 網小屋の窓の外で、波の音がした。港の常夜灯の明かりが、干された網の影を床に落としていた。

「島田さんがな」

 僕は言った。

「火事の翌々日、俺に話を聞くつもりだったって。片桐が、コンビニで俺を見たって話したから」

 蒼は、黙ってうなずいた。

「聞かれてたら、俺、たぶん正直に答えてた。夜中にコンビニ行くとき、港のほうから蒼が走ってきました、って。何も考えずに」

「……ねえちゃんも、そう言ってました」

 蒼が、小さな声で言った。

「え?」

「火事の次の日の夜。駐在さんが帰ったあと、ねえちゃん、台所でずっと座ってて。僕、怖くなって、言ったんです。湊くんに頼めばいいじゃん、見なかったことにしてって。そしたら、ねえちゃん」

 蒼は、そこで少し言葉を詰まらせた。

「『湊は、嘘がつけないから』って」

 湊ってさ、嘘つけないでしょ。すぐ顔に出るもん。

「『それに、湊に頼んだら、湊は全部分かっちゃう。分かったら、湊は——』って。そこで、ねえちゃん、黙っちゃって。続きは言いませんでした」

 続きは、言われなくても分かった。

 分かったら、僕は、どうしただろう。


 僕は、自分の手を見た。

 あの夜、花火の袋を灯に渡したのは、この手だ。

 これ、蒼にやって。ロケットは、大人と一緒にな。

 蒼が火をつけたのだとしても、その花火を買って、持ってきて、渡したのは僕だ。もし十八歳の僕がそのことを知っていたら——

「俺が、やったって言ってたと思う」

 声に出すと、それは確信になった。

「俺の花火だ、俺が置いていった、俺の責任だって。駐在にも、源さんにも、町じゅうにも。お前をかばうためなら、絶対にそう言ってた」

 蒼が、息をのむ音がした。

「推薦なんか、どうでもよくなってた。源さんに償うって言って、この町に残って、働いてたと思う」

 十八歳の僕なら、そうしただろう。

 迷いもせずに。自分が何を差し出しているのかにも、気づかずに。

 湊は、東京行きなよ。絶対。私が行けなくても。

 七月の石段で、灯は笑わなかった。

 あのとき、灯はもう知っていたのだ。僕がそういう人間だということを。火事が起きるずっと前から。


「それから」

 蒼が、ためらいがちに言った。

「八月の、二十五日くらいだったと思います。ねえちゃんが夕方に帰ってきて、玄関で靴も脱がずに、しゃがみこんでたことがあって」

「……二十五日」

「僕、どうしたのって聞いたんです。そしたら、ねえちゃん、ひとりごとみたいに言いました」

 蒼は、その言葉を正確に思い出そうとするように、少し間を置いた。

「『湊が、この町に残るって。……だめだよ、そんなの』」

 神社の石段だった。

 夕方で、ひぐらしが鳴いていた。

 祭りのあとから、灯の様子がおかしかった。返事はそっけなく、会ってもすぐに帰ろうとした。何かあったのだと思った。何か困っているのだと。だから、言ったのだ。

 俺、推薦断るわ。こっちで働く。灯のそばにいる。

 かっこいいことを言ったつもりだった。灯を安心させられると思っていた。

 灯は、何も答えなかった。石段を下りていって、一度も振り返らなかった。

 その六日後が、あのバス停だった。


 東京、行きなよ。

 そういうの、重いんだよね。正直。

 私、あんたのこと、ずっと嫌いだった。


 ひとつずつ、言葉の意味が裏返っていった。

 灯は、僕を突き放したのではなかった。

 僕が自分で自分をこの町に縛りつけようとした、その縄を、灯が切ったのだ。切るには、嫌われるしかなかった。灯という理由がある限り、僕はどこへも行かない。だから灯は、その理由ごと、自分を僕の中から消そうとした。

 十年前、あのバス停で。

 あの包帯の手を握りしめて。


 気がつくと、窓の外が白みはじめていた。

 網小屋の中の明かりが、少しずつ色を失っていった。干された網の向こうで、海が灰色から青に変わっていく。

 蒼は、作業台の上の網針を、両手で包むように持っていた。

「湊さん」

「うん」

「僕、ずっと聞けなかったことがあるんです」

 蒼は、網針を見つめたまま言った。

「ねえちゃんの十年は、僕のせいですか」

 僕は、答えられなかった。

 答えなど、持っていなかった。

 あの夜、ロケット花火を打ったのは蒼だ。花火を渡したのは僕だ。灯が十年を差し出したのは、そのどちらのためでもあった。

 蒼のせいではない、と言うのは簡単だった。でも、それは十年前に灯が蒼に言った「あんたのせいじゃない」と、同じ言葉になってしまう。蒼は十年、その言葉を信じきれずに生きてきたのだ。

 夜明けの光の中で、僕たちは黙って座っていた。

 漁港のどこかで、最初の船のエンジンがかかる音がした。

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