第十四章 十年という時間
灯 ── 二〇一六年八月
玄関の戸が、からからと開いた。
母さんが帰ってくるには、早すぎる時間だった。
髪を拭いていたタオルを持ったまま玄関へ行くと、蒼が立っていた。帽子をかぶって、サンダルを片方だけ履いて、全身から焦げた匂いをさせて。
「どこ行ってたの」
蒼は、声を上げて泣き出した。
ロケット。網小屋。燃えた。源さん。
泣きじゃくる蒼の言葉を、ひとつずつ拾い集めた。拾い集めながら、足元が崩れていくような気がした。
台所の戸棚を見た。椅子が、戸棚の前に引きずられたままになっていた。
私が置いたのだ。蒼の手が届かないところに置いたつもりで。蒼が見ているところで。
「湊くんに、会った」
蒼が言った。
「帰り道で。自転車で。蒼って、呼ばれた」
頭の中が、真っ白になった。
湊が。
あの時間に、あの道にいた。蒼を見た。名前を呼んだ。
私は、蒼の肩をつかんだ。自分の手が震えているのが分かった。だから、その震えが伝わらないように、強くつかんだ。
「蒼。よく聞いて」
何を言うべきか、考えるより先に、口が動いていた。
「あんたは、ずっと家にいた。どこにも行ってない。何も見てない。いいね」
蒼の帽子を取って、玄関の壁のフックにかけた。
それから、サンダルをつっかけて、外へ飛び出した。
海沿いの道を、走った。
港のほうの空が、赤かった。
網小屋の軒下から、炎が屋根に這い上がっていた。そのすぐ手前で、誰かが燃える網をつかんで、引きずり出そうとしていた。
源さんだった。
考えなかった。考える時間などなかった。
源さんの腕をつかんで、引いた。源さんの手には、溶けた網が張りついていた。放れない。私はその網を、自分の手でつかんで、むしり取った。
熱い、とは思わなかった。
痛い、と思ったのは、ずっとあとだ。源さんを防波堤の陰まで引きずっていって、しゃがみこんで、燃える網小屋を見ていたとき。左手が、自分のものではないように脈打っていた。
サイレンが近づいてきた。近所の人たちが集まってきた。誰かが源さんに水をかけ、誰かが救急車を呼んだ。
私は、燃える網小屋を見ていた。
泣かなかった。泣いている場合ではなかった。
これから、どうすればいいのか。
それだけを、ずっと考えていた。
◇
家に帰ったのは、夜中の一時を過ぎていた。
流しで左手を冷やしながら、声を殺した。蒼が起きてきて、手を見て、泣きそうな顔をした。寝てなさい、と言った。
布団には入らなかった。
夜が明けるまで、台所のテーブルで、考え続けた。
蒼は十二歳だ。
警察に捕まることはない。でも、この町で「網小屋を燃やして、源さんに大火傷を負わせた子」になる。その名前は、蒼が大人になっても、この町にいる限りついて回る。
源さんへの弁償もある。うちには、そんなお金はない。母さんが夜勤を増やして、それでも足りない。
そして、湊。
湊は、あの夜、蒼を見た。
湊は、あの夜、現場の近くにいた。
もし、誰かが湊に、あの夜のことを聞いたら。
湊は、嘘がつけない。聞かれたら、見たとおりに答える。夜中に、蒼が港のほうから走ってきた、と。悪気なんかひとつもなく。
そうしたら、蒼は。
——いや。
私は、そこで首を振った。
湊は、そうはしない。
湊なら、もっと悪いことをする。
もし湊が、あの夜のことに気づいたら。ロケット花火が、自分の渡した袋の中のものだと気づいたら。蒼がそれを打って、網小屋が燃えたのだと分かったら。
湊は、絶対に、自分がやったと言う。
俺の花火だ。俺が置いていった。俺の責任だ。
そう言って、推薦を捨てて、源さんに償うためにこの町に残る。一生、この町と、うちの家の不幸を背負って生きていく。そのことを、自分では犠牲だとさえ思わずに。
七月の石段で、湊は「推薦、断ろうかな」と言った。なんとなく、と言った。
湊は、なんとなくで、自分の人生を置いていける人だ。
理由を与えたら、なおさら。
だから、湊には、何も知らせてはいけない。
湊が聞かれることも、気づくことも、あってはいけない。
◇
朝五時。
私は家を出て、網小屋の焼け跡へ行った。
黄色いロープが張られていた。黒い柱が、朝の空に突き出していた。源さんが何十年も繕ってきた網は、灰になっていた。
私は、頭を下げた。
ごめんなさい。
蒼の代わりに。湊の代わりに。花火の袋を戸棚に置いた、自分の代わりに。
ごめんなさい。
顔を上げると、港の入口に銀色の車が停まっていた。眼鏡の男の人が降りてきた。源さんの甥だと、すぐに分かった。前に一度、網小屋で会ったことがあった。
「源さんの病院に、連れていってください」
私は、そう頼んだ。
昼、商店街で湊に会った。
母さんに頼まれた買い物の途中だった。左手には、薬局で買った包帯を自分で巻いていた。
湊は包帯を見て、心配そうな顔をした。
料理で火傷した。ドジった。
私は、笑って言った。
湊は、網小屋の火事の話をした。俺らの花火、大丈夫だったよな。私は、大丈夫、と答えた。ちゃんと消したでしょ、二人で確かめたじゃん。それは、本当のことだった。
湊が、ほっとした顔をした。
そして、何の気なしに言った。
「そういえば昨日、夜中にコンビニ行ったらさ、蒼が走ってたぞ」
心臓が、止まるかと思った。
「見間違いだよ」
声が震えないように、それだけを考えた。
「蒼はずっと家にいたよ」
「そうかな」
「そうだよ。暗かったんでしょ」
湊は、そうかもな、という顔をした。
それ以上、湊の顔を見ていられなかった。用事を思い出したふりをして、坂を上った。背中に湊の視線を感じながら、一度も振り返らなかった。
その日から、湊のメッセージに返事をするのをやめた。
話せば、湊はいつか気づく。湊は鈍いくせに、私のことにだけは、変なところで鋭いから。
夕方、駐在の島田さんが家に来た。
祭りの夜、網小屋の裏で花火をしていたのは、あんたと朝倉くんかね。
はい、と答えた。九時に網小屋を離れました。花火は全部、バケツの水で消しました。
島田さんは、うなずいて手帳に書いた。しっかりした子やな、と言った。
帰り際、島田さんは言った。
「朝倉くんが、十時半ごろ、港のそばのコンビニにおったらしい。明日、話を聞かせてもらうわ」
「……湊くんにも、聞くんですか」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
島田さんは、私の顔をじっと見た。それから、「まあ、形式的なもんや」と言って帰っていった。
明日。
湊が、聞かれる。
その夜、私は決めた。
私が、やったことにする。
あの夜、九時に家に帰ったあと、残りのロケット花火を持って、ひとりで網小屋に戻った。一本が網小屋のほうに飛んで、火がついた。怖くなって逃げて、でも、戻った。だから源さんを助けられた。
筋は通る。
私が犯人なら、蒼の名前は出ない。湊が聞かれても、湊は「九時に灯を送って帰った」と答えるだけでいい。蒼のことなんか、誰も聞かない。湊が見たのは、ただ、夜中に走っていた小学生だ。それが何を意味するのか、誰にも分からない。
高校はやめることになるかもしれない。専門学校も行けないかもしれない。
それでいい、と思った。
蒼と湊の人生と、私の専門学校。比べるまでもなかった。
◇
それから先のことは、源さんが全部変えてしまった。
病室で私が頭を下げると、源さんは島田さんを呼んだ。蚊取り線香の消し忘れ。年寄りの不始末。誰のせいでもない。
お前はやっとらん。わしが見た。
誰が、とは聞かん。
源さんは、全部分かっていたのだと思う。分かっていて、何も聞かずに、全部を引き受けてくれた。
その夜、はじめて、少しだけ眠った。
湊は、聞かれずに済んだ。
蒼の名前は、どこにも出なかった。
あとは、私が源さんの手になればいい。それで、全部終わる。
そう思っていた。
八月二十五日の夕方、湊に神社の石段に呼び出されるまでは。
「俺、推薦断るわ」
湊は、ひぐらしの声の中で言った。
「こっちで働く。灯のそばにいる。何があったか知らないけど、ひとりで抱えんなよ」
湊は、少し照れくさそうに笑っていた。
私は、何も言えなかった。
火事のことは、もう誰も問わない。蒼も、湊も、守れたはずだった。それなのに、湊は自分から、この町に残ると言う。
私のために。
私が、ここにいるから。
私がこの町で網を編んでいる限り、湊はどこへも行かない。私が困っていると思えば、湊は何度でも自分の人生を差し出す。そして、いつか必ず、あの夜のことに気づく。この町に残れば、なおさら。
湊を東京へ行かせるには、湊がこの町に残る理由を、消すしかない。
理由は、私だった。
石段を下りながら、一度も振り返らなかった。家に帰って、玄関でしゃがみこんだ。
湊が、この町に残るって。
だめだよ、そんなの。
蒼が、心配そうに私を見ていた。
湊に、嫌われよう。
その夜、そう決めた。
中途半端に距離を置くだけでは、湊は理由を探す。探して、きっと見つける。だから、理由のいらない終わり方をしなければいけない。湊が、私のことなんか二度と振り返りたくなくなるような。
彼氏がいる、と言おう。
東京へ行け、と言おう。
ずっと嫌いだった、と言おう。
一生分の嘘を、一日で言い切ろう。
◇
八月三十日の夜、手紙を書いた。
本当のことを全部書いた便箋は、破った。蒼の名前が書いてある手紙を、残しておくわけにはいかない。それに、本当のことを知ったら、湊はきっと、いつか何かを背負おうとする。
だから、書かなかった。
かわりに、湊が何も背負わずにすむ言葉だけを、書いた。
あなたは何も見ていないし、何も知らない。
それが本当です。これからも、ずっと。
湊が、あの夜のことを、いつか思い出しても。思い出したものの意味に、気づいても。そのときの湊が、この手紙を読んだら、見なかったことにしていいのだと、分かるように。
封筒の裏に、日付を書いた。
十年後の、八月十四日。
なぜ十年なのか、自分に問いかけた。
蒼は、二十二歳になる。自分のことを、自分で決められる大人になる。あの夜のことを話すかどうか、そのとき蒼が選べばいい。
湊は、二十八歳になる。東京で、自分の仕事と、自分の部屋と、自分の毎日を持っている。この町のことで、今さら引き戻されたりしない。
それに、あの夜、網小屋の裏で約束した。十年後の今日、ここで聞く、と。
十年たてば、この嘘は、嘘じゃなくなる気がした。
あなたが本当に、何も知らないまま、幸せになっていれば。




