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第十五章 百十七通

湊 ── 二〇二六年八月


 浜屋に戻って、二時間だけ眠った。

 夢は見なかった。目が覚めると、窓の外の日差しはもう高く、港のほうから祭りの準備をする人たちの声が聞こえていた。拡声器のテストの音。どこかで太鼓を叩く音。

 八月十四日だった。

 携帯に、蒼からメッセージが入っていた。

〈源さんに電話しました。話したこと、伝えました。二人で来い、とのことです〉


 昼過ぎ、蒼の運転する軽自動車で、潮見の里へ向かった。

 車の中で、蒼はほとんど話さなかった。僕も話さなかった。夜明けの網小屋で、蒼が聞いたことに、僕はまだ答えられずにいた。

 個室の窓際で、源さんは昨日と同じように車椅子に座っていた。

 僕と蒼が並んで入っていくと、源さんは二人の顔を順番に見た。それから、蒼に向かって言った。

「話したんか」

「はい」

 蒼の声は、小さかったけれど、震えてはいなかった。

「そうか」

 源さんは、しばらく蒼の顔を見ていた。十年前の夜、燃える網小屋の明かりの中を走っていった小さな影を、今の蒼の顔の中に探すように。

「……よう話した」

 それだけ言った。

 蒼が、深く頭を下げた。

「源さん、僕——」

「謝らんでええ」

 源さんは、蒼の言葉を遮った。

「謝られたら、わしは、あの晩のことを思い出さなあかん。わしはもう、あの晩のことは、よう覚えとらんのや。年寄りやからな」

 嘘だった。源さんは、何もかも覚えている。それでも、そう言った。

 蒼は、頭を下げたまま、しばらく動けなかった。


「圭介」

 源さんが呼ぶと、廊下で待っていた圭介さんが、段ボール箱をひとつ抱えて入ってきた。菓子の箱を二つ重ねたくらいの大きさだった。

 圭介さんは、それをベッドの上に置いて、蓋を開けた。

 白い封筒が、ぎっしりと詰まっていた。

 一年分ずつ輪ゴムでまとめられて、きちんと並べられている。どの束にも、小さな紙が挟んであって、震えるような字で年が書いてあった。二〇一六。二〇一七。二〇一八。

 封筒には、何も書かれていなかった。

 宛名も、差出人も、切手も、消印もない。

「毎月、郵便受けに入っとった」

 源さんが言った。

「火事の年の九月からや。月の終わりになると、一通。わしのアパートの郵便受けに。施設に入ってからは、事務室の受付に。名前もない。切手もない。消印もない」

 源さんは、動かない両手を膝の上に置いたまま、箱を見ていた。

「中身は一万円や。最初の一通だけ開けた。あとは、開けとらん」

「……全部で、何通あるんですか」

 僕の声は、かすれていた。

「百十七通」

 源さんは即答した。何度も数えたのだろう。

「今年の五月の分が、最後や」

 百十七通。

 十年と、ほんの少し。

 毎月、毎月、途切れることなく。灯は、自分がもらった給料の中から一万円を抜いて、白い封筒に入れて、夜の郵便受けに落としていた。

「誰からか、分からんはずがないやろ」

 源さんは、少しだけ笑った。

「わしはあの子に、弁償なんかいらん言うた。あの子は、それでも寄こした。わしは、受け取らん代わりに、開けんことにした。頑固もん同士や。十年、そういうふうにやってきた」


 源さんは、蒼のほうを向いた。

「これは、お前が持っていけ」

 蒼が顔を上げた。

「え……」

「来年から先生になるんやろ。引っ越しやら何やら、要るもんがあるやろ」

「でも、これは、源さんの——」

「わしのもんやない。一回も開けとらんのやから、わしのもんになっとらん」

 源さんは、首を振った。

「あの子が、一番守りたかったもんに使え。それが、この金のいちばん正しい使い道や」

 蒼の目から、涙がこぼれた。

 十年前の夜、この子は泣きながら姉に全部を話した。そのあと十年、たぶん、一度も泣かなかったのだろう。泣く資格がないと思っていたのだろう。

 蒼は、箱の縁を両手でつかんで、声を上げずに泣いた。

 圭介さんが、そっと部屋を出ていった。


 しばらくして、源さんが言った。

「あの子の十年を、聞きたいか」

 僕はうなずいた。

「たいした話はない」

 源さんは、窓の外の海を見ながら、ぽつりぽつりと話した。

 最初の一年は、ほどいては結び直してばかりだった。指の皮が剥けても、泣き言ひとつ言わなかった。三年目に、漁協の組合長が、網の値段を叩こうとした。あの子は、組合長の前で網を一枚広げて、「この目を見てから言ってください」と言った。組合長は黙った。五年目には、漁師たちがあの子を名指しで網を頼むようになった。あの子の網は、目がきれいで、魚が機嫌よくかかる、と。

「ようしゃべる子やった」

 源さんは言った。

「ラジオをかけて、歌いながら編んどった。下手くそな歌やった。蒼の入学式には、網小屋を休んで行った。帰ってきて、泣いとった。わしの前で泣いたんは、あのときと、火事のあとの病室と、二回だけや」

 源さんは、そこで少し黙った。

「あの子はな、十年、お前の話を一回もせんかった」

 僕を見ずに、言った。

「朝倉のあの字も言わん。東京の、と言いかけて、やめる。そういうことが、何べんかあった。一回も言わんのや。十年」

 源さんの声が、少しだけ低くなった。

「一回もせんことが、あの子の話やった」


 蒼が、涙を拭いて、顔を上げた。

「源さん」

「なんや」

「ねえちゃんの十年は、僕のせいですか」

 夜明けの網小屋で、僕に向けたのと同じ問いだった。

 源さんは、蒼をまっすぐに見た。

「あほなこと言うな」

 静かな声だった。

「あれは、あの子が選んだ十年や。誰のせいでもない。お前のせいにしたらあかん」

「でも」

「お前のせいにしたらな、あの子の十年は、お前の後始末になってしまう。そうやない。あの子は、網を編んで、歌うて、漁師と喧嘩して、お前の入学式で泣いて、そうやって自分の十年を生きたんや。お前の罪の後始末に生きたんやない」

 源さんは、動かない手で、膝の毛布をほんのわずかに握ろうとした。

「あの子の十年を、あの子のもんにしといてやれ」

 蒼は、長いあいだ、何も言わなかった。

 それから、ゆっくりとうなずいた。


 帰り際、源さんが僕を呼び止めた。

「朝倉。昨日言うた、渡すもんや」

 源さんの目配せで、枕元の引き出しを開けると、白い封筒が一通、入っていた。

 新しい封筒だった。

 表には、灯の字で、東京の住所が書いてあった。三鷹市。僕のアパートの、部屋番号まで。

 その下に、朝倉湊様。

 右上に、百十円の切手が貼ってあった。

 消印は、なかった。

「五月に、あの子から預かった」

 源さんが言った。

「『八月十五日になっても湊が来なかったら、これをポストに入れてください』言うてな」

 春に、千尋から聞き出した住所だ。

 何に使うつもりだったのか、聞いとけばよかった。

「つまり、これは、お前が来んかった時の手紙や」

 源さんは、少しだけ困ったような顔をした。

「来たお前に渡すのは、筋違いかもしらん。けどな、あの子はもうおらん。筋を通す相手が、おらんのや」

 僕は、封筒を両手で受け取った。

 八十二円の切手と、百十円の切手。

 十年を隔てた二通の手紙が、どちらも消印を持たないまま、僕の手の中にあった。

「読まんのか」

「……今夜、網小屋で読みます」

 源さんは、うなずいた。

「そうせえ。今夜は、祭りや」

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