第十六章 来なくていい
灯 ── 二〇二六年四月~六月
十年ぶりに、湊の名前を声に出した。
「千尋。湊の住所、分かる?」
喫茶さえきのカウンターで、私はクリームソーダのアイスをつつきながら、なるべく何でもないふうに言った。
千尋は、サイフォンを拭いていた手を止めた。
「……今、なんて」
「湊の住所。同窓会の名簿、作ってるんでしょ」
千尋は、しばらく私の顔をまじまじと見ていた。十年間、私がその名前を一度も口にしなかったことを、千尋はちゃんと覚えていた。
「分かるけど。何に使うの」
「ちょっとね」
私は笑った。千尋は、それ以上聞かなかった。聞かないでいてくれる友達がいることが、この十年、どれだけありがたかったか分からない。
千尋は、メモ用紙に住所を書いて、渡してくれた。
東京都三鷹市。知らない町の名前だった。
湊は、ちゃんと、知らない町で暮らしている。
メモ用紙を、手帳に挟んだ。
「同窓会、湊は欠席だって」
千尋が、背中を向けたまま言った。
「そっか」
私は、クリームソーダのストローをくわえた。
それでいい、と思った。
◇
五月の初め、駅前のスーパーで、線香花火を買った。
まだ夏物の売り場には並んでいなかった。レジのおばさんに聞いたら、倉庫の奥から去年の売れ残りを一袋出してきてくれた。
「気が早いねえ、灯ちゃん」
「八月まで、湿気らないかな」
「缶に入れときゃ大丈夫よ」
お茶の空き缶に入れて、網小屋の棚の、ジャムの瓶の隣に置いた。
その夜、台所のテーブルで、手紙を書いた。
十年前と同じテーブルだった。扇風機の代わりに、窓から五月の夜風が入ってきていた。
今度の手紙は、湊が来なかったときのための手紙だった。
八月十四日、私は網小屋で待つ。
湊は、たぶん来ない。約束なんか覚えていないかもしれない。覚えていても、来ないかもしれない。十年前、あんなふうに別れたのだ。来なくて当たり前だ。
そして、来ないということは、湊が東京で、ちゃんと自分の毎日を生きているということだ。
だったら、それを喜ぶ手紙を書こう。
湊が来なかった翌日に、ポストに入れて、ちゃんと消印を押してもらおう。十年ぶりに、郵便を通る手紙を出そう。
便箋に向かいながら、何度か笑った。十年前は、一枚書くのに何枚も破いた。今度は、一枚目で書き終えた。
書かなかったことがある。
あの夏のことは、書かなかった。蒼のことも、源さんのことも、網小屋のことも。書いたら、湊はきっと、何かを背負おうとする。十年たっても、湊は湊だから。
それから、あの夜の続きのこと。
今言わないで、と言ったこと。十年後に聞く、と言ったこと。
それも、聞かないままにしておくと書いた。
聞いたら、私のほうが振り返ってしまうから。
封筒の表に、メモ用紙を見ながら、東京の住所を書いた。朝倉湊様、と書いた。十年前は「くん」だったのに、と思って、少し笑った。
郵便局で買ってきた、百十円の切手を貼った。
八十二円の切手では、もう手紙は届かない。十年で、そういうことも変わった。
◇
大型連休の最後の日、蒼を網小屋に呼んだ。
話さなければいけないことがあった。十年、ずっと、この日のために待っていた。
「八月十四日に、湊が来るかもしれない」
網を編みながら言った。蒼の顔を見たら、言えなくなる気がした。
「来ないかもしれない。たぶん、来ない。でも、もし来たら」
私は網針を置いて、蒼を見た。
背が伸びた。肩幅が広くなった。来年から、先生になる。十二歳のあの夜、泣きじゃくっていた子が。
「あの夜のこと、湊に話すかどうかは、あんたが決めて」
蒼の顔から、血の気が引いた。
「十年、待ったの。あんたが大人になるまで。自分のことを、自分で決められるようになるまで」
蒼は、何も言わなかった。
「話したくなかったら、話さなくていい。そのときは、私が一生黙ってる。湊には何も言わない。それで、いいから」
私はそう言って、また網を編みはじめた。
蒼は、長いあいだ、作業台の横に立っていた。やがて、黙って網小屋を出ていった。
それでいい、と思った。
あの夜のことは、あの子のものだ。私のものではない。十年前、私は蒼の代わりに、全部を決めてしまった。今度は、蒼が決める番だ。
◇
五月の終わり、潮見の里へ面会に行ったとき、源さんに手紙を預けた。
「八月十五日になっても、湊が来なかったら、これをポストに入れてもらえますか」
源さんは、封筒の宛名をじっと見た。
「……まだ八月までだいぶあるやないか」
「忘れないうちに」
「わしが忘れるわ」
「源さんは忘れないですよ」
源さんは、ふん、と鼻を鳴らした。それから、枕元の引き出しを顎で示した。私は、そこに封筒をしまった。
「来ると思うか」
源さんが聞いた。
私は、窓の外の海を見た。五月の海は、夏よりも少し青かった。
「来なくていいんです」
私は言った。
「来なかったら、ちゃんと向こうで生きてるってことだから」
源さんは、何も言わなかった。
しばらくして、ひとりごとのように言った。
「来たら、どうするんや」
私は、答えなかった。
答えを、考えないようにしていた。考えたら、八月までの毎日が、長すぎてしまうから。
◇
六月の半ば、雨が続いた。
その日も、朝から雨だった。
網小屋で、漁師の山内さんに頼まれた網の繕いを終えて、夕方、施設へ源さんに会いに行った。源さんは、雨の日は手が痛むと言って、少し機嫌が悪かった。私は源さんの手を、温かいタオルで包んで、しばらくさすった。
「もうええ。帰れ。暗なるぞ」
「はーい」
帰り際、源さんが言った。
「灯」
「なに?」
「網の目、今日のはきれいやったな」
私は、振り返った。
源さんは、窓の外の雨を見ていた。
「山内が言うとった。今日持ってきた網、今までで一番や、と」
私は、何か言おうとして、うまく言えなかった。
十年で、源さんが私の網を「きれいや」と言ったのは、それがはじめてだった。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、頭を下げた。
施設の玄関で、傘を開いた。
雨の音が、傘を叩いた。山の下のほうに、町の灯りが滲んで見えた。その向こうに、暗い海があった。
網小屋の棚の上の、ジャムの瓶を思い浮かべた。燃えさしが、九本。
あと一本で、十本になる。
八月十四日まで、あと——
指を折って数えかけて、やめた。
傘を傾けて、坂道を下りはじめた。




