第十七章 十年目の線香花火
湊 ── 二〇二六年八月十四日
夜の八時、港で花火が上がった。
十年前と同じ、十五分で終わる小さな花火だった。ひゅう、と上がって、ぱっと開いて、少し遅れて、どん、と音が届く。岸壁に並んだ人たちが、そのたびに顔を上げた。子どもが歓声を上げ、誰かのスマートフォンが光った。
僕は人混みを抜けて、港のいちばん端へ歩いた。
蒼から、網小屋の鍵を預かっていた。
「灯籠流しは、九時からです。河口で待ってます」
夕方、蒼はそう言って、鍵を僕の手のひらに載せた。
「ひとりで、行ってきてください。姉ちゃんの約束なんで」
久住網店の戸を開けると、網の匂いがした。
明かりをつける。干された網が、壁一面に静かにかかっていた。作業台の上には、灯の網針が並んでいる。持ち手の白いビニールテープに、丸みのある字で「はやま」。
棚の上に、ジャムの瓶があった。
昨日、網の切れ端か何かだと思った瓶だ。
手に取って、明かりにかざした。
焦げた細い紐のように見えたものは、燃え尽きた線香花火の軸だった。先が黒く縮れて、紙縒りの軸だけが、細い茶色の棒になって残っている。
九本あった。
一本ずつに、小さなラベルが巻きつけてあった。マスキングテープを細く切ったもので、そこに、灯の字で数字が書いてあった。
2017。2018。2019。2020。2021。2022。2023。2024。2025。
僕は、瓶を持ったまま、しばらく立ちつくしていた。
十年後の今日、ここで、また線香花火しよ。
灯は、十年待たなかった。
毎年、ここに来ていたのだ。
僕が東京で、この町のことをなるべく思い出さないようにして、八月十四日を何でもない一日として過ごしていたあいだ。毎年、この日の夜、灯はここで、ひとりで一本だけ火をつけて、燃えさしを乾かして、この瓶に入れていた。
瓶の隣に、お茶の空き缶がひとつ置いてあった。
蓋に、付箋が一枚貼ってある。
8/14
開けると、線香花火が一袋、入っていた。封は切られていなかった。
網小屋の裏手に出た。
源さんの家があったところは、砂利の駐車場になっていた。けれど、網小屋の裏の、海に面したコンクリートの一角は、十年前と同じだった。防波堤の低い壁の向こうに、夜の海が広がっている。港のほうで、最後の花火が開いて、消えた。
小屋の中にあったバケツに水を汲んで、足元に置いた。
コンクリートの上に、座った。
ポケットから、二通の封筒を取り出した。
八十二円の切手の封筒と、百十円の切手の封筒。
百十円のほうの封を、切った。
湊へ
来なかったね。
よかった。東京に、ちゃんとあなたの毎日があるってことだから。
十年前に書いた手紙は、網小屋の缶に入れてあります。
いつか読みたくなったら、取りに来てください。来なくても、いいです。
あの夏のことは、書きません。
書いたら、あなたはきっと、何かを背負おうとするから。
十年前、「今言わないで」って言ったこと。
あれは、聞かないままにしておきます。
聞いたら、私のほうが振り返っちゃうから。
私はこの町で、ちゃんと幸せでした。
網を編むのが、上手になりました。源さんにも褒められます。
蒼は来年、先生になります。
だから、あなたも振り返らないで。
十年間、嫌われていてくれて、ありがとう。
二〇二六年五月 灯
読み終えて、便箋を膝の上に置いた。
来なかったね、と、灯は書いていた。
僕は、来た。
灯は、来なかった。
来なかった僕に宛てた手紙を、来た僕が、灯のいない場所で読んでいる。
笑えばいいのか、泣けばいいのか、分からなかった。
源さんにも褒められます。
嘘だ、と思った。源さんは、なかなか褒めない人だ。灯は、ちょっとだけ見栄を張ったのだ。灯らしかった。
十年間、嫌われていてくれて、ありがとう。
その一行を、何度も読んだ。
僕は、灯を嫌っていたのだろうか。
嫌いだと思おうとしていた。嫌われたのだと思って、傷ついて、この町を出た。この町のことを考えないようにした。灯の名前が出てきそうな場所には、近づかなかった。同窓会にも、欠席に丸をつけた。
灯の望みどおりに。
灯が十年前、あのバス停で、一生分の嘘をついて僕に渡したものを、僕は、それと知らずに、十年間、きちんと受け取り続けていた。
知らないまま。何も見ないまま。
あなたは何も見ていないし、何も知らない。
それが本当です。これからも、ずっと。
八十二円の切手の封筒から、線香花火を取り出した。
十年前の、最後の一本。
紙の軸は茶色く、先の和紙はすっかり色が褪せていた。湿気ってるぞ、十年も。十八歳の僕は、そう言った。いいの、と灯は答えた。
作業台の引き出しにあったライターの火を、そっと近づけた。
なかなか、つかなかった。
和紙の先が、じりじりと黒く焦げていくだけで、火薬に火が移らない。二度、三度、ライターを擦り直した。風が吹いて、炎が揺れた。
四度目で、和紙の先が、ふっと赤くなった。
小さな、本当に小さな火の玉が、先にできた。
ぱち。
一回だけ、細い火花が散った。
ぱち。
もう一回。
それから、火の玉は、ふくらみきらないうちに、ぽとりとコンクリートの上に落ちた。
ほんの、数秒のことだった。
僕は、燃えさしの軸を、指でつまんだまま見ていた。
網小屋の中に戻って、作業台の上のマスキングテープを細く切った。灯の網針に巻いてあるのと同じ、白いテープだった。ペン立てのマジックで、数字を書いた。
2026
灯のラベルに比べると、ひどく下手な字だった。
それを軸に巻いて、ジャムの瓶に入れた。
十本になった。
裏手に戻って、お茶の缶から、灯の買った線香花火を一本取り出した。
今度は、一度で火がついた。
ぱち、ぱち、と火花が散った。火の玉がふくらんで、細かい火花が、松の葉のように四方へ広がった。その光が、足元のバケツの水に映って、揺れた。
十年前、灯と並んでしゃがんだ場所だった。
三本目の線香花火が落ちたとき、僕は何かを言いかけて、止められた。
今言わないで。
十年後の今日、ここで聞く。
灯は、それも聞かないことにした、と書いていた。聞いたら、私のほうが振り返っちゃうから、と。
だから、言わなかった。
灯が十年かけて守ってくれたものは、たぶん、あの夜僕が言いかけた言葉よりも、ずっと大きかった。それを今さら、ここで言うのは、灯の十年に、あとから名前をつけてしまうような気がした。
かわりに、別のことを言った。
火の玉を見つめたまま、小さな声で。
「嫌いになんか、なれなかったよ」
火の玉が、震えた。
それから、ぽとりと落ちた。
後ろで、砂利を踏む音がした。
振り返ると、蒼が立っていた。その隣に、千尋がいた。千尋の目は、真っ赤だった。
「蒼くんから、全部聞いた」
千尋は、そう言った。それから、僕の隣にどさりと座り込んだ。
「バカだよ、あの子」
千尋は、膝を抱えて言った。
「ほんとに、バカ。十年も。私にまで黙って」
声が、途中で崩れた。千尋は顔を膝にうずめた。
蒼が、黙って千尋の反対側に座った。
僕は、お茶の缶から、線香花火を三本取り出した。一本ずつ、二人に渡した。
三人並んで、火をつけた。
ぱち、ぱち、と三つの火花が散った。誰も、何も言わなかった。波の音と、火花の音だけがしていた。
千尋の火の玉が、最初に落ちた。次に、蒼のが落ちた。僕のが、最後まで残った。
◇
九時。潮見川の河口には、たくさんの人が集まっていた。
この一年に亡くなった人の灯籠を、家族が川に流す。白い紙を張った小さな灯籠の中に、蝋燭の火がともっている。灯籠の側面には、亡くなった人の名前が墨で書いてある。
葉山灯。
蒼が、灯籠を両手で持っていた。美津子さんが、その横に立っていた。
川岸にしゃがんで、蒼が灯籠を水面に下ろした。灯籠は、少しためらうように岸辺で揺れて、それから、ゆっくりと流れに乗った。
ほかの家の灯籠と一緒に、河口のほうへ、海のほうへ、流れていく。
蒼は、しゃがんだまま、いつまでも灯籠を見送っていた。
僕は、蒼の隣にしゃがんだ。
「蒼」
「はい」
「来年も、来るよ」
蒼が、僕の顔を見た。
「八月十四日に。網小屋に」
僕は、ポケットの中の封筒に触れた。
「あの瓶、預かっといてくれないか。来年の分、また入れに来るから」
蒼は、しばらく僕の顔を見ていた。それから、うなずいた。
「……はい」
「朝の、答えだけど」
蒼の肩が、かすかに動いた。
「俺にも、よく分からない。たぶん、ずっと分からないと思う」
川面を、灯籠の明かりがいくつも滑っていった。
「でも、俺たちは、守られた側なんだよな。二人とも」
「……はい」
「じゃあ、ちゃんと生きないとな」
蒼は、何も言わなかった。
かわりに、灯籠のほうを向いたまま、手の甲で目元を拭った。
灯籠の明かりが、ひとつ、またひとつと、河口の暗がりに溶けていった。
灯の灯籠が、どれだったのか、もう分からなくなった。
それでも、僕はそこにしゃがんで、海のほうを見ていた。
十年間、僕は、灯に捨てられたと思っていた。
本当は、その十年間ずっと、灯に守られていた。
明日の朝、送り火を焚いたら、僕は東京へ帰る。
この町には残らない。
それが、灯が十年かけて、僕にくれたものだから。




