エピローグ 消印
湊 ── 二〇二七年八月
「ただいま」
三鷹のアパートの玄関で、そう言うようになったのは、去年の秋からだ。
誰もいない部屋に向かって言うのは、最初は少し気恥ずかしかった。今は、言わないと落ち着かない。
ベランダには、バジルの鉢がひとつある。春に、駅前の花屋で買った。毎朝水をやっている。枯らさずに夏を越せたのは、生まれてはじめてだ。
押し入れの奥にあった段ボールは、去年の秋に開けた。
中には、高校のころの教科書と、ノートと、何本かのボールペンが入っていた。それから、クリアファイルに挟まった、一枚の写真。
夏祭りの夜、商店街の夜店の前で、誰かに撮ってもらった写真だった。りんご飴を持った灯が、カメラに向かって、少し照れくさそうに笑っていた。その隣で、十八歳の僕が、間の抜けた顔でピースをしていた。
捨てられずに、見ることもできずに、十年間、箱の中に閉じこめていたのだ。
今は、本棚の端に立ててある。
仕事は、相変わらずだ。コードを書いて、レビューをして、会議に出る。
ただ、この一年で、少しだけ変わったことがある。
同僚と昼を食べに行くようになった。週末に、ときどき知らない町を歩く代わりに、知っている人に会うようになった。沙耶とは、春に一度だけ、偶然駅で会った。元気そうだった。
「湊、なんか、ちゃんとここにいる感じするね」
沙耶はそう言って、少し笑った。
僕は、否定しなかった。
蒼は、この春から、潮見の隣町の小学校で先生をしている。
三年生の担任だそうだ。ときどき、長いメッセージが来る。授業がうまくいかなかったこと、子どもが教室で泣いたこと、その子の話を放課後に聞いたこと。
最後には、いつも、こう書いてある。
〈網小屋の瓶、ちゃんとあります〉
源さんは、八十七になった。冬に一度風邪をこじらせたけれど、春にはまた車椅子で施設の庭に出るようになったと、圭介さんが教えてくれた。
千尋のところには、二人目が生まれた。女の子だった。
◇
八月十二日の朝。
僕は、駅へ向かう前に、郵便局に寄った。
昨夜、机に向かって、手紙を書いた。便箋に三枚。書いては消して、を何度も繰り返した。
宛名は、葉山灯様。
住所は、潮見の、あの平屋の家。気付で、葉山蒼様。
届いたら、盆棚に供えてくれ、と、蒼には頼んである。
何を書いたのかは、ここには書かない。
灯にだけ、読んでもらえばいい。
窓口で、封筒を差し出した。
「手紙ですね。こちら、百十円になります」
僕は、財布から小銭を出して、切手を一枚買った。封筒の右上に、まっすぐに貼った。
それから、窓口の女性に言った。
「あの、消印、ここで押してもらえますか」
女性は少し不思議そうな顔をして、それから、にこりと笑った。
「はい、いいですよ」
女性は、封筒を台の上に置いて、スタンプを手に取った。
カタン、と音がした。
切手の上に、黒い丸い印が押された。
日付が、ちゃんと入っていた。
郵便局を出ると、八月の日差しが、アスファルトの上で白く跳ねていた。
これから、新幹線とローカル線を乗り継いで、あの町へ帰る。
八月十四日の夜、網小屋の裏で、線香花火に一本だけ火をつける。燃えさしを乾かして、マスキングテープに下手な字で数字を書いて、ジャムの瓶に入れる。
瓶の中の燃えさしは、十一本になる。
手紙は、切手を貼ってこそ手紙なんだよ。
いつだったか、灯はそう言った。
切手を貼って、ポストに入れて、知らない誰かの手を何回も通って、やっと届くの。だから手紙なんだよ。
灯。
僕の手紙には、ちゃんと消印が押されたよ。
(了)




