第5話 初投稿は怖い
一文目が決まらない。
もう十回は書き直した。
「目を覚ますと、そこは見たこともない部屋だった」を最初に書いて、重すぎると思って消した。
「朝の光が妙に白かった」に変えて、ぼんやりしすぎると思って消した。
「私は、異世界に来てしまった」に戻して、直球すぎると思って消した。
五回目に「目を覚ますと」に戻った。九回目にまた「目を覚ますと」に戻った。
ほぼ同じだった。でも私の中では違う。温度が違う。
あかりにスマホで見せたら「誤差」と言われた。
「誤差じゃない。五回目はヒロインの戸惑いが先に来る。九回目は読者の好奇心が先に来る。全然違う」
「誤差」
あかりは二回目も同じ声で言った。
PCの画面に向き直る。テキストエディタの中には、異世界恋愛の短編第一話がある。まだ投稿前の原稿。七瀬ユイの名前で出す、初めての小説。
ヒロインの感情を先に出すか、世界設定を先に出すか。まる助の言葉が頭の中で回る。「入口」「短く出す」「反応を見る」。入口を重くするな。最初に読者の足を止めるな。まず感情を見せろ。それから世界を広げろ。
師匠が言ったのは理屈だった。でも私には、それを実装する材料がある。三年分の読書で体に染み込んだ「ここが気持ちいい」の感覚。すれ違いのタイミング、関係が動く瞬間、読者が「ここ来た」と思う山場。
ノートに書き出した快楽設計の配置図が、そのまま原稿の骨になっている。
導入は軽くした。ヒロインの感情を三行目までに出した。設定は最小限にして、「分からないけど気になる」で引っ張る形にした。最後に小さな引きを置いた。次話へ繋がる一文。読者が「あ、続き」と思うだけの仕掛け。
全部、まる助の理屈を通している。でも、選んだ言葉も、感情の温度も、引きの角度も、私のものだ。
投稿画面を開いた。
タイトル。あらすじ。タグ。ジャンル選択。全部埋めた。本文を貼り付けた。プレビューを確認した。
投稿ボタンが画面の右下にある。
手が止まった。
読むのと出すのは違う。三年間ずっと読む側にいた。好きな作品を見つけて、分析して、感想を送って。それは全部、自分の内側だけで完結する行為だった。でも投稿は違う。自分の文章を、知らない誰かの画面に表示させる行為だ。
読まれなかったら、普通に傷つく。
下書き保存を押した。閉じた。立ち上がって歯を磨きに行った。戻ってきて、もう一度開いた。プレビューをもう一度確認した。下書き保存をもう一度押した。
自分で「儀式が多い」と思った。
師匠もここは通ったのだろうか。あの活動報告に「市場に合わせる努力をしています」と書いていた人も、最初の一本を出すときは怖かったのだろうか。
たぶん、怖かったと思う。でも出した。出して、書き続けて、あの小説を作った。
だったら私も、出す。
投稿ボタンを押した。
画面が切り替わった。「投稿が完了しました」と表示された。
何も起きなかった。
当然だ。深夜に投稿したのだから、すぐに誰かが読むわけがない。アクセスカウンターはゼロのままで、感想欄は空で、ブックマークもゼロ。静かだった。
「はい、無風」
声に出して言ったら、少し楽になった。こんなものだ。最初から反応があるわけがない。師匠だって言っていた。最初は上手くなくて普通だと。
スマホを充電器に繋いで、ベッドに入った。眠ろうとした。目を閉じた。
三分後にスマホを取った。
アクセスカウンターが、1になっていた。
体が起きた。ベッドの上で正座した。
「一人? 誰? どこ経由?」
深夜にこの作品を開いた人がいる。新着一覧から来たのか、タグ検索から来たのか、ランキングには載っていないから直接来たのか。
一人。たった一人。でもその一人は、私の文章を今この瞬間に読んでいるかもしれない。
アクセス1を、人生で初めてこんなに大事件として扱った。
そのまま画面を見ていた。数分後、カウンターが2になった。3になった。深夜なのに、少しずつ数字が動いている。新着一覧に上がったのかもしれない。あるいはタグ検索にひっかかっているのかもしれない。
感想はまだない。ブックマークもまだない。でも、数字が動いている。私が書いた文章が、知らない誰かの画面に表示されている。
怖かった。けど、ちょっとだけ嬉しかった。




