第4話 勝手に弟子入り
「短い話を一本出してみてください。」
返信を、もう何度読み返したか分からない。スマホの画面はとっくにスクショ済みで、フォルダ名は「参考」のまま。嘘のままだ。
短い話。一本。
何を書くのかを考えるために、まず自分が何を読んできたかを整理することにした。机の上にノートを開いて、三年分の読書履歴を思い出しながら書き出していく。
異世界恋愛。乙女ゲーム転生。身分差ラブ。主従関係からの逆転。すれ違いと和解。距離が縮まる瞬間の快楽。
書き出しているうちに、自分の好みの偏りが見えてきた。
私が好きなのは、関係性が変わる瞬間だ。敵だった相手が味方になるとか、主従が対等になるとか、誤解が解けるとか。状況が変わるのではなく、二人の間にある力学が動くところ。そこに一番反応する。
ノートがどんどん埋まっていった。好きな展開を分類して、どこで感情が動くかを書き出して、読者として「ここが欲しい」と思うタイミングを並べて。気づいたら、付箋まで貼り始めていた。
「すれ違い二回。関係変化のきっかけは第三者の介入。手の甲にキスは一回、ここで誤解解消、山場はここ」
ノートの見開きが、いつの間にか設計図みたいになっていた。物語のプロットではない。まだ物語すら始まっていない。ただの「好きな展開の配置図」だ。なのに妙に実務的で、自分でも少し可笑しかった。
翌日、大学の帰りにあかりとカフェに寄った。テーブルの上にノートを広げたまま飲み物を待っていたら、あかりが覗き込んできた。
「何これ」
「快楽設計」
「は?」
「読者がどこで気持ちよくなるかの設計図」
あかりは三秒ほど黙って、それから椅子に深く座り直した。
「あんた本当にそういう人だね」
褒められたのか呆れられたのかは分からなかった。どっちでもよかった。
「で、これ何に使うの」
「小説を書こうと思って」
あかりの目が少し開いた。
「書くの? 読む専じゃなかったの?」
「師匠に言われた。短い話を一本出してみろって」
「師匠」
あかりが繰り返した。声が平坦だった。
「その人、弟子取ったの?」
「取ってない」
「じゃあ何」
「私が勝手に学ぶ」
「重い」
「敬意です」
あかりはアイスティーのストローをくわえたまま、しばらく私を見ていた。何か言いたそうだったが、最終的に飲み込んだらしい。
「まあ、あんたが書くなら読むよ」
その一言は、思ったよりうれしかった。
ノートを見返す。好きな展開の配置図。すれ違いの位置、関係が動くタイミング、誤解が解ける場所。全部、読者としての三年間の蓄積だ。何もないところから書くわけじゃない。読んできたものが、そのまま設計の土台になる。
そこに、まる助の理屈を乗せる。
活動報告で読んだ感情導線の話。説明の抜き方。読者をどこで離してどこで掴むか。あの人が理屈として語っていたことを、自分の好きなジャンルで試す。師匠みたいに書くのではない。師匠の方法を使って、自分の好きなものを書く。
異世界恋愛なら、いける気がした。
読者として何が気持ちいいかは、体が覚えている。あとはそれを、自分の手で組み立てるだけだ。「だけ」と言えるほど簡単ではないことも分かっている。でも、怖さより先に「やってみたい」がある。
夜、PCの前に座った。
テキストエディタを開いた。白い画面。カーソルが点滅している。
一文目が出てこない。
何から始めればいいのか分からない。主人公の名前も、世界の設定も、まだ何も決まっていない。ノートには快楽設計の配置図があるだけで、物語の形はまだどこにもない。
十分くらい、カーソルの点滅を眺めていた。
それから、台詞を一つだけ書いた。
たった一行。物語の冒頭かどうかも分からない、ただの台詞。でも、文字が画面に現れた瞬間に、何かが変わった気がした。読む側にいた自分が、ほんの少しだけ、書く側に足を踏み出している。
まだ一行だ。上手いかどうかも分からない。最初は上手くなくて普通だと、師匠が言っていた。師匠。向こうは弟子を取っていない。でも私の中では、もうこの人は師匠だ。
こうして私は、相手の知らないところで勝手に弟子になった。




