第21話 受け取られる側
沈黙が来た。
私が言い切ったあと、父は何も言わなかった。壁際の薄暗い場所で、会場の喧騒が遠くから聞こえていた。
すぐには返せない、という空気だった。軽く受け流す人ではないと分かっていた。活動報告を三年分読んだ。返信の一つ一つを見てきた。この人は、言葉を雑に扱わない。だから今、返せないでいる。
待った。
十秒。二十秒。長く感じた。
父の手が動いた。机の上に置いていた新刊を一冊取って、少し角を揃えた。何か始末をつけるような動きだった。手元を見ながら、やっと口を開いた。
「……読んでくれてたのは、知ってました」
低い声だった。
「感想で分かりました。あの長さと、あの読み方をする人は、ちゃんと読んでる。理屈も入ってるし、感情も入ってる。だから返信した」
二行の返信。あの二行は、ちゃんと読んだうえでの二行だった。知っていた。でも、本人の口から聞くと、違う重さがあった。
「七瀬さんの作品が読まれ始めたとき」
父が少し間を置いた。
「正直、複雑でした」
短い言葉だった。それ以上は説明しなかった。でも、複雑だった、と言えること自体が、この人の誠実さだと思った。嘘をつかない。ごまかさない。でも、感情を大きく広げもしない。
「自分の作品が広く読まれないことは、受け入れていました。入口が狭い。読者に合わせていない。そういう選択を自分でしている。だから結果は受け入れている。そのつもりでした」
つもりでした、に少しだけ力がこもっていた。
「でも、自分が教えた相手の作品が伸びていくのを見ると、理屈だけでは処理しきれないものがある。嫉妬とは違う。もう少し面倒くさい感情です」
理屈っぽかった。感動の場面でも、この人はこうだ。感情を分析しようとする。でもそれが、この人のやり方なのだと分かっていた。
「それでも」
父がこちらを見た。
「読者に届く形にできるのは、七瀬さんの力です」
まっすぐだった。
「それは、自分の力です。教えたことが土台にあったとしても、形にしたのは七瀬さんです」
まだ「七瀬さん」と呼んでいた。その呼び方のまま、続けた。
「でも」
少し間があった。この人の「でも」は重い。理屈の外にあるものが、この一語のあとに来る。
「受け取られる側としては、かなり救われます」
短かった。本当に、それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
自分の作品が届かなかったと思っていた人が、いちばん予想していなかった相手に届いていた。しかもその相手は、その作品のおかげで書き始めて、多くの読者に届く作品を作った。書いた言葉も、教えた言葉も、消えていなかった。形を変えて、次へ渡っていた。
父の目が少しだけ赤かった。泣いてはいない。泣く人ではないのだと思う。
私の肩から、少しだけ力が抜けた。
全部を返せたわけではない。家庭のことも、名前のことも、会わなかった日々のことも、何一つ整理されていない。
でも、今日持ってきたものは、ちゃんと渡せた。
父はそこで初めて、少しだけ受け取られる側の顔をした。




