第20話 救われていた話
家庭のこと、名前のこと、会わなかった年月のこと。全部、頭にあった。でも、最初に口にしたのはそれではなかった。
「作品の話を、させてください」
父が少し目を開いた。予想外だったのかもしれない。でも、拒否はしなかった。
「まる助さんの作品を最初に読んだのは、電車の中でした」
言いながら、そのときの画面の明るさまで思い出す。
「入口が狭いと思いました。導入が重くて、主人公の名前が遅くて、恋愛要素がなくて。一回閉じました。三十秒後にまた開きました」
父は黙って聞いていた。そこで、ほんの少しだけ、口元が動いた気がした。
「読みにくかったです。そこは本当にそう思いました。でも、下手だから読みにくい感じじゃなかった。読みにくい必要があって、そうなってる感じがしたんです。説明を抜いているのに雑じゃない。あえて置かない情報と、絶対に置く情報の境目が異様に正確で」
言葉が止まらなかった。真面目な場面なのに、構造の話まで出てきてしまう。自分でも分かっている。でも止められなかった。この人の作品のどこが効いたのか、ずっと言いたかった。
「あの場面、聖女が奇跡を手放す瞬間に、主人公が感情の説明をほとんどしないまま立ち会うところ。あそこがすごく好きでした。派手に泣かせに来ないのに、痛みだけは消さない。ああ、この人は、残すべきものと削るべきものの判断ができる人なんだって、そこで分かりました」
自分でも、いま真面目な場面で構造の話をしているなと思う。でも、それも含めて私の受け取り方だった。
「七時間経ってました。面白かった、では済まないと思いました。誰かに雑に薦めたくないと思いました。作者ページを開いて、活動報告を三年分読んで、過去作を全部見て。それで、感想を書きたくなりました」
「二千八百字の」
父が小さくいった。
覚えていた。
「はい。二千八百字の。重いって自分でも分かってました。でも、短くすると嘘になると思って」
少し間があった。父は何も言わなかった。待っていた。
「返信をもらいました。二行でした」
今でも暗記している。たぶん、一生忘れない。
「読んでますね。理屈も通っています。書くなら短い話を一本出してみてください。最初は上手くなくて普通です」
暗記していた。スクショを何十回も読み返した文だった。
「あの二行で、書き始めました。異世界恋愛を。師匠の理屈を使って、自分の好きなものを書いてみようと思って。それで今があります」
そこまでは経緯だった。事実だった。今日言いに来た核心は、その先だった。
私は一度だけ唇を閉じて、それからはっきり言った。
「私は、お父さんと気づかないまま、作品に救われていました」
言った。
父の表情が一瞬だけ動いた。何か言いかけて、言わなかった。
「お父さんだから大事になったんじゃないです。知らないまま、あの小説が刺さって、あの返信に救われて、書き始めた。全部、知らない状態で起きたことです。大事だった相手が、あとからお父さんでもあった。順番はそっちです」
言いながら、自分でも少し驚いていた。ちゃんと言葉になっている。ずっとうまく言えなかったことが、目の前にこの人がいると、出てくる。
「人気が出たことを自慢しに来たわけじゃないです。追い抜きたかったわけでもないです。正直、自分ばかり読まれてる現実が、ずっと居心地悪かったです。師匠の方がすごいのに、なんで私ばっかり読まれるんだろうって」
父が少しだけ目を伏せた。
「でも、今日ここに来たのは、そういう話じゃなくて」
息を吸った。
「受け取ったものが、大きすぎたんです。師匠の作品と、師匠の言葉で、私は書く人になりました。それをちゃんと返したかった。画面越しではうまく返せなかった。言葉を選んでも選んでも事故って、禁止事項を増やしても届かなくて。だから直接言いに来ました」
言い切った。
胸の中で固まっていたものが、少しだけ動いた気がした。全部を完璧に言えたわけじゃない。もっと細かく話したいことはある。でも、核になるものは渡せた。
そこまで言って、ようやく少しだけ息ができた。




