表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/22

第19話 まる助さん、お父さん

声が出なかった。


目の前の人が顔を上げたまま、こちらを見ている。平沢敏明。父。まる助。師匠。四つの名前が同じ顔の上にあって、どれを先に呼べばいいのか分からなかった。


相手も動かなかった。ペンを持ったまま、こちらを見ている。何か言いかけた。口が開いて、閉じた。もう一度開いた。


「……七瀬、さん」


呼び方が詰まっていた。「七瀬さん」と言おうとして、途中で何かを飲み込んだ顔だった。向こうも分かっている。この顔を知っている。私が誰か、当然分かっている。


「はい」


私はそれだけ言った。声が小さかった。喉が渇いていた。


人目があった。会場は動いている。隣のスペースでは本を買っている人がいる。通路を歩いている人がいる。ここで立ち尽くしているわけにはいかなかった。


体が勝手に動いた。イベント参加者としての動きだけが残っていた。


「あの、これ、差し入れです」


紙袋を差し出した。中には焼き菓子とメッセージカード。「いつもありがとうございます」とだけ書いたカード。言いたいことは山ほどあったのに、カードの上には一行しかなかった。


父は紙袋を受け取った。「ありがとうございます」と言った。丁寧だった。机の横に袋を置いて、中の本の角を少し揃えた。指先が正確に動いていた。崩れていなかった。崩れていないことが、逆にぎこちなかった。


「新刊、買わせてください」


「はい。どうぞ」


お金を出した。お釣りをもらった。本を受け取った。手順通りだった。何も間違っていなかった。でも、初めてスペースに来たファンと、初めてファンを迎えたサークル参加者のやりとりにしては、空気が異様に静かだった。


二人とも礼儀正しかった。礼儀正しすぎた。


「少し、お話できますか」


自分で言った。声がまだ小さかった。


父は一瞬だけ間を置いて、「はい」と言った。隣のスペースの人に一声かけて、少しだけ場所を離れた。会場の脇、壁際の少しだけ人が少ない場所。完全に静かではないが、話せる程度の空間だった。


向かい合った。


頭の中は混乱していた。父だった。師匠だった。活動報告を三年分読んだ人だった。感想を二千八百字書いて送った相手だった。二行の返信で救われた相手だった。句点が増えていくのを読んでしまった相手だった。


全部が同じ人だった。


家庭の話をするべきなのかもしれない。離婚の話、姓の話、会わなかった年月の話。全部、頭の中にある。でも、今ここで前に出ているのは、それではなかった。


この人は、私を創作者にした人だ。


あの作品を書いた人だ。あの返信をくれた人だ。入口を軽くしろと教えてくれた人だ。最初は上手くなくて普通だと言ってくれた人だ。


父でもある。でも今、この場所で前に出るべきなのは、そっちではなかった。


深呼吸した。


「私、今日、言いたいことがあって来ました」


父がこちらを見た。静かに見ていた。


混乱していた。それでも、ここまで来た理由を、失くしたくはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ