第19話 まる助さん、お父さん
声が出なかった。
目の前の人が顔を上げたまま、こちらを見ている。平沢敏明。父。まる助。師匠。四つの名前が同じ顔の上にあって、どれを先に呼べばいいのか分からなかった。
相手も動かなかった。ペンを持ったまま、こちらを見ている。何か言いかけた。口が開いて、閉じた。もう一度開いた。
「……七瀬、さん」
呼び方が詰まっていた。「七瀬さん」と言おうとして、途中で何かを飲み込んだ顔だった。向こうも分かっている。この顔を知っている。私が誰か、当然分かっている。
「はい」
私はそれだけ言った。声が小さかった。喉が渇いていた。
人目があった。会場は動いている。隣のスペースでは本を買っている人がいる。通路を歩いている人がいる。ここで立ち尽くしているわけにはいかなかった。
体が勝手に動いた。イベント参加者としての動きだけが残っていた。
「あの、これ、差し入れです」
紙袋を差し出した。中には焼き菓子とメッセージカード。「いつもありがとうございます」とだけ書いたカード。言いたいことは山ほどあったのに、カードの上には一行しかなかった。
父は紙袋を受け取った。「ありがとうございます」と言った。丁寧だった。机の横に袋を置いて、中の本の角を少し揃えた。指先が正確に動いていた。崩れていなかった。崩れていないことが、逆にぎこちなかった。
「新刊、買わせてください」
「はい。どうぞ」
お金を出した。お釣りをもらった。本を受け取った。手順通りだった。何も間違っていなかった。でも、初めてスペースに来たファンと、初めてファンを迎えたサークル参加者のやりとりにしては、空気が異様に静かだった。
二人とも礼儀正しかった。礼儀正しすぎた。
「少し、お話できますか」
自分で言った。声がまだ小さかった。
父は一瞬だけ間を置いて、「はい」と言った。隣のスペースの人に一声かけて、少しだけ場所を離れた。会場の脇、壁際の少しだけ人が少ない場所。完全に静かではないが、話せる程度の空間だった。
向かい合った。
頭の中は混乱していた。父だった。師匠だった。活動報告を三年分読んだ人だった。感想を二千八百字書いて送った相手だった。二行の返信で救われた相手だった。句点が増えていくのを読んでしまった相手だった。
全部が同じ人だった。
家庭の話をするべきなのかもしれない。離婚の話、姓の話、会わなかった年月の話。全部、頭の中にある。でも、今ここで前に出ているのは、それではなかった。
この人は、私を創作者にした人だ。
あの作品を書いた人だ。あの返信をくれた人だ。入口を軽くしろと教えてくれた人だ。最初は上手くなくて普通だと言ってくれた人だ。
父でもある。でも今、この場所で前に出るべきなのは、そっちではなかった。
深呼吸した。
「私、今日、言いたいことがあって来ました」
父がこちらを見た。静かに見ていた。
混乱していた。それでも、ここまで来た理由を、失くしたくはなかった。




