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第18話 顔を上げた人

会場は思っていたより広かった。


体育館のような空間に長机が並んでいる。机の上には本がある。手作りの冊子、きれいに装丁された文庫本、コピー本、分厚い合同誌。売り手がいて、買い手がいて、紙とインクの匂いがした。人が歩いていて、声がして、空気が動いている。


画面の中ではない場所に、書く人と読む人がいる。


紙袋を持つ手が少し湿っていた。差し入れが入っている。中身は結局、あかりに選んでもらった焼き菓子と、短いメッセージカードだ。


カードには「いつもありがとうございます」とだけ書いた。言いたいことは山ほどあったが、カードに収まる量ではなかった。


会場マップを確認した。まる助のスペースは奥の方にあった。


歩き始めた。心臓がうるさい。暗記したメモはほとんど飛んでいた。三枚分の「言うことリスト」が一つも思い出せない。まず挨拶。次に本を買う。差し入れを渡す。それから伝えたいことを言う。順番は覚えている。中身が出てこない。


人混みの間を縫って進んだ。番号を確認しながら、列の端から奥へ向かった。


近づいていく。


まだ遠い。机の上に本が並んでいるのが見えた。地味な装丁だった。タイトルが読めるほどにはまだ近くない。でも、あのスペースだと分かった。


もう少し近づいた。


机の手前に、人の影がある。座っている。俯いている。手元で何かをしている。在庫の整理か、メモか。顔は見えない。


あと数歩。


机の上の本のタイトルが読めた。師匠の本だ。手作りの冊子と、文庫サイズの既刊が並んでいた。新刊らしい冊子が一番手前にある。


あと二歩。


手元が見えた。ペンを持っている。何か書いている。指が長い。左手でメモを押さえている。


私が立ち止まった気配で、その人が顔を上げた。


知っている顔だった。


すぐに分かった。この顔を知っている。よく知っている。目を上げる時の間と、左手で紙を押さえる癖も記憶と同じ。最後に会ったのは、中学生の終わりだったと思う。


平沢敏明。父だった。


認識が遅れた。分かったはずなのに、頭が追いつかない。目の前にいるのは師匠。まる助だ。活動報告を三年分読んで、感想を送って、返信をもらって、教わって、書き始めた相手だ。その人が、父だった。


師匠と父。


二つの認識が同時に来たのではなかった。まず「師匠に会いに来た」があった。その上に「父だ」が重なった。重なったのに整理されない。別々の意味を持つ二つの事実が、同じ顔の上で動かない。


相手もこちらを見ていた。驚いている。向こうにとって私は「七瀬ユイ」のはずだ。


足が止まっていた。


紙袋を持つ手が動かなかった。暗記したメモは全部消えていた。挨拶も、本を買う手順も、差し入れを渡すタイミングも、何も出てこなかった。


言葉が遅れた。


口を開こうとした。何を言えばいいのか分からない。


「七瀬ユイです」なのか。

「まる助さんですか」なのか。

「お父さん」なのか。


どれも正しくて、どれも足りなかった。


返しに来た。


受け取ったものを返しに来た。師匠の作品に救われたことを伝えに来た。画面越しでは届かなかったものを、直接渡しに来た。


その相手が、父だった。


声が出なかった。


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