第22話 それでも、師匠
会場のアナウンスが、閉場三十分前を告げていた。
壁際に立ったまま、私たちはまだ少しだけ話していた。大きな話はもう終わっていた。残っているのは、小さなやりとりだった。
「次の更新、いつですか」
「来週の予定です」
「読みます」
師匠がそう言った。「読みます」。画面の上では「楽しみにしています」だった言葉が、声になると違った。短くて、少しぶっきらぼうで、そのぶん変に飾りがなかった。
気まずさはまだあった。親子として何もかも話し合ったわけではない。離婚のこと、苗字のこと、母のこと、会わなかった日々のこと。全部、手つかずのままだ。今ここで解決する量ではなかった。
でも、前より空気は少し柔らかかった。
「私、これからも書きます」
言った。自然に出た。
「人気があることも、師匠を尊敬していることも、両方抱えたまま書いていきます。どっちかを下ろして整えるのは、たぶん違うので」
師匠が少しだけ笑った。笑ったというより、口の端がわずかに動いた程度だった。でも、ここまでの会話の中で初めて見た表情だった。
「それでいいと思います」
理屈っぽくなかった。珍しく、ただの感想だった。
鞄の中から、一冊取り出した。自分の本。七瀬ユイ名義の既刊。小説フリマに合わせて、少部数だけ刷ったものだった。
「これ、受け取ってもらえますか」
師匠がこちらを見た。
「師匠の作品を読んで書き始めた人間が、こういうものを書きました、という報告です」
差し出した。師匠は少し間を置いて、受け取った。表紙を見た。裏表紙を見た。ぱらりとページをめくりかけて、やめた。ここで読むものではないと思ったのかもしれない。
「読みます」
二回目の「読みます」だった。同じ言葉だったが、今度は本を手に持っていた。渡したものが、物として相手の手にある。言葉だけではなく、形として返したものがそこにあった。
「ありがとうございます」
師匠が言った。少しだけ頭を下げた。不器用だった。感動の場面でも、この人は添削コメントのような感じで頭を下げる。でも、それがこの人だった。
「あの」
「はい」
「これからも、師匠って呼んでいいですか」
師匠が一瞬止まった。
「弟子は取っていないんですが」
「知ってます。私が勝手に呼んでるだけです」
「……そうでしたね」
少しだけ、また口の端が動いた。
師匠、という呼び方には、最初から創作上の敬意が入っていた。この人の作品に救われて、この人の言葉で書き始めて、この人に教わった。その全部が「師匠」という二文字に入っている。今は、そこへ少しだけ別の意味も重なっている。でも、順番は変わらない。まず師匠で、それから少しだけ父でもある。
閉場のアナウンスがもう一度流れた。師匠はスペースに戻って片付けを始めた。私は少し離れた場所から、その後ろ姿を見ていた。
本を箱に詰める。ポスターを外す。テーブルクロスを畳む。さっきまで受け取っていた人が、また普通に手を動かしている。書く人の後片付けだった。
片付けが終わる頃、師匠が少しだけ迷うようにしてから、声をかけてきた。
「……この後、時間ありますか。少しだけ」
「あります」
即答した。考えるより先に答えていた。
会場を出て、駅の近くの、特に何の変哲もないファミレスに入った。特別な場所ではなかった。でも、特別な場所である必要もなかった。
注文したものが来るまでの間も、来てからも、私たちはぽつぽつと話した。連載の次の展開の話。師匠が今書いている本命作の続きの話。昔読んだ作品の話。創作の話の合間に、家のことも混ざった。母のこと、再婚相手と苗字のこと、会わなかった年月のこと。全部を話したわけではない。でも、話せた。
帰り際、師匠が「また話せたら」と言った。短かった。でも、初めて画面越しではない温度で「次」を約束してもらった気がした。
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翌日、大学であかりに会った。
「で、どうだった」
「どう、とは」
「フリマ。師匠に会えたんでしょ」
「会えた」
「で?」
「話した。いろいろ」
あかりは少し待って、私が続きを言わないのを確認してから、聞いた。
「ちゃんと返せたの」
少し考えた。
「全部じゃないけど、たぶん」
「じゃあいいじゃん」
あかりはそれ以上は聞かなかった。全部を知る必要がないことを、この子は分かっている。親子のことは、まだ言わなかった。いつか話す日は来るかもしれないし、来ないかもしれない。今日はまだ、その日ではなかった。
夜、自室に戻った。PCの前に座った。テキストエディタを開いた。
すべてが解決したとは思っていない。親子のことは手つかずのままだ。師匠の作品が広く読まれるようになったわけでもない。私の人気が消えたわけでもない。何も大きくは変わっていない。
でも、受け取ったものを少しだけ返せた気がする。
全部ではない。十分でもない。でも、あの場所で、あの人の前で、ちゃんと言葉にして渡せた。あの人はそれを、受け取ってくれた。「かなり救われます」と言ってくれた。私の本を手に取って、「読みます」と言ってくれた。
「少しだけ」は、確かにある。
カーソルが点滅している。新しい原稿のファイルだ。タイトルはまだない。一文目もまだない。
でも、書く。師匠の理屈を使って、自分の好きなものを書く。読者に届く形にする。受け取ったものを、次の誰かに渡す。そのループを、また回す。
師匠で、父で、平沢で、その順番のまま、少しだけ近くなれた気がした。
だから私は、たぶんこれからも書いていく。
ー完ー
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作を少しでも楽しんでいただけたなら、とても嬉しいです。
また、本作には姉妹作があります。
気に入っていただけましたら、ぜひそちらも覗いてみてください。
姉妹作:
『俺の神作が読まれない。誰か教えてくれ!』
『俺の編集AIが止まる。誰か教えてくれ!』
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




