エピローグ 新しい朝
エピローグ 新しい朝
エレノアは幸せというものが少し怖かった。
あまりにも長い間、自分の気持ちを後回しにして生きてきたからだ。
誰かの期待に応えること。
誰かの機嫌を損ねないこと。
誰かの役に立つこと。
そればかりを考えていた。
だから、自分自身が幸せになってもいいのだと信じるのに、少し時間が必要だった。
王都に春が訪れていた。
街路樹には若葉が芽吹き、花壇には色とりどりの花が咲いている。
窓を開けると、朝露を含んだ風が部屋へ流れ込んできた。
鳥のさえずりが聞こえる。
パン屋から漂う焼きたてのパンの香りまで届いてくるようだった。
エレノアは大きく深呼吸した。
今日も良い天気だった。
「おはようございます」
寝室の扉が開いた。
アルベルトだった。
淡いグレーのシャツに濃紺のベストという軽装だが、それでも不思議と絵になっている。
銀色の髪が朝日に照らされていた。
エレノアは思わず微笑む。
「おはようございます」
「よく眠れましたか?」
「はい」
本当だった。
以前は眠る前に不安ばかり考えていた。
失敗したらどうしよう。
怒られたらどうしよう。
見捨てられたらどうしよう。
そんなことばかりだった。
今は違う。
目が覚めた時、まず思うのは。
今日の朝食は何だろう。
その程度だった。
それが何より幸せだった。
食堂へ向かう。
大きな窓から春の日差しが差し込み、白いテーブルクロスを明るく照らしていた。
朝食は焼きたてのクロワッサン。
ふわふわのオムレツ。
新鮮なサラダ。
苺と蜂蜜入りのヨーグルト。
そして香り高い紅茶だった。
バターの香ばしい匂いが食欲を刺激する。
エレノアがクロワッサンを割ると、ぱりっと小気味よい音が響いた。
「美味しそうですね」
「ええ」
アルベルトも笑う。
二人は向かい合って朝食を食べ始めた。
不思議だった。
以前の婚約期間は十年もあったのに、こんな穏やかな朝は一度もなかった。
ルスタムとの食事はいつも緊張していた。
機嫌を損ねないように。
間違ったことを言わないように。
常に気を張っていた。
今は違う。
ただ美味しいと感じながら食べられる。
それだけで涙が出そうになる。
「どうしました?」
アルベルトが心配そうに聞く。
エレノアは慌てて首を振った。
「何でもありません」
「本当ですか?」
「はい」
少しだけ嘘だった。
嬉しかったのだ。
幸せで泣きそうだった。
食後、二人は王都を散歩した。
衛兵を少し離して歩く。
市場は今日も賑やかだった。
果物屋の店先には真っ赤な林檎。
花屋には色鮮やかなチューリップ。
肉屋からは香辛料の匂いが漂う。
「エレノア様!」
子供たちが駆け寄ってきた。
以前の事件で、すっかり人気者になってしまったのだ。
「こんにちは」
エレノアはしゃがみ込む。
女の子が花束を差し出した。
「これあげる!」
小さな野花の花束だった。
少し形は不揃いだが、一生懸命作ったのが伝わる。
エレノアは胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
受け取る。
花の香りが優しかった。
すると実況が響いた。
【エレノア選手、本日も泣きそうです!】
市場が爆笑する。
エレノアは顔を赤くした。
「もう!」
【なお実況は事実のみをお伝えしております!】
「余計です!」
笑い声が広がる。
昔なら恥ずかしかっただろう。
だが今は違う。
その笑い声が嫌ではなかった。
誰も自分を傷つけようとしていない。
みんな楽しそうに笑っているだけだ。
アルベルトも肩を震わせていた。
「殿下まで」
「すみません」
全然反省していない顔だった。
昼になると二人は小さな食堂へ入った。
豪華な宮廷料理ではない。
庶民向けの店だ。
肉の煮込み。
焼きたての黒パン。
野菜スープ。
香草の香りが食欲を誘う。
店主は緊張しながら料理を運んできた。
「お口に合えばいいのですが」
「美味しそうです」
エレノアは素直に答えた。
本当に美味しかった。
柔らかく煮込まれた肉。
旨味の染みた野菜。
温かなスープ。
以前なら食べる機会もなかった料理だ。
けれど、こういう食事が好きだと思った。
「幸せそうですね」
アルベルトが言う。
エレノアは少し考える。
そして頷いた。
「はい」
自然に出た言葉だった。
実況も珍しく黙っている。
その代わり。
市場の鐘が鳴った。
子供たちの笑い声が響いた。
人々が行き交う。
その全てが心地よかった。
夕暮れ。
二人は王宮へ戻った。
空は茜色に染まっている。
噴水の水面が黄金色に輝いていた。
エレノアは立ち止まる。
振り返る。
長かった。
本当に長かった。
苦しいこともあった。
泣いたこともあった。
心が壊れそうになったこともあった。
けれど今。
隣には信頼できる人がいる。
自分の気持ちを隠さなくていい。
我慢しなくていい。
それだけで世界はこんなにも違って見える。
「アルベルト様」
「はい」
エレノアは微笑んだ。
今度は誰かのための笑顔ではない。
自分自身の笑顔だった。
「これからも、よろしくお願いします」
アルベルトも微笑む。
「こちらこそ」
その時だった。
実況が空いっぱいに響き渡る。
【エレノア選手、ついに本当の幸せを獲得しましたーーー!!】
王都のあちこちから拍手が起こった。
歓声も聞こえる。
誰かが花火まで上げていた。
エレノアは笑った。
アルベルトも笑った。
そして二人は並んで歩き出す。
春風が吹く。
花の香りが漂う。
空は美しい夕焼け色だった。
もう本音を隠す必要はない。
もう誰かの期待に縛られる必要もない。
これから先の人生は、自分の足で歩いていけばいい。
その一歩を踏み出す二人を祝福するように、王都にはいつまでも温かな笑い声が響いていた。
―完―




