名義だけ貸してくれれば君に損はないだろう
アルノルトには、クラウディアがなぜあれほど頑ななのか、最後までわからなかった。
「口座証は置いていってくれ」
離縁のための荷物をまとめていたクラウディアに、アルノルトはそう告げた。
クラウディアは衣装箱に畳んだ外套を入れる手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
「何の口座証か、もう一度お伺いできますか」
「リンシェル商会のものだ。屋敷賃料の定期払出に使っているだろう」
「私名義の口座ですね」
「そうだ」
クラウディアはしばらく黙っていた。
その沈黙に、アルノルトは軽く眉をひそめる。
まただ。最近の彼女は、何でもすぐに面倒な方向へ持っていく。
離縁はする。それは、もう決まったことだ。
だが、離縁したからといって、屋敷の賃料が消えるわけではない。
借家契約は続く。支払いの期日も来る。王都でまともな屋敷を借りるには、毎月決まった日に賃料を納めなければならない。
そんなことは、感情とは別の話だ。
現在、屋敷賃料はリンシェル商会の口座から自動で支払われている。
名義はクラウディアだ。
ただ、口座証だけを置いていけばいい。
毎月、アルノルトが賃料分の金貨を入れる。
あとは今まで通り、リンシェル商会から屋敷管理人へ定期払出が行われる。
「署名環も家紋印も不要だ。ただ、口座証だけでいい。口座証だけでは出金できないのだから、君に危険はないだろう」
アルノルトは、なるべく穏やかに詳細を説明した。
それで話は通じると思っていた。実際、理にかなっている。
だがクラウディアは、まるで知らない言葉を聞いたような顔をした。
「その口座を、離縁後もあなたの屋敷賃料の支払いに使うということですか」
「そうだ」
「なぜですか」
「なぜって、今までそうしていたからだ」
クラウディアが何を聞いているのか、アルノルトにはわからなかった。
今さら別の商会に口座を作り直し、管理人へ届け出を出し、保証先を変え、余計な手数料を払う方がおかしい。
「金を君に出せと言っているわけではない。賃料分は僕が入れる。君は口座証を置いていくだけでいい」
「でしたら、ご自分の名義で口座を作ればよいのでは?」
クラウディアの声は静かだった。
その静けさが、アルノルトには腹立たしかった。
「それは手間だろう」
「私名義の口座を離縁後も残す方が、おかしいとは思わないのですか」
「出金できないのだから、問題はない」
誤解を解くために続けると、クラウディアは何も言わなかった。
また、感情的になっている。アルノルトは内心でため息をついた。
離縁するとなると、女はすぐこうなる。
何でもかんでも関係を断ち切ろうとする。
しかし、暮らしには暮らしの都合がある。屋敷の契約も、支払いの仕組みも、そう簡単に変えられるものではない。
「クラウディア。離縁と、賃料の支払いは別の話だ」
「別ではありません」
「別だ。僕は君に金を払わせようとしているわけではない」
アルノルトは、できるだけ落ち着いた声を出した。
「そういう問題ではありません」
「では、何が問題なのだ」
「その口座は、私のものです」
「それはわかっている」
「わかっているなら、なぜ置いていけと言えるのですか」
クラウディアはそこで、深く息を吸った。
今度こそ、アルノルトは言葉に詰まった。質問の意味がわからなかったからだ。
「君は最近、話を大げさにしすぎる。僕は現実的な話をしているだけだ」
「現実的に申し上げます」
クラウディアは衣装箱の蓋を閉じた。
「離縁後、私名義の口座をあなたの屋敷賃料に使わせる理由はありません」
「理由ならある。今まで使っていた」
「それは、私があなたの妻だったからです」
「そうだ。だからそのままでもよいだろう」
「よくありません」
クラウディアの即答に、アルノルトは思わず口元を引き結んだ。
どうしてこうも頑ななのか。
こちらが金を求めているなら、彼女の警戒も理解できる。だが、金貨は自分で入れると言っている。彼女には危険がない。手間もない。
それでも拒むというのなら、もう意地でしかない。
「では、口座証は置いていかないつもりか」
「……お好きになさってください」
「最初から、そう言えばいい」
クラウディアは衣装箱を閉じると、机の上に口座証を置いた。
支払日前日、アルノルトは金貨を用意してリンシェル商会へ向かった。
商会の受付は、相変わらず整っていた。
東方風の香が薄く漂い、磨かれた床に午後の日差しが落ちている。
アルノルトはその空気があまり好きではなかった。貴族の屋敷とは違う、商人特有の静かな自信がある。
受付係に名前を告げると、奥から若い商会員が出てきた。
「レーヴェン子爵様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「この口座証に入金したい」
「少々お待ちください」
商会員は口座証を受け取り、記載された番号を確認すると、一瞬だけ、指先が止まる。
笑顔は消えていない。だが、目の奥の温度が下がった気がした。
「恐れ入ります。その口座は、昨日、名義人ご本人様のご意思により閉鎖されております」
「閉鎖?」
「はい。定期払出契約も、同時に解除されました」
「口座証がここにあるのにか」
「名義人ご本人様からのお申し出ですので」
「いや、そうではない」
アルノルトは、苛立ちを押さえながら言った。
「明日、屋敷賃料の支払日だ。そのために入金に来た」
「承知しております」
「ならば、口座を閉じられては困る」
「ですが、クラウディア様名義の口座でございます」
ごく当たり前のことを言うような声だった。
アルノルトは、こめかみのあたりが熱くなるのを感じた。
「それは知っている。だから、彼女の口座証はここにある。僕はこの口座に賃料分を入金したいだけだ」
「さようでございましたか」
商会員は丁寧に頭を下げた。
けれど、その声に理解はなかった。
「ご自身の名義で新たに口座をお作りしましょうか」
「なぜだ?今までの口座を使えば済む話だろう」
今まで問題なく回っていた仕組みを、なぜ自分が一から作り直さなければならないのか。
「今までは、クラウディア様がレーヴェン子爵家の奥様でいらしたからです」
「離縁したからといって、支払いの仕組みまで急に変える必要があるのか」
「ございます」
商会員は、今度ははっきりと言った。
「名義人がクラウディア様である以上、その口座をどう扱うかはクラウディア様がお決めになります」
「僕は金貨を入れるつもりだった。彼女に金を出させるつもりはない。彼女に損はないだろう」
「恐れながら、レーヴェン子爵様。損の有無ではなく、名義の問題でございます」
「だから、名義が彼女なのは知っている」
「でしたら、なおさらでございます」
アルノルトには、その言葉の意味がわからなかった。
困っているのは、今、自分だけだ。なぜ寄ってたかって自分を困らせるのか。
「明日の賃料はどうなる」
「現在、その口座からの定期払出は行われません」
「では、管理人には」
「レーヴェン子爵様から直接お支払いください」
「急に言われても困る」
商会員は、困ったように微笑んだ。
「恐れ入りますが、口座閉鎖は昨日の時点で完了しております」
「なぜ昨日なのだ」
「クラウディア様が、そのようにお手続きをなさいました」
「わざとか」
思わず声が低くなった。
商会員の表情が、さらに薄くなる。
「名義人ご本人様の正当なお手続きでございます」
正当。その言葉に、アルノルトは胸の奥がざらつくのを感じた。
クラウディアは、わざわざ支払日前日に口座を閉じたのだ。
自分が困るとわかっていて。
それなのに、商会は正当だと言う。
離縁した途端、これほど冷たくなるものなのか。
アルノルトは心底そう思った。
「……では、新しい口座を作る」
「かしこまりました。ご本人確認、保証人、初回預入金、定期払出先の登録が必要です」
「保証人?」
「はい。王都西区の屋敷賃貸契約に紐づく定期払出であれば、信用確認が必要となります」
「保証人なんているのか?以前の口座の保証人は誰だ?」
「以前はリンシェル伯爵様の後見保証がございましたので」
その名を出された瞬間、アルノルトは黙った。
リンシェル伯爵、クラウディアの父。離縁の話をしたあと、保証人を断った男。
なぜ、そこまで急に態度を変えるのか。
娘が離縁するからといって、今までの関係までなかったことにする必要があるのだろうか。
アルノルトは、口の中が乾くのを感じた。
全員が、示し合わせたように自分から手を引いている。
クラウディアも。リンシェル伯爵も。リンシェル商会も。
まるで、こちらが何か悪いことをしたかのように。
「僕は、金貨を入れると言っているだけだ。彼女に払わせるつもりはない。ただ、口座を使わせてほしかっただけだ」
アルノルトは、最後にもう一度言った。
「その口座は、クラウディア様のものでございます」
「それは、何度も聞いた」
「離縁されたのに、なぜ使えると思われたのでしょうか」
その問いに、アルノルトは答えられなかった。
答えがないからではない。問いの意味が、やはりわからなかったからだ。
翌朝、屋敷管理人から使いが来た。
今月分の賃料が確認できない、と。
アルノルトは、昨日の商会員の顔を思い出しながら、しばらく黙っていた。
腹立たしさよりも先に、どうにも腑に落ちない感覚が残っていた。
けれど、アルノルトにはまだわからない。
自分はただ、今まで通りにしたかっただけなのだ。
ただ、余計な手間を増やしたくなかっただけなのだ。
ただ、彼女に損のない形を選んだだけなのだ。
それなのに、どうして誰も理解しないのだろう。
机の上には、支払われなかった賃料の督促状が置かれている。
その隣には、使えなくなった口座証が一枚。
アルノルトはそれを見つめながら、深く息を吐いた。
まったく、離縁した女というのは厄介だ。
感情ひとつで、ここまで人を困らせるのだから。
日間2位ありがとうございます!
離縁後のアルノルト視点のお話を追加してみました。
よりホラー感が増したかもしれません。
ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




