この家は、いつからこうだったのだろう
最初におかしいと思ったのは、息子であるアルノルトがあまりにも平然としていたからだ。
「クラウディアが口座を閉じた」
まるで、天候が悪くなったとか、馭者が遅れたとか、その程度の不都合を報告するような声だった。
アルノルトのその発言を聞き、私は刺繍針を止めた。
暖炉の火が小さく爆ぜる。古い屋敷特有の乾いた匂いが、冬の空気に混じっていた。
「口座?」
「屋敷賃料の定期払出に使っていた、リンシェル商会の口座だ」
「クラウディアさんの名義の?」
「ああ」
離縁の話がまとまったことは知っている。
アルノルトの妻であるクラウディアが、レーヴェン家を出ていったことも、リンシェル伯爵が後見保証を断ったことも聞いていた。
だから、その口座が閉じられたと聞いても、驚くほどのことではないはずだった。
けれどアルノルトは、本当に納得できないという顔をしていた。
「僕は賃料分の金貨を入れるつもりだった。彼女に払わせる気などなかったんだ」
「そうなの」
「口座証だけでは引き出せない。署名環も家紋印も求めていない。ただ、今まで通り賃料の支払い口として残しておけばよかっただけだ」
その説明を聞いて、夫は杯を置いた。
「それで、クラウディアは断ったのか」
「断ったどころか、支払日前日に口座を閉じた」
「商人の娘らしいな。金の流れを切るときだけは早い」
夫は鼻で笑った。
その笑いに胸の奥がわずかに沈むのを感じた。
いつものことだ。
夫はリンシェル家を、どこか下に見ている。
商会筋に顔が利く伯爵家。東方の血を引く娘。王都中心部ではなく、商人街寄りに屋敷を構える家。
そのくせ、アルノルトの結婚生活を支えていたのがリンシェル家の金と信用だったことには、あまり触れない。
「でも、お兄様がお金を入れるつもりだったのなら、クラウディアさんに損はないのではなくて?」
そう言ったのは、長女のベルタだった。
菓子皿から砂糖漬けの果物をつまみ、何でもないことのように首を傾げている。
「お前もそう思うだろ?」
「それくらい、最後にしてくださってもよかったのにね」
「まったくだ」
親子の会話を聞きながら、刺繍布に目を落とした。
針穴が少しずれている。赤い糸が、白い布の上で小さく曲がっていた。
最初、自分も少しだけ思ったのだ。
クラウディアも、支払日が過ぎるまで待ってやってもよかったのではないか、と。
離縁するとはいえ、かつて夫婦だった相手なのだから、最後くらい穏便に済ませてもよかったのではないか、と。
けれど、その考えは、口に出す前からどこか居心地が悪かった。
クラウディアの口座なのだ。
それを閉じるのは、クラウディアの自由のはずだ。
そう思う自分と、家の空気に流されそうになる自分が、胸の中で静かに擦れた。
次におかしいと思ったのは、次男のエーミルのことだった。
エーミルは、兄より少し軽い気質の男だった。
悪気がない、という言葉で許されてきた息子だ。約束を忘れても、借りた金を返さなくても、女性との距離が曖昧でも、周りは最後には「エーミルだから」と笑って済ませてきた。
そのエーミルがアルノルトに続き、数か月前に妻と離縁した。
理由はよくわからない。
本人は「性格の不一致」と言っていたが、それだけで片づくはずがないことくらいわかった。
それでも、深く問い詰めることはしなかった。
夫も「若い夫婦にはよくあることだ」と言い、大して関心を示さなかった。
可愛い初孫と気軽に会えなくなったことだけが、いつまでも胸に残っていた。
ところがある日、エーミルが妙に落ち着かない顔で屋敷へ来た。
「母上、少し相談が」
その声を聞いた瞬間、嫌な予感がした。
相談という言葉を使うときの息子たちは、たいていもう事を起こしたあとだ。
「何かしら」
「その……カミラが身ごもったらしくて」
カミラ……それは、エーミルが離縁した元妻の名だった。
「離縁したのでしょう」
「しました」
「では、なぜカミラさんが身ごもっているの」
「会ってはいたので」
「そう。では、あなたの子なのね……それで、再婚するの?」
「いや、それはまだ」
まだ?その一言が、部屋の中に落ちた。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。
「お前は何を考えている」
一瞬、夫がまともな怒りを見せたのだと思った。
けれど違った。
「子ができたなら、相手の家への説明が必要になる。レーヴェンの血が関わる以上、曖昧にはできん」
「はい」
「向こうの家は何と言っている」
「まだ話していません」
「早く話せ。子ができたなら、縁を戻すきっかけにもなるだろう」
離縁した相手を、子ができたから戻せばよい。
まるで、壊れた花瓶を接着剤で貼り合わせるような言い方。
カミラの気持ちも、事情も、これからの暮らしも、そこにはない。
「子ができたなら、カミラさんも戻りやすいのではなくて?一度は夫婦だったのでしょう?それなら、別におかしくないわ」
ベルタが軽い声で言った。
おかしくない。
本当に?その言葉がやたら耳に残った。
アルノルトは、離縁した妻の口座を自分の屋敷賃料に使おうとした。
エーミルは、離縁した妻と再婚もせず子をもうけた。
ベルタは、そのどちらにも大きな疑問を抱いていない。
夫は、家の体面と血筋の話だけをしている。
この家では、女との関係が終わるという意味を、誰も本当には理解していないのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間、指先が冷たくなるのを感じた。
ベルタの縁談を急がなければ……娘はこの家にいてはいけない。
幸い、ベルタは見た目は悪くない。
若いとは言えないが、まだ縁談が完全に途絶える年齢でもなかった。
祖母の介護を名目に、縁談は後回しにしてしまっていたけれど、家の事情を考えれば多少は理解されるはず。
そう思っていたけれど、現実は甘くなかった。
手紙は戻ってこない。
戻ってきても、遠回しな断りばかり。
以前なら一度くらいは茶会の席を設けてくれた家も、今はやんわりと距離を置く。
「レーヴェン家とは、少し慎重に考えたいそうです」
「ご令息の件が、社交界で噂になっておりますので」
「リンシェル伯爵家との離縁も、商会筋ではかなり話題になっているようで」
仲介役の夫人たちは、言葉を選んでそう告げた。
私は笑顔で礼を言い、何度も頭を下げた。
屋敷へ戻る馬車の中で、膝の上に置いた手だけが震えていた。
いつの間にか、レーヴェン家は避けられる家になっていたのだ。
その夜、ベルタに縁談の話をした。
「ベルタ。近いうちにあなたの縁談を進められたらと思っているの」
「縁談?」
「ええ。だからあなたも、夜会などに……」
「いやよ」
その言葉に目を瞬いた。
「結婚なんてしたくないわ」
「どうして」
「だって、結婚したらクラウディアさんみたいな扱いをされるのでしょう?」
一瞬、娘が正しく理解していたのだと思った。
クラウディアが受けた扱いを見て、女が婚家で軽んじられることの恐ろしさを知ったのだと。
ベルタは菓子皿に手を伸ばしながら続けた。
喉が詰まるのを感じる。
「だったら、私はここにいるわ。お父様もお母様も、私を追い出したりしないでしょう?」
「美術館のお仕事は」
「もう辞めたわ。お祖母様も亡くなったし、あそこは正式採用してくれなかったもの。今さら条件の悪い職に就くくらいなら、家にいた方がいいでしょう」
「では、ずっとこの家にいるつもりなの」
「いけないの?」
ベルタは本気で不思議そうだった。
「お兄様たちは好きにしているじゃない。私だけ、どうして無理に嫁がなければならないの?」
「それは……」
「それに、結婚したら家のことをやらされて、相手の家族に気を遣って、いざ離縁になったら口座を使わせろだの何だの言われるのでしょう? 私は嫌よ。ここにいれば、少なくとも私が妻として使われることはないもの」
娘は、クラウディアを見て学んでいた。
ただし、それは私が望んだ形ではない。
女を軽んじる男たちから逃げるのでもなく、妻になる立場を避け、娘の立場に居座る。
使われる側にならないために、使われずに済む場所に残る。
それは賢いのかもしれないけれど、自立とは程遠い。
同じ家の中で、別の形に変わった依存だった。
娘だけは逃がさなければと思ったのに、そもそも娘は最初から逃げるつもりなどなかった。
この家の歪みを見て、外へ出るのではなく、内側で損をしない場所を選んでしまった。
この家は、いつからこうだったのだろう。
最初からだったのか。
それとも、少しずつそうなっていったのか。
夫の言葉に逆らわなかった。
息子たちの不始末を、男の子だからと見逃した。
娘には、家にいれば安全だと教えてしまった。
家族なのだから助け合うものだと、自分に言い聞かせてきた。
その結果が、これだというのか。
私はそのとき初めて、自分が何を育て、何を守り、何を残してしまったのかを知った。
けれど、知ったところで、もう遅い。
窓の外では、冬の曇天が屋敷を覆っていた。
雨は降っていない。
それなのに、部屋の空気はひどく重かった。
感想で「元夫実家視点のお話が見たい」といただいたので書いてみました。
既存のナーロッパで一番ヤバい家族を目指しました。
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