完結編第一話 不動産契約は、理屈で成り立っています
アルノルト・レーヴェンが退去を求められたのは、離縁から半年ほど経った頃だった。
最初、彼は何かの間違いだと思った。
王都の借家は、婚約後に自分が決めたものだ。職場に近く、通りの治安も悪くない。部屋数もあり、客を招いても恥ずかしくない。古い屋敷ではあったが、石造りの壁は厚く、冬でも暖炉を入れれば居間はすぐに温まった。
何より、賃料が安かった。
あのとき、アルノルトはそれを自分の手柄だと思っていた。
婚約後、クラウディアにこう告げたのを覚えている。
「すでに部屋は決めてきた」
「え?」
「職場に近い方が都合がいいからな」
クラウディアは少し驚いた顔をしたけれど、結局は何も言わない。
だからアルノルトは、自分の判断は正しかったのだと思った。
職場に近い家を見つけ、しかもどうやら相場よりはるかに安くしてくれた。
仲介人も、最初は渋い顔をしていたが、こちらがレーヴェン子爵家の名を出すと、急に態度をやわらげた。
それも当然だ。
レーヴェン家は古い家柄なのだから。
そう思っていた。
だが、更新の時期を目前にして届いたのは、契約更新の書面ではなく退去通知だった。
「物件の売買に伴い、契約満了をもって退去を願います」
淡々とした文面だった。
謝罪も、交渉の余地を匂わせる言葉もない。
アルノルトはその紙を握りしめ、すぐに管理人を呼びつけた。
「どういうことだ」
「書面の通りでございます」
「僕は更新するつもりだ」
「恐れ入りますが、更新はできません」
「賃料なら払う」
「金額の問題ではございません。所有者が変わりますので」
所有者?
その言葉に、アルノルトは眉を寄せた。
「所有者が変わるだと?」
「はい。すでに売買の契約がまとまっております」
誰が買ったのかと尋ねても、管理人は答えない。
ただ、契約満了日までに退去してほしいと、同じことを繰り返すだけだった。
腹立たしさに任せ、アルノルトはすぐに別の物件を探した。
同じ程度の広さで、同じ程度の立地、できれば職場に近く、客間と使用人部屋があり、社交に使える居間もある家。
だが、出てくる物件はどれも話にならなかった。
狭い、遠い、古い、それなのに庭がない。
治安も悪く、賃料は今の家より高い。
「同額で、今の屋敷と同じ程度のものを出せ」
アルノルトがそう言うと、仲介人は困ったように目を伏せた。
「レーヴェン子爵様。失礼ながら、その条件では難しゅうございます」
「なぜだ。今の家が借りられたのだから、同じ程度のものがあるはずだろう」
「以前のお屋敷は、あの賃料で借りられる物件ではございません」
「では、いくらなら借りられる」
「十倍お出しいただいても、同じ立地と広さの屋敷は、まず市場には出ません」
「十倍だと!?」
アルノルトは聞き間違いかと思った。
「はい」
「そんな馬鹿な。僕は、今の賃料で借りていた」
「それは、クラウディア様の婚家になるという前提があったからでございましょう」
「クラウディアの?」
仲介人は、慎重に言葉を選んだ。
「実質的には、リンシェル伯爵家の持ち物でございましたので」
「リンシェル家の?」
「はい。管理は別の名義でしたが、物件の権利はリンシェル家の不動産管理に属しておりました」
「そんな話は聞いていない」
「おそらく、子爵様が借りられる際、クラウディア様のお名前が確認されたはずです。リンシェル家のご令嬢の婚家となるため、特別に賃料を抑えていたのかと」
あの家は、自分が選んだものだ。
自分が交渉した。
自分が見つけた。
そう思っていた。
喉の奥が詰まるような感覚がした。
「いや、だが、あの家は商人街寄りだろう」
「だからこそ価値がございます。王立市場、財務院への馬車道、商会筋の倉庫街。王都で実務を持つ方々には、王宮正門前より便利な場所です」
「古い屋敷だった」
「古いからこそ、土地が広いのです。今ではあの広さの敷地は、まず分けて売られます」
「内装も、特別豪奢ではなかった」
「リンシェル家の物件は、見せびらかすためのものではなく、長く使うために手入れされておりますので」
ひとつ言い返すたびに、ひとつ塞がれる。
アルノルトは椅子の肘掛けを握った。
「つまり、僕はクラウディアの婚約者だったから、あの家を借りられたと?」
「そのように考えるのが自然かと」
仲介人の声は丁寧だった。
だが、丁寧であるほど腹立たしい。
「そして、離縁した途端に出ていけと」
「契約上は、満了による退去でございます」
「理屈の話ではない」
「不動産契約は、理屈で成り立っています」
アルノルトは返す言葉を失った。
同額では、どこも借りられない。
職場に近い屋敷どころか、少し離れた上階住居でさえ、今の賃料では足りなかった。
結局、アルノルトは実家へ戻るしかなかった。
古いレーヴェン家の屋敷は、父と母と妹が暮らしている。戻ること自体はできる。
だが、戻るという事実が、ひどく腹立たしかった。
アルノルトのざまぁ、序章です。
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