第四話 私の家は、自分が幸せになるための場所
その日の夕方、アルノルトに告げた。
「父は断るそうよ」
「なぜ?」
「……なぜ?そんなの当然でしょう」
「君の伝え方が悪かったのではないか?」
「伝え方の問題ではないわ」
「離縁するからといって、急にそんな態度を取るのは大人げない」
大人げない。
私はその言葉を聞いて、むしろ気持ちが決まった。
「アルノルト様」
「何だ」
「あなたは最後まで、何もわからなかったのですね」
「は?」
「もう、私の父はあなたの後見人ではありません。私の持参金も、私の労力も、私の家族も、あなたのものではありません」
彼は顔をしかめた。
「そんな言い方をするな」
「そういう話です」
「僕は君を妻にしてやった」
「私はあなたを夫にしたのです。けれど、それも終わります」
初めて、彼の目に怒りが浮かんだ。
でも、私はもう怖くなかった。
物を蹴る音も、舌打ちも、沈黙も。
それらは私を閉じ込めるための檻だった。
けれど扉が開いてしまえば、檻はただの古い鉄にすぎない。
離縁の手続きは、思ったより淡々と進んだ。
共有財産と呼べるものは多くなかった。
私の持参金のうち、彼が使い込んだ分は戻らなかったが、それでもいいと思った。
これ以上あの家に縛られる方が、ずっと高くつく。
最後の日、私は荷物をまとめた。
父が手配してくれた馬車が門の前に停まっている。
アルノルトは玄関広間で腕を組み、苛立った顔をしていた。
「本当に行くのか」
「ええ」
「保証の件は、結局どうするつもりだ」
「知りません」
「知りません、だと?」
「ご自分でお考えください」
彼は信じられないものを見るような目で私を見た。
「君はそんなに冷たい女だったのか」
「そうかもしれませんね」
私は小さな鞄を持ち上げた。
「でも、もうそれで構いません」
引き止める言葉はなかった。
謝罪もなかった。
ただ、自分の都合が崩れていくことへの戸惑いだけが、彼の顔に浮かんでいた。
屋敷を出ると、空は曇っていたが、雨は降っていなかった。
けれど、心の中はこれ以上ないくらい、晴れやかだった。
その後、私は父の屋敷へ戻り、しばらく静かに暮らした。
王立書庫の仕事は続けた。
母は何も聞かず、東方の茶を淹れてくれた。
父は必要なことだけを尋ね、必要な手続きだけを淡々と整えてくれた。
ある日、父と二人で書斎にいたとき、父がぽつりと言った。
「見下す相手の世話にはなれると思う人間がいる」
私は顔を上げた。
「お父様」
「そういう人間に、こちらの事情を説明しても無駄だ」
「……はい」
「お前はもう、十分に説明した」
その一言で、私はようやく少しだけ呼吸が楽になった。
数年後、私は再婚した。
相手はアスター公爵家の次男、ユリウス様。
王立書庫で知り合った彼は、私が東方の茶を飲むとき、その香りを尋ねた。
母から送られた香辛料を見て、珍しいですねではなく、「どんな料理に使うのですか」と。
雨が降りそうな日は、私より先に庭のリネンを取り込んだ。
それだけのことに、私は何度も驚かされてしまった。
「気づいた方がやればよいでしょう。同じ家に住むのですから」
彼は笑って言った。
同じ家に住む。
それが、同じ責任を持つという意味なのだと、私はそのとき初めて知った気がした。
再婚が決まったとき、父は王都西区の屋敷を買ってくれた。
大きすぎず、けれど安全で日当たりがよく、書庫を作れる部屋がある屋敷。
「お父様、こんなに」
「必要だと思ったからだ」
「でも」
「お前が使う家だろう」
父は相変わらず、多くを語らない。
けれど、その短い言葉の中に、十分すぎるほどの思いがあった。
そしてその屋敷のことを、元夫がどこかで聞いたらしい。
「その屋敷を受け取る権利は、僕にもあったのではないか」
そう言っていたらしい、と友人から聞かされた日、私は帰宅してからしばらく新しい屋敷の庭を眺めていた。
春の花が風に揺れている。
窓辺には、母から届いた東方の茶葉が置かれている。
書斎には、父が選んでくれた机がある。
居間では、ユリウス様が私より先に窓を閉めてくれていた。
「風が強くなってきましたよ」
「ありがとう」
「外套も取り込んでおきました」
「気づかなかったわ」
「私が気づいたので」
それだけの会話で、胸の奥が静かにほどけていく。
この家には、あの人の影はない。
あの人の取り分もない。
あの人が受け取るはずだった権利など、最初からどこにも存在しなかった。
父の援助は、私を大切に思う父が、私に差し出してくれたものだった。
母の茶葉は、私を気遣う母が、私に送ってくれたものだった。
ユリウス様の手は、私を対等な相手として見てくれる人が、自然に差し出してくれるものだった。
それらはすべて、ただ結婚していただけの男が勝手に自分のものだと思っていいものではない。
「身体に気を付けて。もう一人の身体ではないのだから」
「ええ、気を付けます」
そういって手渡されたガウンは、とても柔らかく、暖かく、まるで彼の人柄そのままに思えた。
昔の私は、何度も自分に言い聞かせていた。
大したことではない。
もっとひどい目に遭っている人もいる。
私がうまくやればいい。
妻なのだから、我慢すべきだ。
けれど今ならわかる。
大したことは、何度も、何層も積み重なれば、やがてその重みで人を潰す。
小さな見下しは、毎日向けられれば心を削る。
助けないこと、感謝しないこと、責めること、当然のように使うこと。
それらは全部、愛情や思いやりの対極にあるもの。
アルノルトは最後まで、私を失ったのではなく、使えるはずだったものを失ったと思っていたのだろう。
妻という名の労力。
リンシェル伯爵家という後ろ盾。
父の保証。
母の気遣い。
東方交易で得た富。
だから、再婚した私が屋敷を得たと聞いて、自分にも権利があったと思った。
けれど、違う。
私の人生は、彼の資産ではない。
私の家族は、彼の後見人ではない。
私の父の愛情は、彼に分配される財産ではない。
権利なんて、最初からなかったのだ。
あの人はきっと、生涯理解しないだろう。
そして、最後まで何もわからなくてもいい。
私はもう、説明し続ける場所にはいない。
わからない人には、わからないままでいてもらえばいい。
ただし、二度と手の届かない場所で。
窓の外では、夜の王都に小さな灯りがいくつも滲んでいた。
遠くで馬車の音がする。
春の風が庭木を揺らす。
私は自分の家の中で、ゆっくり息を吸った。
家というのは、誰かの機嫌をうかがう空間ではない。
私の家は、自分が幸せになるための場所。
そのことを、私はようやくこの家で知った。
最後までお付き合いありがとうございました。
世の中には、創作よりも「そんなことある?」と思うような現実があるものです。
このお話はかなり形を変えていますが、どこかで誰かが「うわ、この男むかつく」と思ってくださったなら、それで供養になります。
ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




