第三話 あの瞬間、何かが終わったのだと思う
それでも彼は、私の実家から差し出されるものは当然のように受け取った。
結婚時の持参金。
借家契約の後見保証。
屋敷の修繕費の一部。
母が送ってくる東方の茶葉や香辛料。
父が紹介した帳簿係。
彼は実家には来ない。
礼の手紙もろくに書かない。
けれど、必要なときだけ言う。
「君の父上に頼めばいいだろう」
ある時、私は聞いた。
「なぜ、あなたのご実家ではなく、私の父なの?」
「リンシェル伯爵は商会筋にも顔が利く。話が早い」
「便利だから?」
「そういう言い方をするな。家族なのだから、助け合うものだろう」
家族。
その言葉を、彼はとても都合よく使った。
私の父を尊重はしない。
母の文化を理解しようともしない。
私の生まれ育った家を、どこか下に見る。
それでも、支援が欲しいときだけ家族だと言う。
それがどれほど醜いことなのか、彼は本当にわかっていなかった。
子どもの話が出たときも、そうだった。
「そろそろ、子のことを考えない?」
私は勇気を出してそう言った。
結婚して数年。
年齢のこともある。夫婦なら、当然話し合うべきことだと思った。
アルノルトは書類から目を上げずに言った。
「君がもう少しきちんと家を回せるようになったら、考えてもよかったが」
一瞬、意味がわからなかった。
「どういうこと?」
「子を持つなら、屋敷は清潔でなければならない。妻が家を管理できないのに、子など無理だろう」
「私だけの責任なの?」
「妻の務めだ」
子どもを持つかどうかさえ、彼の中では私への評価と引き換えだった。
私が条件を満たせば与えてやるもの。
そういう口ぶりだった。
その後、私は一度、子を宿した。
けれど、その命は長くは続かなかった。
医師から告げられたあと、私は寝台の上でしばらく動けなかった。
身体も心も冷え切って、何かを考える力も残っていなかった。
その隣で、アルノルトは苛立ったように言った。
「そもそも、僕は湿疹の薬湯を飲んでいる」
「……何の話?」
「だから、子などできるはずがないと思っていた」
私は彼を見た。
この人は今、何を言っているのだろう。
「できていたわ」
「医師がそう言っただけだろう」
「私たちの子だったのよ」
「勝手に期待したのは君だ」
その言葉で、涙が止まった。
慰めでもなく、悲しみでもなく、ただ自分は関係ないと言いたいだけの言葉。
私たちの子だったはずの命が、彼の中では自分を守るための言い訳に変わっていた。
あの瞬間、何かが終わったのだと思う。
それでも、すぐには離縁できなかった。
離縁という言葉を現実にする体力が、その頃の私には残っていなかったのだ。
働き、家を回し、父母に心配をかけまいと笑い、彼の不機嫌を避ける。
それだけで毎日が過ぎていった。
だから、離縁を切り出したのが彼の方だったとき、私は悲しみより先に、妙な静けさを覚えた。
「もう無理だと思う」
夕食の席で、彼はそう言った。
葡萄酒の杯を置き、ため息まじりに。
「無理、とは?」
「この結婚だ」
「離縁したいということ?」
「ああ」
私はしばらく彼を見つめた。
彼は私を見返さなかった。
まるで、面倒な書類を片づけるような声だった。
「わかったわ」
そう答えると、彼は少しだけ驚いたようだった。
「ずいぶんあっさりしているな」
「あなたが言ったのでしょう」
「そうだが」
その三十分後だった。
彼は借家契約の更新書類を取り出し、何でもない調子で言った。
「後見保証の欄は、君の父上に頼んでおいてくれ」
私は手を止めた。
つい先ほど、自分で離縁を切り出したばかりだ。
それなのに、彼はまだ、私の父に保証人でいてもらえると思っている。
「無理よ」
「なぜ?」
「離縁するのでしょう」
「それとこれとは別だろう」
「別ではないわ」
「契約更新は必要だ」
「必要なら、ご自分の家に頼んでください」
「レーヴェン家にそんな余裕はない」
だから、私の父に頼む。
彼の中では、話はそれだけのこと、筋が通っていると思っている。
「リンシェル伯爵は今までも引き受けてくれていた」
「今までとこれからは違うわ」
「何が違う?」
「もう、あなたは私の家族ではないからよ」
彼は本当に不思議そうな顔をした。
その顔を見た瞬間、私はようやく理解した。
彼は今まで一度も、私や私の家族を、自分と同じ重さの人間だと思ったことがないのだ。
私の父は、娘を傷つけた男をこれからも支える後見人ではない。
私の母は、見下されながら茶葉や香辛料を送り続ける便利な女ではない。
私は、彼の生活を回すための無料の家政婦ではない。
そんな当たり前のことが、彼にはわからない。
「感情的になるな。契約の話だ。君の感情とは切り離すべきだろう」
「感情ではないわ。関係が終わるという話よ」
その夜、私は父に手紙を書いた。
遅い時刻だったが、使いを出すと、翌朝には返事が届いた。
保証人は断る。
それは当然のことだ。
お前が謝る必要はない。
困るなら戻ってこいとは言わない。
だが、一人で片づけようとするな。
父らしい、簡潔な文だった。
私はその紙を読んで、初めて泣いた。
あの家では、何をしても足りなかった。
働いても、家を回しても、機嫌を読んでも、飲み込んでも、私はいつも足りない女だった。
けれど父は、たった数行で、私が悪いわけではないと言ってくれた。
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