第二話 忘れられない誕生日
ある週末、私はついに言った。
「せめて休みの日だけでも、少し家のことを一緒に見てくれないかしら」
彼は返事をしなかった。
居間の長椅子に座ったまま、新聞から目も上げない。
私は言葉を選びながら続けた。
「リネンの確認や食料庫の整理だけでも、二人でやれば早く終わるわ」
次の瞬間、足元の屑籠が蹴られた。
中に入っていた紙屑が床へ散らばる。
銀の縁取りが施された屑籠が、鈍い音を立てて転がった。
「だったら最初からきちんとやればいいだろう」
「手伝ってほしいと言っただけよ」
「僕は仕事をしている」
私も仕事をしているわ。
そう言えなかった。
言えばまた不機嫌になる。
不機嫌になれば、何時間も黙り込み、こちらが謝るまで空気を凍らせる。
そういう生活に、私はすでに慣らされていた。
何より怖かったのは、彼が私を殴らなかったことだ。
殴らないから、自分は暴力を振るっていないと思っている。
けれど、物を蹴る音だけで人は十分に黙る。
そのことを、彼は知っていたのだろうか。
それとも、知らないままやっていたのだろうか。
どちらにせよ、結果は同じだった。
雨の日のことも、今でも覚えている。
その朝、空は晴れていた。
私は屋敷の裏手に、彼のシャツと私の薄衣、それからタオルを干してから王立書庫へ向かった。
夕方には少し雲が出たけれど、まさか雨になるとは思わなかった。
帰宅すると、庭先のリネンは雨に濡れていた。
シャツの袖から水が落ち、薄衣は重く垂れ下がっている。
アルノルトはすでに帰っていた。
馬車を使わずとも王宮補佐官の詰所から徒歩十分の距離だ。
彼は居間の長椅子で足を組み、葡萄酒を片手に書類を眺めていた。
「濡れているわ」
私が思わず呟くと、彼は顔も上げずに言った。
「昼過ぎから降ると、御者たちが話していたぞ」
「帰っていたなら、取り込んでくれなかったの?」
「なぜ僕が?」
「二人分の衣類よ」
「君が干したのだろう。君の仕事だ」
一瞬、言葉を失った。
彼にとっては、それで話が終わっていた。
私が干した。
だから私の仕事。
彼が先に帰っていても、見えていても、雨に濡れていても、関係がない。
「一言、使用人に頼んでくれてもよかったでしょう」
「それをしたら、今後も僕が気にしなければならなくなる」
「今日だけでも」
「なら、最初から天気を確かめて干せばよかったのではないか」
正論のように言うから、余計に苦しかった。
私は濡れたリネンを取り込み、洗い直した。
冷たい水が袖口から腕に伝い、床を濡らす。
その間、彼は居間で夕食の時間を気にしていた。
「食事はどうする」
「今、洗い直しているの」
「だから?」
「……少し待って」
「洗い物が増えるくらいなら、外で食べるか」
そういう人だった。
自分は何もしない。
でも、自分が困ることだけは避けたい。
そのための出費や手間は、私の側に積まれていく。
私の誕生日も、忘れられない。
結婚して最初の誕生日だった。
もう子どもではないのだから、過度な期待はしないでおこうと思っていた。
けれど、せめて一言くらいはあるかもしれない。
花の一本でも、菓子の一つでも、私のことを考えて選んでくれたものがあるかもしれない。
そんな小さな期待を抱いて帰宅した私に、彼は得意げに私を厨房に連れてきて氷室を指差した。
「それ、誕生日の」
氷室には、王都の菓子店で売られている小さな氷菓が三つ入っていた。
蜂蜜、林檎、茶葉。
「好きなのを選んでいい」
私はしばらく、その三つの氷菓を見つめていた。
好きなのを選んでいい。
三つとも私のものではないのだ。
彼が三つ買ってきて、その中から一つ選ばせてくれるらしい。
「ありがとう」
私は蜂蜜を選んだ。
そう言う以外、どうすればいいのかわからなかった。
数週間後、彼の妹の誕生日があった。
アルノルトは数日前から、珍しく落ち着かなかった。
王都の高級仕立屋に使いを出し、宝飾店の名簿を眺め、休みの日には一人で外出した。
当日、彼が妹に渡したのは、王都でも名高い職人が仕立てた舶来革の鞄だった。
銀糸で縁取られた、東方風の美しい鞄だ。
「これ、欲しがっていただろう」
「覚えていてくれたの?」
「当然だ」
義妹ははしゃぎ、彼は誇らしげに笑った。
私はその横顔を見ながら、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。
覚えているのだ。
欲しいものも、店の名も、好みも。
私には氷菓三つ。
義妹には、欲しがっていた舶来革の鞄。
金額の問題ではなかった。
私のために考える手間を、彼は惜しんだ。
けれど、義妹のためには惜しまなかった。
つまり、彼の中で私はそういう重さだった。
その帰り道、私は何気ない調子で言った。
「妹君の鞄、素敵だったわね」
「ああ。東方の革細工は見栄えがする」
「あなた、そういうのに詳しかったのね」
「まあな」
少し誇らしげな声だった。
私は窓の外を見た。
東方のものは見栄えがする。
けれど、東方の血を引く私や私の家族のことは、彼はどこか軽く見ている。
その矛盾に、彼は気づいていないのだろう。
私の実家について、彼はほとんど訪ねなかった。
忙しい。
遠い。
休みの日くらい休みたい。
理由はその時々で違ったが、今なら本当の理由がわかる。
行きたくなかったのだ。
王都中心部の白壁の館ではなく、商人街寄りに建つ古い屋敷。
貴族というより商会の拠点のような家。
東方の血を引く母と、寡黙な父。
それらを、彼は貴族らしくないと見下していた。
初めて実家を訪れたとき、彼は門の前でこう言った。
「ここなのか」
ただの確認のような声だった。
けれど、その響きに含まれた薄い失望を、私は今でも覚えている。
母が東方風の茶を出すと、彼は笑った。
「不思議な香りですね」
悪い言葉ではない。
けれど、その目は珍しいものを見る目だった。
同じ王国の貴族を見る目ではなかった。
父は多くを語らなかった。
自分が王国財務院の顧問を務めていることも、東方航路の立ち上げに関わったことも、王都に屋敷を一つ、港町に商館を二つ、東方の港に倉庫と別邸を持っていることも、あえて言わなかった。
見栄を張らない人だったからだ。
アルノルトは、その沈黙を勝手に都合よく受け取った。
「君の家は、あまり貴族らしくないな」
「そう?」
「いや、悪い意味ではない。気取っていないということだ」
悪い意味ではない。
彼はいつもそう言った。
悪い意味ではないのなら、なぜ胸が冷えるのだろう。
なぜ、私の家が少しずつ小さく扱われていくように感じるのだろう。
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