第一話 彼は『うまくやれ』の一言で片づけた
「その屋敷を受け取る権利は、僕にもあったのではないか」
元夫であるアルノルト・レーヴェン子爵がそう言っていたらしい。
と、共通の知人から聞かされたとき、私は笑うことも怒ることもできなかった。
ああ、やっぱりあの人は最後まで何もわかっていなかったのだ、と思っただけだ。
王都西区に屋敷を買った。
大貴族の邸宅が並ぶ白亜の街区から、少しだけ南へ下った場所にある、小ぶりだが陽当たりのよい屋敷。
庭には季節の花が咲き、古い石造りの門には蔦が絡んでいる。
父が頭金の大半を出してくれたのは事実だった。
けれど、それは私が再婚したからだ。
私がもう一度、自分の足で人生を始めようとしているからだ。
父が、娘である私に差し出してくれたものだった。
そこに、元夫の取り分など一欠片もない。
「本気で言っていたの?」
そう尋ねると、彼女は困ったように頷いた。
「本気だったわ。周りの方々も、そんなわけがないでしょうと止めたのだけれど、まったく理解していない様子だったの。『僕はクラウディアの夫だったのだから、リンシェル家の援助を受ける権利があったはずだ』って」
「元夫、だけどね」
「ええ。しかも彼、あなたが再婚したと聞いたときも、『逆玉だったのに惜しいことをしたな』と周りから言われ、驚いていたわ」
「逆玉」
私は思わず、その言葉を繰り返した。
王都では、裕福な令嬢や女当主と結婚して成り上がることを、そう揶揄する人がいる。品のよい言葉ではない。
けれど、実際に一代で財を成し、爵位を得た父の娘である私との婚姻が、そう揶揄されるのも仕方がないとは思っていたけれど、まさか元夫がそれをしらないということに、どこか腑に落ちる気もした。
彼は最後まで、私を妻として見ていたのではない。
私の背後にある家、金、労力、父の名、母の気遣い。
そういうものを、自分が使える資源だと思っていただけなのだろう。
マリーベルは、言いにくそうにカップを置いた。
「ごめんなさい。聞かせない方がよかったかしら」
「いいの。むしろ、やっと全部つながった気がする」
「クラウディア」
「大丈夫。私はもう、あの人の言葉で傷つくところにはいないから」
そう答えた声は、自分でも不思議なくらい穏やかだった。
五年前なら、違ったかもしれない。
怒りで手が震えたかもしれない。
自分が悪かったのではないかと、またどこかで考えてしまったかもしれない。
けれど今は、ただ思うだけだ。
あの人は、本当に最後まであの人だったのだと。
アルノルトと出会ったのは、王都の社交期だった。
レーヴェン子爵家は古くからある家門だ。
ただし古いのは家名だけで、領地は痩せ、屋敷は傾き、社交界での立場も年々苦しくなっていた。
それでもアルノルトは、子爵家の嫡男としての矜持だけは強かった。
一方、私の生家であるリンシェル伯爵家は、王都の中心から少し離れた商人街寄りに屋敷を構えていた。
父は伯爵位を持っていたが、貴族としてよりも王室御用商会の後見人として知られている人だった。
東方航路の立ち上げに関わり、王国の絹、香辛料、薬草、茶葉の取引に深く携わっている。
母方の祖母が東方出身で、私には四分の一だけ東方の血が流れていた。
それを、アルノルトは後になって、当てこするように何度も軽く扱った。
けれど出会ったばかりの頃、私はそこまで見抜けなかった。
彼は寡黙で、不器用で、社交が得意ではない人なのだと思っていた。
王都の令嬢たちが笑いながら男性に囲まれる中、彼は壁際に立ち、どこか居心地悪そうにグラスを手にしていた。
その姿を見て、私は勝手に「誠実な人なのかもしれない」と思ってしまったのだ。
今ならわかる。
無口なことと誠実なことは、何の関係もない。
婚約前から、違和感はあった。
茶会の帰り、馬車代が足りないと言われて、私が払った。
仕立屋で礼装の仮払いが必要になり、今月は厳しいと言われて、私が立て替えた。
高価なものをねだられたわけではない。だからこそ、断りにくかった。
「すまない。次は必ず返す」
彼はそう言った。
けれど、返ってきたことはほとんどない。
ある日、結婚後に二人で暮らす予定だった王都の借家について話していたとき、彼は何でもない顔で言った。
「すでに部屋は決めてきた」
「え?」
「職場に近い方が都合がいいからな」
相談ではなく、報告だった。
私の通う王立書庫からは遠くなる場所だったけれど、彼はそのことを一度も気にしなかった。
数か月後、突然「やはりこの婚約は無理かもしれない」と言われたこともある。
慌てて会いに行き、話を聞くと、彼はしばらく黙ったあと「今のは忘れてくれ」と撤回した。
あのとき、私は安堵してしまった。
愛されているから戻ってきてくれたのだと思った。
実際には、試されていたのかもしれない。
どこまで雑に扱っても、この女は離れないのか、と。
結婚してから、彼は安心したように本性を出した。
家政は私の仕事になった。
使用人を雇う余裕はあった。少なくとも、私の持参金と父からの支援を合わせれば、十分に可能だった。
けれどアルノルトは「贅沢だ」と言った。
「屋敷のことは妻が見るものだろう」
「私も王立書庫の仕事があるわ」
「女の仕事など、社交と家の管理の延長ではないか」
私の年収は、彼が子爵家から受け取るお金よりずっと多かった。
それでも彼は、自分の社交費として毎月金貨五十枚を譲らなかった。
「男には付き合いがある」
「家計が少し厳しいのだけれど」
「なら、君がもう少しうまくやればいい」
うまくやる。
彼はよくその言葉を使った。
私が働き、お金を稼ぎ、食事の手配をし、衣類を管理し、彼の機嫌を損ねないように空気を読む。
それらすべてを、彼は『うまくやれ』の一言で片づけた。
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