あなたと迎える朝、幸せを紡ぐ新しい物語
結婚式まで、あと一週間。
王都は、いつもより少しだけ華やいだ空気に包まれていた。
城の庭園では花々の手入れが進み、式場となる大広間には新しい装飾が運び込まれている。招待客への案内状も届けられ、準備は着実に整いつつあった。
そんな中、エレナ・ヴァレンティアは、読書室の机に向かっていた。
目の前には、青い革表紙の日記帳と、書きかけの物語の原稿が並んでいる。
左手の薬指には、ルシアンから贈られた青い宝石の指輪。
何度見ても、まだ夢のようだった。
「……本当に、結婚するのですね」
小さく呟くと、向かいに座っていたミレイユ・ローゼンが顔を上げた。
「エレナ、また指輪を見ていたの?」
「えっ? そ、そんなに何度も見ていませんよ」
「今朝から少なくとも五回は見たわね」
「ご、五回も……?」
「六回目かしら?」
「ミレイユ!」
二人は顔を見合わせ、笑った。
読書室には、子どもたちが描いた絵や、木製の船、王冠をかぶった鳥の人形が並んでいる。
以前と変わらない、温かな場所だった。
けれど、エレナにとっては、ここもまた新しい意味を持つようになっていた。
彼女がルシアンとの未来を考えるとき、思い浮かべるのは城や華やかな式場だけではない。
こうして子どもたちの物語に耳を傾ける時間も、ミレイユと笑い合う午後も、これから先の人生に残しておきたい大切なものだった。
「結婚式が終わったら、少し落ち着くのでしょうか」
エレナが尋ねると、ミレイユは首を傾げた。
「どうかしら。あなたの場合、落ち着いたと思ったら、また新しいことを始めそうだもの」
「そんなことは……」
「あるわよ。読書室を作ったときだって、最初は本を並べるだけのつもりだったでしょう?」
「それは……そうでしたけれど」
「それが今では、子どもたちが自分で物語を作る場所になっているじゃない」
ミレイユは、机の端に置かれた原稿を指さした。
「それに、あなた自身も物語を書き始めた。結婚したら、今度は旅の続きを書くのでしょう?」
エレナは原稿を見つめた。
そこには、見知らぬ景色を探す少女と、その隣を歩く青年の物語が綴られている。
まだ完成には遠い。
けれど、少しずつ言葉を重ねていくことが楽しかった。
「はい。これからも書き続けたいです。いつか、この読書室の子どもたちにも読んでもらえたら嬉しいですね」
「きっと喜ぶわ」
ミレイユは笑った。
「あなたが結婚したあとも、私たちがここを支えていくから、安心して旅に出てちょうだい」
「ミレイユ……ありがとうございます」
「その代わり、旅先のお土産は期待しているわよ?」
「ふふっ。わかりました」
「カイルにも何か買ってきてあげようかしら」
「えっ?」
ミレイユは一瞬、言葉を止めた。
「……どうして、そこでカイルが出てくるのですか?」
「だって、あなたが彼の好きそうなものを探している姿が目に浮かんだのですもの」
「そ、そんなことしていないわ!」
声が少し大きくなった。
近くで本を読んでいた子どもたちが、くすくすと笑う。
ミレイユは頬を赤くしながら、エレナを睨んだ。
「もう。あなた、最近、私のことをからかいすぎよ」
「ごめんなさい。でも、ミレイユが幸せそうだと、私も嬉しいのです」
その言葉に、ミレイユは少しだけ表情を和らげた。
「……ありがとう」
そして、照れくさそうに付け加える。
「あなたも、幸せになってね。これから先、ずっと」
エレナは微笑み、頷いた。
「はい。必ず」
その日の夕方、読書室にカイル・フェルディナが訪れた。
腕には、細長い包みを抱えている。
「皆さん、こんにちは」
子どもたちは、すぐに彼の周りへ集まった。
「カイルお兄ちゃん、今日は何を持ってきたの?」
「新しいおもちゃ?」
「それとも、船?」
「順番に質問してください。私は一人しかいませんから」
カイルが真面目に答えると、子どもたちは一斉に笑った。
ミレイユは、その様子を少し離れた場所から眺めていた。
彼は以前と変わらない。
丁寧で、真面目で、時々、驚くほど融通が利かない。
それなのに、最近は彼の姿を見つけるだけで、胸が温かくなる。
「ミレイユ嬢」
不意に呼ばれ、彼女は肩を跳ねさせた。
「な、何?」
カイルは包みを差し出した。
「こちらを、あなたに」
「私に?」
受け取って開いてみると、中には小さな木製の栞が入っていた。
淡い茶色の木目に、細い葉の模様が丁寧に刻まれている。
「……綺麗」
ミレイユは目を見張った。
「どうして、これを?」
「以前、あなたが読書室で使っていた栞を見て、似たものを作ってみようと思ったのです。葉の模様なら、あなたの雰囲気にも合うかと」
「私の……雰囲気?」
「はい。明るくて、よく周りを見ていて、それでいて、時々こちらが驚くほど大胆なことを言うところなど」
「ちょっと! 最後のは余計よ!」
カイルは一瞬、困ったような顔をした。
「申し訳ありません。ですが、私にとっては、そういうところもあなたらしさだと思っています」
ミレイユは、言葉を失った。
彼は相変わらず、気持ちを伝えることが得意ではない。
けれど、以前よりも少しずつ、自分の思いを言葉にしてくれるようになっていた。
「……ありがとう、カイル」
彼女は栞を両手で包み込んだ。
「大切にするわ」
「そう言っていただけるなら、作った甲斐がありました」
カイルは穏やかに笑った。
その笑顔を見て、ミレイユは思った。
いつか、この人に自分の気持ちを、もっとはっきり伝えたい。
一緒にいたいだけではなく、彼の隣を自分の居場所にしたいと。
まだ、言葉にする勇気は足りない。
けれど、以前のように、その気持ちから逃げようとは思わなかった。
「……カイル」
「はい?」
「また、今度、二人で話せる?」
カイルは少し驚いたあと、静かに頷いた。
「もちろんです。あなたが望むなら、いつでも」
ミレイユは微笑んだ。
「ありがとう」
それだけで、今日という日が少し特別になった気がした。
一方、王城では、ルシアン・アストレアが結婚式の最終確認を終えていた。
書類を閉じると、彼は窓の外へ目を向けた。
夕暮れの庭園には、花々が風に揺れている。
あの場所で、エレナに結婚を申し込んだ。
彼女が涙を浮かべながら頷いてくれたこと。
指輪を受け取ったときの、幸せそうな笑顔。
自分から口づけてくれた、あの瞬間。
思い返すたび、胸の奥が温かくなる。
「殿下」
声をかけられ、ルシアンは振り返った。
カイルが、いつものように姿勢を正して立っていた。
「結婚式の準備は、滞りなく進んでおります。読書室の子どもたちについても、安全を確保したうえで招待できるよう、調整が進んでいます」
「ありがとう。エレナも喜ぶだろう」
「はい」
カイルは一礼したが、すぐには退出しなかった。
「……殿下。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「どうした?」
「ご結婚されるというのは、どのようなお気持ちなのでしょうか」
ルシアンは目を瞬かせた。
「君からそんな質問をされるとは思わなかったな」
「申し訳ありません。少々、個人的なことでして」
「ミレイユ嬢のことかい?」
カイルの肩が、わずかに揺れた。
「……なぜ、おわかりに?」
「君が彼女の話をするとき、以前よりも表情が柔らかくなったからね」
ルシアンは微笑んだ。
「それに、君は彼女のために何かを作ったり、彼女の言葉を覚えていたりする。本人は隠しているつもりでも、周りにはわかるものだよ」
「……そうですか」
カイルは少しだけ視線を落とした。
「私は、彼女と一緒にいたいと思っています。ただ、その気持ちをどのように伝えればよいのか、まだよくわからないのです」
ルシアンはしばらく考えた。
「君は、騎士としてなら、自分の務めを理解しているだろう?」
「はい」
「けれど、彼女との関係に、正しい手順が一つだけあるわけではない。君自身の言葉で伝えることが大切なのだと思う」
彼は窓の外へ視線を向けた。
「僕だって、エレナに何を伝えるべきか、何度も考えたよ。けれど、完璧な言葉を探しているだけでは、何も始まらなかった」
「殿下……」
「自分の気持ちを、相手に押しつけないこと。そして、相手の答えをきちんと受け止めること。僕が大切にしたいと思っているのは、それくらいかな」
カイルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。考えてみます」
「うん。君なら大丈夫だよ」
ルシアンは笑った。
「ただし、考えすぎて何年も伝えられない、なんてことにはならないようにね」
「……肝に銘じます」
その真剣な返事に、ルシアンは思わず笑ってしまった。
カイルは少しだけ困った顔をしたが、やがて自分も微笑んだ。
その夜、エレナは自室で、結婚式の日に身につける装飾品を選んでいた。
机の上には、いくつかの髪飾りが並んでいる。
銀細工のもの。
小さな青い石をあしらったもの。
白い花を模したもの。
どれも美しかったが、エレナは最後に、小さな銀色の星が飾られた髪飾りを手に取った。
ルシアンが贈ってくれた日記帳の表紙を思わせる、控えめなデザインだった。
「……これがいいですね」
彼女は髪飾りをそっと置いた。
そして、机の引き出しから青い革表紙の日記帳を取り出す。
最初のページから、これまでの記録を読み返してみた。
彼と出会った日のこと。
自分の過去に向き合った日のこと。
運命に翻弄され、何度も迷いながら、それでも自分で選ぶことを覚えた日々。
そして、二人で旅をした記録。
市場で買ったしおり。
庭園で交わした約束。
婚約指輪を受け取った夕暮れ。
一つひとつの記憶が、確かな足跡となって残っていた。
エレナは新しいページを開き、ペンを手に取った。
『結婚式まで、あと一週間。
私は今、幸せです。
でも、幸せだからといって、これから先に何の不安もないわけではありません。
新しい生活が始まれば、きっと初めて経験することがたくさんあるでしょう。
意見が食い違うことも、思いどおりにならないこともあるかもしれません。
それでも、私は怖くありません。
ルシアンは、私の未来を決めるのではなく、一緒に考えたいと言ってくれました。
私も、彼の願いを知り、彼の夢を大切にしながら、自分の夢を追い続けたいと思っています。
夫婦になることは、どちらか一人が相手に合わせることではなく、二人で新しい道を作っていくことなのだと思います。
結婚式は、その始まり。
これからも私は、彼を選び続けます。
そして、彼と一緒に、まだ知らない未来を選んでいきたい』
書き終えたエレナは、ペンを置いた。
窓の外には、静かな星空が広がっていた。
彼女は左手の指輪に触れ、そっと微笑んだ。
明日も、準備が続く。
その次の日も。
結婚式を迎えるまで、きっと忙しい日々になるだろう。
けれど、その先には、ルシアンと共に歩む新しい人生が待っている。
エレナは日記帳を閉じた。
「……早く、あなたに会いたいです」
小さく呟いた声は、夜の静けさに溶けていった。
やがて彼女は灯りを落とし、穏やかな眠りについた。
夢の中で、彼女はルシアンと手をつないでいた。
見知らぬ町の石畳を歩き、海を眺め、花の咲く丘を越えていく。
二人の行く先に、決められた道はない。
だからこそ、何度でも選ぶことができる。
その自由を、二人はこれからも大切にしていくだろう。
結婚式の日は、もうすぐそこまで近づいていた。




