不器用な騎士が、初めて伝えた本当の気持ち
王都に戻ってから三日目の朝、ミレイユ・ローゼンは鏡の前で、いつもより長く自分の姿を眺めていた。
淡い茶色の髪を整え、緑色の瞳に映る自分の顔を確認する。
いつもと変わらない。
……少なくとも、外見だけは。
「どうして、こんなに落ち着かないのかしら」
誰に聞かせるでもなく呟き、ミレイユは胸元に手を当てた。
ここ数日、カイルのことばかり考えてしまう。
子どもたちのために木製のおもちゃを作ってくれたこと。
自分が何気なく口にした言葉を、彼が覚えていてくれたこと。
普段は真面目で融通が利かないくせに、子どもたちの突拍子もない物語に付き合ってくれること。
そして、別れ際に見せる、ほんの少し照れたような表情。
思い出すたび、胸の奥がくすぐったくなる。
「……まさか、私がこんなことで悩むなんて」
これまで、ミレイユは自分の気持ちを隠すことが苦手だった。
嬉しければ笑い、腹が立てば言い返し、知りたいことがあれば相手が誰であろうと尋ねる。
けれど、カイルに対する気持ちだけは、どうにも扱いに困っていた。
彼が近くにいると、いつもより余計なことを話してしまう。
目が合うと、なぜか先に逸らしたくなる。
優しくされると嬉しいのに、素直にお礼を言うのが恥ずかしい。
こんな自分は初めてだった。
「……エレナに相談したいけれど」
ミレイユは、以前の会話を思い出した。
『無理に今すぐ答えを出さなくてもいいと思う。でも、自分の気持ちを知りたいなら、相手と話してみるのも大切よ』
エレナはそう言ってくれた。
あのときは、まだよくわからなかった。
でも、今なら少しだけ理解できる。
自分の心を整理するには、カイル本人と向き合わなければならないのだ。
「……よし」
ミレイユは両手で頬を軽く叩いた。
「今日は逃げないわ」
そう決意した直後、鏡に映る自分が真っ赤な顔をしていることに気づいた。
「……まずは、この顔をどうにかしないと」
その頃、王城ではカイル・フェルディナが、いつもどおり騎士としての務めを果たしていた。
報告書の確認、巡回の調整、訓練の立ち会い。
どれも慣れた仕事だ。
しかし、書類に目を通している最中、彼の意識は何度も別の場所へ飛んでいた。
読書室に運んだ木製のおもちゃを見て、嬉しそうに笑ったミレイユ。
子どもたちが作った物語について話していたとき、彼女が何気なく言った言葉。
『そういうところ、嫌いじゃないわ』
あの一言が、今でも頭から離れない。
「……集中しろ」
カイルは小さく呟き、書類に視線を戻した。
騎士として、感情に振り回されるわけにはいかない。
そう思う一方で、ミレイユが笑っていると、自然と目で追ってしまう自分がいた。
彼女が困っていれば力になりたい。
彼女が喜ぶものを見つければ、教えてあげたい。
彼女が何かに夢中になっていると、その話をもっと聞きたいと思う。
ただの親切心だと考えようとしたこともある。
だが、それだけでは説明できなかった。
彼女がほかの誰かと楽しそうに話していると、なぜか胸が落ち着かない。
彼女が自分を頼ってくれると、いつも以上に嬉しい。
そして何より、彼女の前では、普段の自分とは違う言葉を探してしまう。
「カイル卿」
部下の声に、カイルは我に返った。
「……何だ?」
「先ほどから、同じ書類を三度確認されていますが」
「そうか?」
「はい。何か問題でも?」
「いや、問題ない。確認を続ける」
部下は一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに礼をして退出した。
カイルは書類を机に置いた。
「……これは、重症だな」
自分でも、そう思わざるを得なかった。
午後、ミレイユは王城の中庭へ向かった。
カイルが巡回を終える頃だと、以前の会話から知っていたからだ。
偶然を装うことも考えたが、彼女は途中で諦めた。
今さら、そんな小細工をしても仕方がない。
やがて、中庭の入口からカイルが姿を現した。
「カイル!」
呼びかけると、彼はすぐに足を止めた。
「ミレイユ嬢? どうされました?」
いつもと同じ、礼儀正しい口調。
その声を聞いた途端、ミレイユは急に緊張した。
けれど、ここで引き返すわけにはいかない。
「少し、時間をもらえるかしら?」
「もちろんです。何かありましたか?」
「ええ。……あなたと話したいことがあるの」
カイルの表情がわずかに引き締まった。
「承知しました」
二人は中庭の奥にある、花壇に囲まれたベンチへ向かった。
周囲には人影がなく、噴水の水音だけが静かに響いている。
ミレイユは腰を下ろしたものの、すぐには話し始められなかった。
カイルも急かすことなく、彼女の隣に立っていた。
「……座ってちょうだい」
「失礼します」
彼が隣に座る。
それだけで、ミレイユの心臓が大きく跳ねた。
「ええと……その……」
いつもなら、話題などいくらでも見つかる。
けれど、いざ伝えようとすると、言葉がうまく出てこない。
「ミレイユ嬢。急ぎの話でなければ、ゆっくりで構いません」
「……そういうところよ」
「はい?」
「あなたって、いつもそうなのよね」
ミレイユは思わず彼を見た。
「私が困っていると、急かさずに待ってくれる。私が何気なく言ったことも覚えていてくれる。子どもたちのために、忙しいのにおもちゃまで作ってくれる」
「それは……私にできることをしただけです」
「そう。あなたは、いつもそう言うの」
彼女は困ったように笑った。
「でも、私はそれが嬉しかったのよ」
カイルは黙って彼女を見つめていた。
ミレイユは一度、深く息を吸った。
「最初は、あなたのことを真面目で堅苦しい騎士だと思っていたわ。融通が利かないし、冗談を言っても真に受けるし」
「……否定はできません」
「でしょう?」
ミレイユは小さく笑った。
「でも、知れば知るほど、違うところが見えてきたの。あなたは不器用だけれど、周りをよく見ている。口に出すのは苦手でも、人の気持ちを大切にしている」
彼女は膝の上で手を握った。
「そして、気づいたら……あなたがどんな顔をするのか、何を考えているのか、もっと知りたいと思うようになっていたの」
カイルの呼吸が、ほんの少し止まった。
「ミレイユ嬢……」
「まだ、自分の気持ちを全部説明できるわけじゃないわ。あなたのことを考えると、嬉しいのに落ち着かなくて、顔を見ると変なことばかり言ってしまうし」
「変なこと、ですか?」
「そこは聞き流しなさい!」
思わず声を上げたあと、ミレイユは両手で顔を覆った。
「もう……どうして今、そんなところを気にするのよ……」
カイルは目を瞬かせた。
そして、彼女が恥ずかしさで真っ赤になっていることに気づくと、困ったように視線を逸らした。
「……申し訳ありません」
「謝らないでちょうだい。余計に恥ずかしいじゃない」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
けれど、その沈黙は、もう気まずいものではなかった。
ミレイユはゆっくりと顔を上げた。
「カイル。私は、あなたのことをもっと知りたい。あなたが何を好きで、何を苦手としていて、何を大切にしているのか」
そして、まっすぐに彼を見つめた。
「だから……これからも、私と一緒にいてくれる?」
それは、恋人になってほしいという言葉ではなかった。
まだ、そこまで自分の気持ちを整理できていない。
ただ、彼との関係を、今より少しだけ先へ進めたかった。
カイルはしばらく彼女を見つめていた。
やがて、静かに口を開いた。
「……私も、あなたと一緒にいたいと思っています」
ミレイユの目が大きく見開かれた。
「え……?」
「あなたが読書室で子どもたちと笑っている姿を見ると、私まで嬉しくなります。あなたが何かに夢中になっていると、その話をもっと聞きたくなる」
カイルは、普段よりゆっくりと言葉を選んでいた。
「あなたが困っているとき、私にできることがないか考えます。喜んでもらえそうなものを見つけると、あなたの顔が浮かびます」
彼は一度、視線を落とした。
「そして、あなたがほかの誰かと楽しそうにしていると……自分でも説明できない感情を覚えることがあります」
ミレイユは息を呑んだ。
「それが何なのか、私はまだ完全には理解できていません。騎士としてなら、どんな問題にも冷静に対処できるつもりでした。ですが、あなたのことになると、どうにも判断が難しくなる」
「……カイル」
「それでも、一つだけ、はっきりしていることがあります」
彼は彼女の目を見た。
「あなたが私を頼ってくれることが、嬉しいのです。あなたが私のそばにいてくれることを、望んでいるのです」
ミレイユの瞳に、涙が浮かんだ。
「……それって」
「はい」
カイルは、少しだけ苦笑した。
「私は、あなたに特別な感情を抱いているのだと思います」
その言葉を口にした瞬間、彼自身も驚いたような顔をした。
まるで、ずっと胸の奥にあったものを、ようやく自分の言葉にできたかのようだった。
「ですが、あなたを急かしたくはありません。今すぐ答えを出してほしいとも思っていません。ただ……あなたが望むなら、これからも私に、あなたの隣を歩かせてください」
ミレイユは、唇を震わせた。
そして、次の瞬間には、いつもの明るい笑顔を浮かべようとしていた。
けれど、うまくいかなかった。
涙が頬を伝ってしまったからだ。
「……本当に、不器用な人ね」
「よく言われます」
「そういうところも、嫌いじゃないわ」
「以前も、そのように言っていただきましたね」
「覚えていたの?」
「もちろんです」
あまりにも真剣な答えに、ミレイユはとうとう笑ってしまった。
涙を拭いながら、彼女はカイルの手に自分の手を重ねた。
「私も、あなたのそばにいたいわ」
カイルは、重ねられた手を見つめた。
「……よろしいのですか?」
「何度も言わせないでちょうだい」
ミレイユは少しだけ頬を膨らませた。
「私は、自分の気持ちをちゃんと知りたいの。あなたと話して、あなたと笑って、もっとあなたのことを知っていきたい」
彼女は、照れくさそうに笑った。
「その先で、私たちがどんな関係になるのか……一緒に見つけていきましょう?」
カイルの表情が、ゆっくりと柔らかくなった。
「はい。喜んで」
彼は彼女の手を、壊れ物を扱うように優しく握り返した。
「これからも、よろしくお願いします。ミレイユ嬢」
「こちらこそ。……でも、二人きりのときまで、そんなに堅苦しくしなくてもいいのよ?」
「それは……努力します」
「努力なの?」
「すぐに変えるのは、少々難しいかと」
「もう!」
ミレイユは笑いながら、彼の肩を軽く叩いた。
カイルも、わずかに笑った。
その笑顔を見た瞬間、ミレイユの胸がまた温かくなる。
ああ、やっぱり。
自分は、この人の笑顔が好きなのだ。
そのことを、ようやく素直に認められた気がした。
その日の夕方、ミレイユは読書室を訪れた。
エレナに会うなり、彼女は何も言わずに両手を握りしめた。
「……ミレイユ?」
「エレナ」
「何かあったの?」
ミレイユは数秒だけ黙り、それから一気に言った。
「カイルと話してきたわ!」
エレナは目を瞬かせた。
「えっ?」
「ちゃんと話したの。私が彼をもっと知りたいってことも、一緒にいたいってことも!」
「それで……?」
「彼も、私と一緒にいたいって言ってくれたの!」
言い終えた瞬間、ミレイユは両手で顔を覆った。
「どうしましょう……思い出しただけで、また恥ずかしくなってきたわ……!」
エレナは驚いた顔をしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「よかったわね、ミレイユ」
「うん……!」
「それで、これからはどうするの?」
ミレイユは指の隙間からエレナを見た。
「……まだ、わからない。でも、今までみたいに何も言わずにいるのは嫌だと思ったの」
彼女は手を下ろし、真剣な顔になった。
「自分の気持ちを全部理解できていなくても、少しずつ伝えていけばいいのよね。相手の気持ちだって、話してみなければわからないもの」
「ええ。二人で考えていけばいいと思うわ」
エレナは優しく頷いた。
ミレイユは、左手を胸元に当てた。
まだ、恋人になったわけではない。
約束した未来があるわけでもない。
それでも、昨日までとは何かが違っていた。
彼の気持ちを少しだけ知ることができた。
自分の気持ちも、少しだけ伝えられた。
その小さな一歩が、こんなにも嬉しい。
「……エレナ」
「なあに?」
「あなたとルシアン殿下のことも、聞かせてちょうだい。婚約が決まったのでしょう?」
今度はエレナの頬が赤くなった。
「ど、どうして知っているの!?」
「王城で噂になっていたわよ。もちろん、詳しいことまでは知らないけれど」
「そ、そんなに早く……!」
ミレイユは、にやりと笑った。
「それで? 指輪は? どんな言葉で申し込まれたの? キスは?」
「ミ、ミレイユ!」
「だって、気になるじゃない!」
「そ、それは……二人だけの秘密です!」
「まあ! 今まで何でも話してくれたのに!」
「そ、それとこれとは別です!」
二人の笑い声が、読書室に響いた。
棚の上では、子どもたちが作った王冠をかぶった鳥の木彫りが、相変わらず誇らしげに立っている。
エレナはそれを見て、思わず笑った。
自分たちの物語にも、ミレイユたちの物語にも、まだ続きがある。
すぐに答えが出なくてもいい。
迷いながらでも、一歩ずつ進めばいい。
そしていつか、振り返ったときに、今日のこの日を大切な始まりだったと思えるように。
夕暮れの光が、読書室の窓から差し込んでいた。
二人の少女は、これから訪れる未来を思いながら、いつまでも楽しそうに語り合っていた。




