↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
124/130

あなたと選ぶ未来に、永遠の想いを込めて

朝の潮風が、宿の窓辺に掛けられた白いカーテンを静かに揺らしていた。


エレナ・ヴァレンティアは、目を覚ますと、枕元に置いていた青い革表紙の日記帳へ手を伸ばした。


表紙に刻まれた銀色の星が、朝日を受けて淡く輝いている。


昨日、ルシアンと一緒に歩いた港町。

市場で味わった魚料理。

海の歴史を伝える博物館で見つけた、遠い昔の船乗りたちの日記。

そして、丘の上の古い灯台から眺めた、どこまでも広がる水平線。


思い返すたび、胸の奥が温かくなった。


エレナは日記帳を開き、昨日の最後に書いた文章を読み返す。


『知らない景色を見つけることも嬉しい。でも、その景色を誰と一緒に見たのか。それも、私にとって大切な物語になる』


その下に、もう一行を書き加えた。


『いつか振り返ったとき、あなたと歩いた道のすべてを、幸せだったと思えるように』


書き終えたところで、扉が控えめに叩かれた。


「エレナ、起きているかい?」


「はい、ルシアン。今、行きます」


日記帳を閉じて扉を開けると、旅装束に身を包んだルシアンが立っていた。


黒みがかった青い髪は朝の光を受け、深い青の瞳には穏やかな笑みが浮かんでいる。


「おはようございます、ルシアン様」


「おはよう、エレナ。よく眠れた?」


「はい。昨日のことを思い出していたら、少し早く目が覚めてしまいました」


「それは僕も同じだよ」


彼はそう言って、少しだけ照れくさそうに笑った。


「昨日の灯台から見た海が忘れられなくてね。君と並んで眺めていたら、まだ見ていない景色が、この世界にはどれほど残されているのだろうと思ったんだ」


「私もです。海の向こうには、きっと私たちの知らない町や文化があるのでしょうね」


「いつか、そこにも行こう」


「はい。約束です」


エレナが微笑むと、ルシアンはその手を取った。


いつものように自然な仕草だった。


けれど、彼の指先がほんの少しだけ緊張していることに、エレナは気づいた。


「……ルシアン様?」


「今日は、君に見せたい場所があるんだ」


「どこですか?」


「昨日の灯台とは違う場所だよ。町の人に教えてもらったんだ。海を一望できる、小さな庭園があるらしい」


「素敵ですね」


「うん。それに、君と一緒に行きたいと思った」


その言葉に、エレナの頬がほのかに色づいた。


「では、朝食をいただいたら出発しましょう」


「ああ」


二人は顔を見合わせ、笑った。


それが、いつもと変わらない旅の朝の始まりだった。


けれど、ルシアンの胸の内には、エレナにまだ伝えていない大切な想いがあった。


彼は旅に出ると決めた日から、ずっと考えていた。


これまで、何度も彼女を失いかけた。


過去の人生では、手を伸ばしても届かなかったことがあった。

守りたいと願うあまり、彼女の気持ちを確かめることさえ怖くなったこともあった。


それでも今、彼女は隣にいる。


誰かに決められた運命ではなく、自分自身の意志で。


だからこそ、今度は自分の言葉で、彼女に伝えたかった。


王子としてではなく。

彼女を守る者としてだけでもなく。

ただ、一人の男として。


彼女と生きていきたいのだと。



朝食を終えた二人は、宿を出て海沿いの道を歩いた。


港では漁師たちが網を整え、市場には新鮮な魚や貝が並び始めていた。


遠くから聞こえる船乗りたちの声と、波が岸壁に打ち寄せる音。


エレナはその一つひとつを楽しそうに眺めていた。


「見てください、ルシアン様。あのお店、貝殻を使った装飾品を売っているみたいです」


「昨日も似たようなお店を見ていなかったかい?」


「見ました。でも、昨日のお店とは模様が違います」


「なるほど。これは失礼した」


「ふふっ。旅先では、同じものでも少しずつ違うのですよ」


「君と旅をすると、世界の見方まで変わるな」


「それは褒めてくださっているのですか?」


「もちろん」


ルシアンは真剣な顔で答えた。


「君が立ち止まる場所には、僕が見落としていたものがある。君が美しいと思うものを知るたび、僕の世界も少しずつ広がっていくんだ」


不意打ちのような言葉に、エレナは足を止めた。


「……そんなふうに言われると、困ってしまいます」


「どうして?」


「嬉しくなって、ずっとあなたの隣を歩きたくなってしまうからです」


口にしてから、自分がどれほど大胆なことを言ったのかに気づいた。


エレナは慌てて顔を伏せる。


「い、今のは……」


「取り消さないでほしい」


ルシアンの声は、いつもより少し低かった。


「僕も、君にそう思ってほしいから」


彼は彼女の手を握り直した。


「これから先、何年経っても。何度旅をしても。僕の隣を歩きたいと思ってもらえるような人間でいたい」


エレナは顔を上げた。


彼の瞳には、ふざけた様子など少しもなかった。


「……はい。私も、そうありたいです」


二人は手をつないだまま、再び歩き始めた。



町の外れにある小さな庭園は、緩やかな丘の上に造られていた。


石畳の道を抜けると、色とりどりの花々が出迎えてくれる。


海から吹く風が花びらを揺らし、その向こうには青い海が広がっていた。


昨日の灯台よりも低い場所にあるため、港町の屋根や船の帆も一望できる。


「わあ……!」


エレナは思わず声を上げた。


「素敵です。町も海も、全部見えますね」


「気に入ってくれた?」


「はい。こんな場所があったなんて知りませんでした」


彼女は庭園の柵に近づき、遠くの船を眺めた。


小さな船が一隻、港を離れて沖へ進んでいく。


その姿を見つめながら、エレナは胸の前で手を重ねた。


「私たちも、あの船のように進んでいくのでしょうね」


「僕たちも?」


「はい。これから先、きっと予想もしなかったことがあると思います。楽しいことばかりではないかもしれません。知らない土地で困ったり、意見が食い違ったりすることだってあるでしょう」


「そうだね」


「それでも……あなたとなら、話し合いながら進んでいけると思うのです」


ルシアンは黙って彼女の言葉を聞いていた。


「以前の私は、未来がわかれば安心できると思っていました。何が起こるのか、誰と出会うのか。どこへ向かえば幸せになれるのか。それを知ることができたら、間違えずに済むのだと」


エレナは、穏やかな表情で海を見つめた。


「でも、今は違います。先がわからないからこそ、自分で選ぶ意味があるのだと思います。誰かを好きになることも、一緒に生きたいと願うことも」


そして、彼女はルシアンに向き直った。


「だから私は、これからもあなたを選びたいです。昨日だけではなく、今日だけでもなく。その先の未来でも」


ルシアンの瞳が、わずかに揺れた。


「……エレナ」


「もちろん、あなたにもあなたの望む未来があると思います。私はそれを知りたいですし、あなたが望むことを一緒に考えていきたいのです」


「君は、本当に……」


彼は一度言葉を切り、深く息を吸った。


「僕が何よりも欲しかった言葉を、くれるんだね」


「え……?」


「昔の僕は、君と再会できることだけを願っていた。もう一度会えたら、それだけで十分だと思っていたんだ」


ルシアンは、彼女の両手を優しく包んだ。


「けれど、君と一緒に過ごすうちに、願いが増えてしまった」


「願い、ですか?」


「君と朝食を食べたい。君と町を歩きたい。君が見つけたものを教えてほしい。疲れた日には、君の隣で休みたい。君が書いた物語を読みたいし、君が見たい景色を一緒に見たい」


彼は少しだけ笑った。


「挙げ始めたら、きりがないね」


エレナの目に、少しずつ涙が浮かんでいく。


「そして、いつか旅から帰ったときに、ここが僕たちの帰る場所だと思えるようになりたい。何年先でも、君が僕の隣にいてくれたらいいと……そう願うようになったんだ」


「ルシアン様……」


「君と過ごす未来を、僕はもっと欲張って望みたい」


彼は彼女の額にそっと口づけた。


「君と一緒に年を重ねたい。嬉しいことも、悲しいことも分け合いたい。君が夢を追いかけるなら、僕も隣で自分の夢を見つけたい」


そして、彼はまっすぐに彼女を見つめた。


「君の自由を奪わずに、君の人生の一部になりたいんだ」


エレナの頬を、一筋の涙が伝った。


「……ずるいです」


「え?」


「そんなことを言われたら、もっと好きになってしまいます」


ルシアンは驚いたように目を見開き、それから、今まで見たことがないほど優しい笑みを浮かべた。


「それなら、もっと好きになってもらえるように努力しないといけないね」


「もう十分です……」


「本当に?」


「……本当です」


エレナは彼の胸元に顔を寄せた。


ルシアンは彼女を抱きしめ、その背中をゆっくりと撫でた。


海から吹く風が、二人の髪を揺らしていく。


しばらくして、エレナは彼の胸元から顔を上げた。


「ルシアン様。私、あなたと一緒に帰りたいです」


「うん」


「この旅が終わったあとも。新しい物語を書き始めたときも。読書室の子どもたちに、旅の話をするときも」


彼女は涙を拭いながら微笑んだ。


「そして、また新しい場所へ旅立つときも。あなたと一緒にいたいです」


「僕もだよ」


「……本当に?」


「何度でも答えるよ。僕も、君と一緒にいたい」


ルシアンは彼女の手を取り、その指先にそっと口づけた。


エレナの顔が真っ赤になる。


「ル、ルシアン様……!」


「嫌だった?」


「嫌なわけありません!」


思わず声を大きくしてしまい、エレナは恥ずかしさに俯いた。


ルシアンは小さく笑った。


「よかった」


「もう……。そういうところ、本当に……」


「本当に?」


「……好きです」


その一言を聞いた瞬間、ルシアンの表情から笑みが消えた。


代わりに、胸の奥にしまっていた感情が、深い青の瞳に溢れ出す。


「僕も、君が好きだよ。エレナ」


彼は彼女を抱き寄せた。


「君に出会えたことを、奇跡だと思っている。でも、これから君と一緒に生きていくことは、奇跡に任せたりしない」


エレナは彼を見上げた。


「僕自身の意志で、君を選び続ける。君が僕を選んでくれる限り、何度でも」


彼女は微笑み、彼の手を強く握った。


「はい。私も、あなたを選び続けます」


その約束は、誰かに与えられたものではない。


二人が、自分たちの意志で交わした約束だった。



庭園を後にした二人は、町の小さな工房に立ち寄った。


昨日、市場で買った波模様のしおりと同じように、旅の思い出になる品を探していたのだ。


店内には木製の小箱や装飾品、手作りの文房具が並んでいる。


「こちらはいかがでしょう?」


店主が差し出したのは、青い木材に銀色の細い線を刻んだ、小さな栞だった。


波の模様の端に、星が一つ描かれている。


エレナは目を輝かせた。


「きれい……」


「君の好きそうな模様だと思ったんだ」


ルシアンが言う。


「私の?」


「青い色も、星の模様も。君の旅の日記帳に似合いそうだろう?」


エレナは栞を手に取り、指先で星の刻印をなぞった。


「……はい。とても素敵です」


「なら、これを二ついただこう」


「二つ、ですか?」


「僕の日記にも使いたいからね」


ルシアンは店主に代金を支払い、受け取った二つの栞のうち、一つをエレナに差し出した。


「これから書く旅の記録に使おう。同じ景色を見ても、僕たちが書く言葉は違うかもしれない。それでも、二人で残した記録なら、いつか読み返したときにもっと楽しいと思うんだ」


エレナは栞を胸元に抱いた。


「大切にします」


「僕もだよ」


店を出た二人は、宿へ戻る道をゆっくりと歩いた。


エレナは、ふとルシアンの横顔を見つめた。


彼と出会った頃、彼女は彼の背後に伸びる金色の糸を見た。


それが二人の運命を示すものなのだと、長い間思っていた。


けれど、今はもう、そんなものがなくてもわかる。


彼が自分の手を取ってくれること。

自分が彼の手を握り返すこと。

二人で立ち止まり、話し合い、また歩き出すこと。


その一つひとつが、二人の未来を作っている。


「ルシアン様」


「どうしたの?」


「帰ったら、また新しい物語を書こうと思います」


「楽しみだな。今度はどんな物語?」


「まだ決めていません。でも、きっと旅の途中で思いつくと思います」


「それなら、僕も一緒に考えよう」


「はい。でも、私の物語ですから、結末は私が決めますよ?」


「もちろん。僕は読者第一号になれれば十分だ」


「ふふっ。それなら、特等席をご用意しますね」


二人は笑い合った。


夕暮れが近づく頃、宿の窓辺には、柔らかな橙色の光が差し込んでいた。


エレナは机に向かい、青い革表紙の日記帳を開いた。


今日の出来事を書き留めたあと、最後に少しだけ考え、ペンを走らせる。


『未来がわからなくても、怖くない。


隣にいるあなたと、何度でも話し合い、何度でも選び直せるから。


私が望むのは、永遠に変わらない約束ではない。


変わっていく世界の中で、あなたと一緒に変わりながら、それでも互いを選び続けること。


その未来を、私は心から望んでいる』


書き終えたエレナは、窓の外に目を向けた。


海の向こうには、まだ見ぬ世界が広がっている。


そのすべてを知ることはできないだろう。


それでも、もう迷わない。


彼女には、自分で選び取った未来がある。


そして、その未来を一緒に歩きたいと願う人がいる。


扉の向こうから、ルシアンの声が聞こえた。


「エレナ、明日の出発について相談したいんだけど、今いいかな?」


「はい、すぐ行きます!」


エレナは日記帳を閉じ、立ち上がった。


明日、二人はこの町を離れる。


けれど、それは別れではない。


次の景色へ向かうための、新しい一歩だ。


扉を開けると、ルシアンが手を差し出していた。


エレナはその手を取った。


「行きましょう、ルシアン様」


「ああ。一緒に」


二人は並んで歩き出す。


まだ知らない景色へ。

まだ書かれていない物語へ。

そして、自分たちで選び続ける未来へ。


その道の先に何が待っているのか、今は誰にもわからない。


それでも二人は、確かな想いを胸に、一歩ずつ進んでいくのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。