↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
121/130

旅立つ前に、あなたへ伝えたいこと

朝の光が差し込む部屋で、エレナ・ヴァレンティアは青いノートを開いていた。


海辺の町への旅立ちが近づき、準備はほとんど整っている。


訪れたい場所も、読書室を留守にする間の手配も、必要な荷物も、少しずつ確認を終えていた。


それなのに、エレナの心には、まだ一つだけ整理できていないことがあった。


「……伝えたいこと、か」


昨夜、ルシアンと未来について話したとき、彼は旅が終わったあとも一緒に歩いていきたいと言ってくれた。


その言葉は、今も胸の中で温かく残っている。


自分も同じ気持ちだと伝えられたことが嬉しかった。


けれど、彼と過ごしてきた時間を思い返すと、伝えたいことはそれだけではないと気づく。


初めて彼に出会った日のこと。

彼の過去を知り、共に困難を乗り越えたこと。

二人で未来を選ぶと決めたこと。


その一つ一つが、今の自分を作っている。


「……旅に出る前に、きちんと伝えたいわ」


エレナはノートを閉じた。


完璧な言葉を探す必要はない。


ミレイユが教えてくれたように、自分の気持ちを、そのまま伝えればいいのだ。


そう考えると、少しだけ勇気が湧いてきた。


***


午後、エレナは読書室へ向かった。


旅立つ前に、子どもたちへ改めて挨拶をしておこうと思ったのだ。


扉を開けると、いつもと変わらない賑やかな声が聞こえてきた。


「エレナお姉ちゃん!」


少年が駆け寄ってくる。


「もうすぐ海に行くんだよね?」


「ええ。準備が整えば、出発できると思うわ」


「いいなあ! 海って、どんな色をしているの?」


「そうね……晴れた日には青く見えることが多いけれど、夕方には違う色になるかもしれないわ」


「じゃあ、朝と昼と夜で、全部調べてきて!」


「ふふっ。ずいぶんたくさんの宿題ね」


「だって、エレナお姉ちゃんは旅の調査員なんでしょう?」


いつの間にか、エレナは子どもたちの間でそう呼ばれていたらしい。


彼女は思わず笑ってしまった。


「それなら、調査員として、できるだけたくさん見てくるわね」


「約束だよ!」


「約束よ」


小さな指を絡め合ったあと、エレナは子どもたちが作った地図の前に立った。


雲の上の町から海へ続く道。


お菓子の森。

船が行き交う港。

そして、海の向こうに浮かぶ、まだ誰も知らない島。


地図の端には、王冠を外した足の長い鳥が描かれている。


「この鳥さん、旅に出るんだよ!」


少年が説明してくれた。


「王様のお仕事をやめて、自由に空を飛ぶことにしたんだ!」


「そうだったわね」


「それで、帰ってきたら、見つけた景色をみんなに教えてくれるの!」


エレナはその絵を見つめ、優しく微笑んだ。


「素敵ね。鳥さんが帰ってくるのが楽しみだわ」


「うん! だから、エレナお姉ちゃんも、絶対に帰ってきてね!」


その言葉に、エレナは一瞬だけ目を見開いた。


そして、少年の目線に合わせるように膝を曲げた。


「もちろんよ。私には、帰ってきたい場所があるもの」


「ここ?」


「ええ。ここも、大切な帰る場所の一つよ」


少年は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、帰ってきたら、また新しい物語を作ろうね!」


「ええ。今度は、旅で見つけたものも物語に入れましょう」


「やったあ!」


子どもたちの歓声が、読書室いっぱいに広がった。


その様子を見守っていたマルタが、エレナのそばへやってきた。


「皆さん、本当にあなたのお話を楽しみにしているんですね」


「はい。私も、帰ってきて皆さんに話せるのが楽しみです」


「留守の間は、どうぞ心配なさらずに。ここは私たちが守りますから」


エレナは深く頭を下げた。


「ありがとうございます。皆さんを信頼しています」


それは、以前の自分なら簡単には口にできなかった言葉かもしれない。


何かを大切に思うほど、自分で守らなければと考えてしまうことがあった。


けれど今は違う。


信頼できる人たちと力を合わせることで、自分一人では守れないものも守っていける。


そのことを、エレナはこの場所で学んだのだった。


***


読書室を出たあと、エレナは庭園でミレイユ・ローゼンと待ち合わせていた。


「お待たせ、ミレイユ」


「ちょうど今来たところよ」


ミレイユはそう答えたものの、どこか落ち着かない様子だった。


「……実はね、私も今日、カイルに話をしようと思っているの」


エレナは微笑んだ。


「自分の気持ちを伝えるのね?」


「ええ。まだ、全部を整理できているわけじゃないけれど……このまま何も言わずにいるのは嫌なの」


ミレイユは胸元で手を組んだ。


「カイルが私をどう思っているのか、気になっているのは確かよ。でも、それだけじゃないの」


「それだけじゃない?」


「私があの人のことを、どう思っているのか。ちゃんと自分の言葉で伝えたいのよ」


その声には、いつもの冗談めいた明るさとは違う、真剣な響きがあった。


「一緒にいると腹が立つこともあるし、何を考えているのか分からなくて困ることもあるわ。でも……あの人が私の話を覚えていてくれたり、何も言わずに助けてくれたりすると、すごく嬉しいの」


ミレイユは少しだけ頬を染めた。


「だから、もっと一緒に話したい。もっとあの人のことを知りたい。そう思っているの」


エレナは彼女の手をそっと握った。


「それなら、きっと伝わるわ」


「……そうだといいのだけれど」


「ミレイユは、私にいつも勇気をくれたでしょう?」


「私が?」


「ええ。私が迷ったときも、落ち込んだときも、あなたは隣にいてくれたわ。だから今度は、私があなたの背中を押す番よ」


ミレイユは驚いたように瞬きをした。


それから、いつもの明るい笑顔を浮かべた。


「ありがとう、エレナ。……よし、決めたわ!」


彼女は勢いよく立ち上がった。


「今日こそ、ちゃんと話してくる!」


「応援しているわ」


「うん! ……でも、もし途中で恥ずかしくなったら、あなたの名前を思い出して頑張ることにするわ」


「私の名前?」


「そうよ。あなたがルシアン殿下に伝えたいことを、きちんと伝えようとしているんだもの。私だけ逃げるわけにはいかないでしょう?」


エレナは頬を赤くした。


「……私のことまで持ち出さないで」


「お互い様よ!」


二人は顔を見合わせて笑った。


やがて、ミレイユは歩き出した。


その背中を見送りながら、エレナも心を決めた。


自分も、もう逃げずに伝えよう。


ルシアンに、ずっと伝えたかったことを。


***


夕方、王宮の中庭で、エレナはルシアンを見つけた。


彼は騎士たちとの打ち合わせを終えたところらしく、書類を手に歩いていた。


「ルシアン」


呼びかけると、彼はすぐに振り返った。


「エレナ。どうしたんだい?」


「少しだけ、時間をもらえるかしら?」


「もちろん」


二人は人通りの少ない庭園の奥へ向かった。


花壇の向こうには、夕日に照らされた噴水が静かに水を流している。


エレナは立ち止まり、彼を見上げた。


「……旅に出る前に、あなたに伝えておきたいことがあるの」


ルシアンは、彼女の表情を見て静かに頷いた。


「聞かせてほしい」


エレナは一度深呼吸した。


何を言うべきか、何度も考えた。


けれど、いざ目の前に立つと、言葉が胸の奥で絡まってしまう。


それでも、今度こそ伝えたかった。


「あなたと出会ってから、私はたくさんのことを知ったわ」


ルシアンは黙って耳を傾けている。


「誰かを大切に思うこと。自分の気持ちを信じること。そして、未来は誰かに決めてもらうものではなく、自分で選んでいけるものだということ」


エレナは、彼の手を取った。


「あなたは、いつも私の選択を尊重してくれた。私が迷ったときも、答えを押しつけずに、一緒に考えてくれたわ」


「エレナ……」


「だから、私はあなたの隣にいたいと思ったの。あなたに守ってもらうためだけでも、あなたを支えるためだけでもなくて……あなたと一緒に、これからの人生を歩んでいきたいの」


声が少し震えた。


それでも、彼女は目をそらさなかった。


「嬉しいことも、悲しいことも、迷うことも。これから先に何があっても、二人で話し合って、二人で選んでいきたい」


エレナは小さく微笑んだ。


「……あなたと一緒なら、まだ知らない未来を楽しみにできるの」


その言葉を聞いた瞬間、ルシアンの表情が揺れた。


彼はしばらく何も言わず、繋いだ手を見つめていた。


やがて、ゆっくりと顔を上げた。


「……ありがとう、エレナ」


その声は、かすかに震えていた。


「君が僕にそう言ってくれることが、どれほど嬉しいか……きっと、今の僕にはうまく伝えられない」


彼は彼女の手を両手で包み込んだ。


「僕はずっと、君に自由に未来を選んでほしいと思っていた。僕と一緒にいることさえ、君自身が望んでくれなければ意味がないから」


深い青色の瞳が、まっすぐに彼女を見つめる。


「でも今、君は自分の意思で、僕の隣を歩きたいと言ってくれた」


ルシアンは、少しだけ笑った。


「それ以上に嬉しいことはないよ」


エレナの目に、温かな涙が浮かんだ。


「……私、本当にあなたと出会えてよかった」


「僕もだよ」


彼は彼女の手をそっと持ち上げた。


「エレナ。これから先も、君と一緒に歩いていきたい。君が新しい夢を見つけるたび、僕も自分の願いを伝えていく。そして、二人で選んだ道を、一緒に進んでいこう」


「ええ……!」


ルシアンは彼女を優しく抱きしめた。


エレナも彼の背中に腕を回す。


その温もりの中で、彼女はようやく、自分の気持ちをすべて伝えられたような気がした。


過去に何があったとしても。


どんな出会いが二人をここへ導いたとしても。


今、この瞬間に手を取り合っているのは、二人自身の意思だった。


そして、これから先もそうありたいと願っている。


それが、二人の選んだ未来だった。


***


夜、エレナは自室に戻ると、青いノートを開いた。


旅立ちの準備は、ほとんど終わっている。


けれど、今日の出来事は、どんな荷物よりも大切なものとして心に残っていた。


彼女は新しいページに、ゆっくりと文字を綴った。


『旅に出る前に、あなたに伝えたかったこと。


私は、あなたと一緒に生きていきたい。


あなたが私の未来を決めるのではなく、私があなたの未来を決めるのでもなく。


二人で話して、二人で選び、二人で歩いていきたい。


そして、いつか今日のことを振り返ったとき、あの日、自分の気持ちを伝えてよかったと笑えるように』


書き終えたエレナは、ペンを置いた。


窓の外には、穏やかな夜空が広がっている。


もうすぐ、海辺の町へ旅立つ。


その先に何が待っているのかは、まだ分からない。


けれど、今の彼女には、確かな願いがあった。


これからもルシアンと共に、知らない景色を見つけていくこと。


そして、いつか二人の歩いてきた道を振り返ったとき、迷いながらも自分たちで選んできた日々を、誇りに思えるようになること。


エレナはノートを閉じ、胸元にそっと抱いた。


旅立ちの日は、もうすぐそこまで来ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。