旅立つ前に、あなたへ伝えたいこと
朝の光が差し込む部屋で、エレナ・ヴァレンティアは青いノートを開いていた。
海辺の町への旅立ちが近づき、準備はほとんど整っている。
訪れたい場所も、読書室を留守にする間の手配も、必要な荷物も、少しずつ確認を終えていた。
それなのに、エレナの心には、まだ一つだけ整理できていないことがあった。
「……伝えたいこと、か」
昨夜、ルシアンと未来について話したとき、彼は旅が終わったあとも一緒に歩いていきたいと言ってくれた。
その言葉は、今も胸の中で温かく残っている。
自分も同じ気持ちだと伝えられたことが嬉しかった。
けれど、彼と過ごしてきた時間を思い返すと、伝えたいことはそれだけではないと気づく。
初めて彼に出会った日のこと。
彼の過去を知り、共に困難を乗り越えたこと。
二人で未来を選ぶと決めたこと。
その一つ一つが、今の自分を作っている。
「……旅に出る前に、きちんと伝えたいわ」
エレナはノートを閉じた。
完璧な言葉を探す必要はない。
ミレイユが教えてくれたように、自分の気持ちを、そのまま伝えればいいのだ。
そう考えると、少しだけ勇気が湧いてきた。
***
午後、エレナは読書室へ向かった。
旅立つ前に、子どもたちへ改めて挨拶をしておこうと思ったのだ。
扉を開けると、いつもと変わらない賑やかな声が聞こえてきた。
「エレナお姉ちゃん!」
少年が駆け寄ってくる。
「もうすぐ海に行くんだよね?」
「ええ。準備が整えば、出発できると思うわ」
「いいなあ! 海って、どんな色をしているの?」
「そうね……晴れた日には青く見えることが多いけれど、夕方には違う色になるかもしれないわ」
「じゃあ、朝と昼と夜で、全部調べてきて!」
「ふふっ。ずいぶんたくさんの宿題ね」
「だって、エレナお姉ちゃんは旅の調査員なんでしょう?」
いつの間にか、エレナは子どもたちの間でそう呼ばれていたらしい。
彼女は思わず笑ってしまった。
「それなら、調査員として、できるだけたくさん見てくるわね」
「約束だよ!」
「約束よ」
小さな指を絡め合ったあと、エレナは子どもたちが作った地図の前に立った。
雲の上の町から海へ続く道。
お菓子の森。
船が行き交う港。
そして、海の向こうに浮かぶ、まだ誰も知らない島。
地図の端には、王冠を外した足の長い鳥が描かれている。
「この鳥さん、旅に出るんだよ!」
少年が説明してくれた。
「王様のお仕事をやめて、自由に空を飛ぶことにしたんだ!」
「そうだったわね」
「それで、帰ってきたら、見つけた景色をみんなに教えてくれるの!」
エレナはその絵を見つめ、優しく微笑んだ。
「素敵ね。鳥さんが帰ってくるのが楽しみだわ」
「うん! だから、エレナお姉ちゃんも、絶対に帰ってきてね!」
その言葉に、エレナは一瞬だけ目を見開いた。
そして、少年の目線に合わせるように膝を曲げた。
「もちろんよ。私には、帰ってきたい場所があるもの」
「ここ?」
「ええ。ここも、大切な帰る場所の一つよ」
少年は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、帰ってきたら、また新しい物語を作ろうね!」
「ええ。今度は、旅で見つけたものも物語に入れましょう」
「やったあ!」
子どもたちの歓声が、読書室いっぱいに広がった。
その様子を見守っていたマルタが、エレナのそばへやってきた。
「皆さん、本当にあなたのお話を楽しみにしているんですね」
「はい。私も、帰ってきて皆さんに話せるのが楽しみです」
「留守の間は、どうぞ心配なさらずに。ここは私たちが守りますから」
エレナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。皆さんを信頼しています」
それは、以前の自分なら簡単には口にできなかった言葉かもしれない。
何かを大切に思うほど、自分で守らなければと考えてしまうことがあった。
けれど今は違う。
信頼できる人たちと力を合わせることで、自分一人では守れないものも守っていける。
そのことを、エレナはこの場所で学んだのだった。
***
読書室を出たあと、エレナは庭園でミレイユ・ローゼンと待ち合わせていた。
「お待たせ、ミレイユ」
「ちょうど今来たところよ」
ミレイユはそう答えたものの、どこか落ち着かない様子だった。
「……実はね、私も今日、カイルに話をしようと思っているの」
エレナは微笑んだ。
「自分の気持ちを伝えるのね?」
「ええ。まだ、全部を整理できているわけじゃないけれど……このまま何も言わずにいるのは嫌なの」
ミレイユは胸元で手を組んだ。
「カイルが私をどう思っているのか、気になっているのは確かよ。でも、それだけじゃないの」
「それだけじゃない?」
「私があの人のことを、どう思っているのか。ちゃんと自分の言葉で伝えたいのよ」
その声には、いつもの冗談めいた明るさとは違う、真剣な響きがあった。
「一緒にいると腹が立つこともあるし、何を考えているのか分からなくて困ることもあるわ。でも……あの人が私の話を覚えていてくれたり、何も言わずに助けてくれたりすると、すごく嬉しいの」
ミレイユは少しだけ頬を染めた。
「だから、もっと一緒に話したい。もっとあの人のことを知りたい。そう思っているの」
エレナは彼女の手をそっと握った。
「それなら、きっと伝わるわ」
「……そうだといいのだけれど」
「ミレイユは、私にいつも勇気をくれたでしょう?」
「私が?」
「ええ。私が迷ったときも、落ち込んだときも、あなたは隣にいてくれたわ。だから今度は、私があなたの背中を押す番よ」
ミレイユは驚いたように瞬きをした。
それから、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「ありがとう、エレナ。……よし、決めたわ!」
彼女は勢いよく立ち上がった。
「今日こそ、ちゃんと話してくる!」
「応援しているわ」
「うん! ……でも、もし途中で恥ずかしくなったら、あなたの名前を思い出して頑張ることにするわ」
「私の名前?」
「そうよ。あなたがルシアン殿下に伝えたいことを、きちんと伝えようとしているんだもの。私だけ逃げるわけにはいかないでしょう?」
エレナは頬を赤くした。
「……私のことまで持ち出さないで」
「お互い様よ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、ミレイユは歩き出した。
その背中を見送りながら、エレナも心を決めた。
自分も、もう逃げずに伝えよう。
ルシアンに、ずっと伝えたかったことを。
***
夕方、王宮の中庭で、エレナはルシアンを見つけた。
彼は騎士たちとの打ち合わせを終えたところらしく、書類を手に歩いていた。
「ルシアン」
呼びかけると、彼はすぐに振り返った。
「エレナ。どうしたんだい?」
「少しだけ、時間をもらえるかしら?」
「もちろん」
二人は人通りの少ない庭園の奥へ向かった。
花壇の向こうには、夕日に照らされた噴水が静かに水を流している。
エレナは立ち止まり、彼を見上げた。
「……旅に出る前に、あなたに伝えておきたいことがあるの」
ルシアンは、彼女の表情を見て静かに頷いた。
「聞かせてほしい」
エレナは一度深呼吸した。
何を言うべきか、何度も考えた。
けれど、いざ目の前に立つと、言葉が胸の奥で絡まってしまう。
それでも、今度こそ伝えたかった。
「あなたと出会ってから、私はたくさんのことを知ったわ」
ルシアンは黙って耳を傾けている。
「誰かを大切に思うこと。自分の気持ちを信じること。そして、未来は誰かに決めてもらうものではなく、自分で選んでいけるものだということ」
エレナは、彼の手を取った。
「あなたは、いつも私の選択を尊重してくれた。私が迷ったときも、答えを押しつけずに、一緒に考えてくれたわ」
「エレナ……」
「だから、私はあなたの隣にいたいと思ったの。あなたに守ってもらうためだけでも、あなたを支えるためだけでもなくて……あなたと一緒に、これからの人生を歩んでいきたいの」
声が少し震えた。
それでも、彼女は目をそらさなかった。
「嬉しいことも、悲しいことも、迷うことも。これから先に何があっても、二人で話し合って、二人で選んでいきたい」
エレナは小さく微笑んだ。
「……あなたと一緒なら、まだ知らない未来を楽しみにできるの」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアンの表情が揺れた。
彼はしばらく何も言わず、繋いだ手を見つめていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう、エレナ」
その声は、かすかに震えていた。
「君が僕にそう言ってくれることが、どれほど嬉しいか……きっと、今の僕にはうまく伝えられない」
彼は彼女の手を両手で包み込んだ。
「僕はずっと、君に自由に未来を選んでほしいと思っていた。僕と一緒にいることさえ、君自身が望んでくれなければ意味がないから」
深い青色の瞳が、まっすぐに彼女を見つめる。
「でも今、君は自分の意思で、僕の隣を歩きたいと言ってくれた」
ルシアンは、少しだけ笑った。
「それ以上に嬉しいことはないよ」
エレナの目に、温かな涙が浮かんだ。
「……私、本当にあなたと出会えてよかった」
「僕もだよ」
彼は彼女の手をそっと持ち上げた。
「エレナ。これから先も、君と一緒に歩いていきたい。君が新しい夢を見つけるたび、僕も自分の願いを伝えていく。そして、二人で選んだ道を、一緒に進んでいこう」
「ええ……!」
ルシアンは彼女を優しく抱きしめた。
エレナも彼の背中に腕を回す。
その温もりの中で、彼女はようやく、自分の気持ちをすべて伝えられたような気がした。
過去に何があったとしても。
どんな出会いが二人をここへ導いたとしても。
今、この瞬間に手を取り合っているのは、二人自身の意思だった。
そして、これから先もそうありたいと願っている。
それが、二人の選んだ未来だった。
***
夜、エレナは自室に戻ると、青いノートを開いた。
旅立ちの準備は、ほとんど終わっている。
けれど、今日の出来事は、どんな荷物よりも大切なものとして心に残っていた。
彼女は新しいページに、ゆっくりと文字を綴った。
『旅に出る前に、あなたに伝えたかったこと。
私は、あなたと一緒に生きていきたい。
あなたが私の未来を決めるのではなく、私があなたの未来を決めるのでもなく。
二人で話して、二人で選び、二人で歩いていきたい。
そして、いつか今日のことを振り返ったとき、あの日、自分の気持ちを伝えてよかったと笑えるように』
書き終えたエレナは、ペンを置いた。
窓の外には、穏やかな夜空が広がっている。
もうすぐ、海辺の町へ旅立つ。
その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、今の彼女には、確かな願いがあった。
これからもルシアンと共に、知らない景色を見つけていくこと。
そして、いつか二人の歩いてきた道を振り返ったとき、迷いながらも自分たちで選んできた日々を、誇りに思えるようになること。
エレナはノートを閉じ、胸元にそっと抱いた。
旅立ちの日は、もうすぐそこまで来ていた。




