↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
120/122

君と選びたい、これからの人生

海辺の町への旅行が、いよいよ具体的な形になり始めていた。


ルシアン・アストレアの休暇の日程が調整され、出発できる日が見えてきたのだ。


エレナ・ヴァレンティアは、青いノートを開きながら、何度目か分からない旅の計画を確認していた。


港の市場。

旅人たちの記録を保管する資料館。

海を一望できる古い灯台。


そして、二人で書き込む旅の記録。


「……これなら、忘れ物もなさそうね」


満足げに頷いたエレナの隣で、ルシアンが小さく笑った。


「本当にそうかな?」


「えっ? 何か足りないものがあるの?」


「一つだけ」


彼は少し考えるような仕草をしたあと、彼女の顔を覗き込んだ。


「君が旅先で見つけたものを、誰よりも先に僕に教えてくれること」


「……それは、持ち物の話ではないでしょう?」


「そうだね。でも、僕にとっては大切なことだから」


あまりにも自然に言われて、エレナは頬を染めた。


「もう……。あなたは最近、以前よりもずっと大胆になったわね」


「君が素直に喜んでくれるから、つい」


「それなら、私も一つお願いしていいかしら?」


「もちろん」


エレナはノートを閉じ、彼をまっすぐに見つめた。


「旅先では、あなたが見つけたものも、私に一番に教えてほしいの。あなたが何を美しいと思うのか、何を心に残したいと思うのか……もっと知りたいから」


ルシアンの表情が、ゆっくりと柔らかくなった。


「約束するよ」


彼は彼女の手を取った。


「君に見せたい景色が、これからもっと増えるといいね」


「ええ。私も、あなたと一緒に見たい景色を、もっと増やしたいわ」


二人は微笑み合った。


旅立つ前から、二人の間には新しい約束が増えていく。


それは大げさな誓いではない。


けれど、これから長い時間を共に歩んでいくための、小さくて確かな約束だった。


***


その日の午後、エレナは読書室で子どもたちに旅の予定を伝えた。


「もうすぐ、ルシアン様と海辺の町へ出かけることになったの」


「本当!?」


少年が勢いよく立ち上がった。


「海って、すっごく大きいんだよね?」


「ええ。私も、実際に見るのは久しぶりなの」


「じゃあ、海の向こうには何があるか、調べてきて!」


少女が大きな紙を持ってきた。


そこには、雲の上の町から海を越え、まだ誰も知らない島へ向かう物語の地図が描かれている。


「この島に、何があるのか知りたいの!」


「それなら、私が見つけたことを、帰ってきたらみんなに話すわね」


エレナが答えると、子どもたちは大喜びした。


「約束だよ!」


「ええ、約束」


エレナは微笑みながら頷いた。


その様子を見ていたマルタが、そっと近づいてきた。


「皆さん、エレナ様のお話を楽しみにしているようですね」


「はい。だからこそ、私もたくさんのものを見つけてきたいと思うんです」


「素敵なことです。ここを離れている間のことは、私たちに任せてください」


マルタの言葉に、エレナは安心したように息をついた。


読書室は、もう彼女一人で守る場所ではない。


子どもたちの笑顔を大切に思う人たちがいて、協力してくれる仲間がいる。


だからこそ、彼女は新しい一歩を踏み出せるのだ。


「ありがとうございます。皆さんがいてくださるから、安心して旅に出られます」


「戻ってきたら、旅のお話を聞かせてくださいね」


「もちろんです」


エレナは、子どもたちが作った地図をもう一度眺めた。


海の向こうにある島には、まだ何も決まっていない。


どんな花が咲いているのか。

どんな動物が暮らしているのか。

王冠をかぶった鳥は、そこで何を見つけるのか。


子どもたちの想像力は、どこまでも広がっていく。


そして、現実の世界にも、まだ彼女の知らないものがたくさんある。


それを自分の目で確かめられることが、今は何よりも楽しみだった。


***


読書室を出たエレナは、王宮の庭園でミレイユ・ローゼンと合流した。


「準備は順調?」


「ええ。読書室のことも、マルタさんたちにお願いできることになったわ」


「よかった! これで心置きなく旅行に行けるわね」


ミレイユは嬉しそうに笑った。


「ところで、旅先でルシアン殿下と何をするのか、もう決めたの?」


「市場を見たり、資料館へ行ったり、灯台から海を眺めたり……」


「そういう予定の話ではなくて!」


ミレイユが身を乗り出した。


「二人きりの時間に、何を話すのかって聞いているのよ!」


「何をって……普通にお話しすると思うけれど」


「もう! エレナったら!」


ミレイユは呆れたように額を押さえた。


「せっかくの旅行なんだから、いつもより少しだけ素直になってみたらどう?」


「私、いつも素直に話しているつもりなのだけれど……」


「それはそうだけど、もっと大切なことがあるでしょう?」


大切なこと。


その言葉に、エレナはふと口を閉じた。


ルシアンと一緒に未来を歩みたい。


これから先も、さまざまな景色を共に見つけていきたい。


その気持ちは、もう何度も自分の中で確かめてきた。


けれど、彼にそれをどこまで伝えられているだろう。


「……ミレイユ」


「何?」


「もし、大切な人に伝えたいことがあるのに、うまく言葉にできなかったら、どうすればいいと思う?」


ミレイユは少しだけ驚いたあと、柔らかく笑った。


「完璧な言葉を探すのをやめればいいんじゃない?」


「完璧な言葉?」


「そう。素敵な言葉で伝えようとするから、難しくなるのよ。自分が本当に思っていることを、そのまま話せばいいじゃない」


エレナは彼女の言葉を心の中で繰り返した。


「……本当に思っていることを、そのまま」


「ええ。少なくとも私は、そうするつもりよ」


「ミレイユも?」


ミレイユは一瞬だけ視線をそらした。


「……カイルに、ちゃんと話してみようと思っているの」


「自分の気持ちを?」


「まだ、全部分かっているわけじゃないけれどね。でも、あの人のことをもっと知りたいし、私のことも知ってほしい。だから、少しずつ話していくつもり」


その表情には、以前にはなかった真剣さがあった。


エレナは嬉しくなって、彼女の手をそっと握った。


「きっと、ミレイユなら大丈夫よ」


「ありがとう。……でも、もし失敗したら慰めてね?」


「もちろん」


「それから、うまくいったら一緒に喜んで!」


「ええ、もちろんよ」


二人は顔を見合わせ、笑った。


それぞれの歩み方は違う。


けれど、大切な人と向き合いたいという気持ちは、きっと同じだった。


***


夕暮れが近づいたころ、エレナは王宮の書庫を訪れた。


旅先の資料をもう一度確認するためだったが、目的の本を探している途中で、思いがけないものを見つけた。


古い航海日誌の隣に、一冊の旅行記が並んでいたのだ。


表紙には、遠い国の山々と海が描かれている。


エレナが手に取ると、背後から声がした。


「それが気になるのかい?」


振り返ると、ルシアンが立っていた。


「ええ。海辺の町について調べていたら、ほかの国の旅行記も気になってしまって」


「君らしいね」


「でも、今度の旅行の準備だけでも、まだ十分ではないのに……」


エレナは少し困ったように笑った。


ルシアンは彼女の手元の本を見て、静かに言った。


「今度の旅で、全部を見つける必要はないよ」


「え?」


「海辺の町を訪れて、灯台に登って、資料館を見て。それだけでも、きっとたくさんの思い出ができる。ほかの国へ行くのは、その次でもいいんだ」


「……その次?」


「そう。今回の旅が終わったら、次はどこへ行きたいか、また一緒に考えればいい」


エレナは彼を見つめた。


次の旅。


その言葉が、胸の奥にゆっくりと広がっていく。


一度きりの旅行ではなく、その先にも二人の時間が続いている。


彼は、当たり前のようにそう考えてくれているのだ。


「ルシアン……」


「どうしたの?」


エレナは、胸の中にある想いを確かめるように、ゆっくりと言葉を選んだ。


「私……これからも、あなたと一緒にいろいろな場所へ行きたいわ」


ルシアンの表情が変わった。


「海辺の町だけではなくて、山の町にも、遠い国にも。あなたが見たいと思っている場所も、私が見つけたいと思っている景色も、二人で少しずつ見つけていきたいの」


一度口にすると、言葉は自然に続いていった。


「そして、旅から帰ってきたら、また新しいことを始めたい。読書室の子どもたちに旅のお話をしたり、自分の物語を書いたり……そうやって、いろいろなことを積み重ねていきたいの」


エレナは少しだけ頬を染めた。


「だから……これから先も、あなたの隣を歩いていけたら嬉しいわ」


書庫の中に、静かな沈黙が落ちた。


ルシアンは、すぐには答えなかった。


ただ、彼女を見つめていた。


やがて彼は、ゆっくりと手を伸ばし、エレナの手を取った。


「……僕も、同じことを考えていたよ」


その声は、いつもより少しだけ低く、真剣だった。


「君と一緒に旅をしたい。君が新しい夢を見つけるたび、その話を聞きたい。君が迷ったときには、隣で一緒に考えたい」


彼は彼女の手を優しく握った。


「そして、旅が終わっても、その先の毎日を君と過ごしたい」


エレナの瞳が揺れた。


「ルシアン……」


「君が望む未来を、僕も一緒に選んでいきたいんだ。君の夢を僕のものにするのではなく、僕の望みを君に押しつけるのでもなく。二人で話して、二人で決めていきたい」


彼は微笑んだ。


「だから、これからも僕の隣にいてくれるかな?」


エレナは迷わず頷いた。


「ええ。私も、あなたの隣にいたいわ」


その答えを聞くと、ルシアンは安堵したように目を細めた。


そして、彼女の手の甲にそっと唇を寄せた。


エレナの頬が、一瞬で赤くなる。


「……ルシアン!」


「嫌だった?」


「そ、そういうことではなくて……!」


「なら、よかった」


彼は楽しそうに笑った。


エレナは恥ずかしさに俯いたものの、繋がれた手を離そうとはしなかった。


窓から差し込む夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしている。


かつて、彼らは幾度もの出会いと別れを経験してきた。


けれど、今ここにいる二人は、過去に決められた道を歩いているわけではない。


互いの気持ちを確かめ、自分たちの意思で、これからの人生を選ぼうとしている。


その事実が、エレナには何よりも大切だった。


***


その夜、エレナは青いノートを開いた。


旅の計画を書き留めたページをめくり、新しいページの最初に、今日の出来事を記した。


『未来のことを、あなたと話した。


まだ知らない景色も、これから始めたいことも、二人で少しずつ選んでいきたい。


そして、旅が終わったあとも、その先の毎日を一緒に歩いていきたい。


あなたがそう望んでくれたことが、嬉しかった』


そこまで書いて、エレナはペンを止めた。


本当は、もっと書きたいことがあった。


彼の言葉を聞いたとき、どれほど嬉しかったのか。


これから先も彼の隣にいたいと答えたとき、胸の奥がどれほど温かくなったのか。


けれど、今はまだ、すべてを言葉にすることができなかった。


エレナは小さく笑い、最後に一文だけ書き加えた。


『いつか、この気持ちをもっと上手に伝えられるようになりたい』


ノートを閉じると、彼女は窓の外を見つめた。


旅立ちの日は、もう遠くない。


海辺の町で、二人はどんな景色に出会うのだろう。


そして、その旅を終えたとき、どんな新しい願いが生まれるのだろう。


まだ答えは分からない。


それでも、エレナは不安を感じていなかった。


答えが分からないからこそ、二人で見つけていける。


その未来を、心から楽しみにしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。