君と選びたい、これからの人生
海辺の町への旅行が、いよいよ具体的な形になり始めていた。
ルシアン・アストレアの休暇の日程が調整され、出発できる日が見えてきたのだ。
エレナ・ヴァレンティアは、青いノートを開きながら、何度目か分からない旅の計画を確認していた。
港の市場。
旅人たちの記録を保管する資料館。
海を一望できる古い灯台。
そして、二人で書き込む旅の記録。
「……これなら、忘れ物もなさそうね」
満足げに頷いたエレナの隣で、ルシアンが小さく笑った。
「本当にそうかな?」
「えっ? 何か足りないものがあるの?」
「一つだけ」
彼は少し考えるような仕草をしたあと、彼女の顔を覗き込んだ。
「君が旅先で見つけたものを、誰よりも先に僕に教えてくれること」
「……それは、持ち物の話ではないでしょう?」
「そうだね。でも、僕にとっては大切なことだから」
あまりにも自然に言われて、エレナは頬を染めた。
「もう……。あなたは最近、以前よりもずっと大胆になったわね」
「君が素直に喜んでくれるから、つい」
「それなら、私も一つお願いしていいかしら?」
「もちろん」
エレナはノートを閉じ、彼をまっすぐに見つめた。
「旅先では、あなたが見つけたものも、私に一番に教えてほしいの。あなたが何を美しいと思うのか、何を心に残したいと思うのか……もっと知りたいから」
ルシアンの表情が、ゆっくりと柔らかくなった。
「約束するよ」
彼は彼女の手を取った。
「君に見せたい景色が、これからもっと増えるといいね」
「ええ。私も、あなたと一緒に見たい景色を、もっと増やしたいわ」
二人は微笑み合った。
旅立つ前から、二人の間には新しい約束が増えていく。
それは大げさな誓いではない。
けれど、これから長い時間を共に歩んでいくための、小さくて確かな約束だった。
***
その日の午後、エレナは読書室で子どもたちに旅の予定を伝えた。
「もうすぐ、ルシアン様と海辺の町へ出かけることになったの」
「本当!?」
少年が勢いよく立ち上がった。
「海って、すっごく大きいんだよね?」
「ええ。私も、実際に見るのは久しぶりなの」
「じゃあ、海の向こうには何があるか、調べてきて!」
少女が大きな紙を持ってきた。
そこには、雲の上の町から海を越え、まだ誰も知らない島へ向かう物語の地図が描かれている。
「この島に、何があるのか知りたいの!」
「それなら、私が見つけたことを、帰ってきたらみんなに話すわね」
エレナが答えると、子どもたちは大喜びした。
「約束だよ!」
「ええ、約束」
エレナは微笑みながら頷いた。
その様子を見ていたマルタが、そっと近づいてきた。
「皆さん、エレナ様のお話を楽しみにしているようですね」
「はい。だからこそ、私もたくさんのものを見つけてきたいと思うんです」
「素敵なことです。ここを離れている間のことは、私たちに任せてください」
マルタの言葉に、エレナは安心したように息をついた。
読書室は、もう彼女一人で守る場所ではない。
子どもたちの笑顔を大切に思う人たちがいて、協力してくれる仲間がいる。
だからこそ、彼女は新しい一歩を踏み出せるのだ。
「ありがとうございます。皆さんがいてくださるから、安心して旅に出られます」
「戻ってきたら、旅のお話を聞かせてくださいね」
「もちろんです」
エレナは、子どもたちが作った地図をもう一度眺めた。
海の向こうにある島には、まだ何も決まっていない。
どんな花が咲いているのか。
どんな動物が暮らしているのか。
王冠をかぶった鳥は、そこで何を見つけるのか。
子どもたちの想像力は、どこまでも広がっていく。
そして、現実の世界にも、まだ彼女の知らないものがたくさんある。
それを自分の目で確かめられることが、今は何よりも楽しみだった。
***
読書室を出たエレナは、王宮の庭園でミレイユ・ローゼンと合流した。
「準備は順調?」
「ええ。読書室のことも、マルタさんたちにお願いできることになったわ」
「よかった! これで心置きなく旅行に行けるわね」
ミレイユは嬉しそうに笑った。
「ところで、旅先でルシアン殿下と何をするのか、もう決めたの?」
「市場を見たり、資料館へ行ったり、灯台から海を眺めたり……」
「そういう予定の話ではなくて!」
ミレイユが身を乗り出した。
「二人きりの時間に、何を話すのかって聞いているのよ!」
「何をって……普通にお話しすると思うけれど」
「もう! エレナったら!」
ミレイユは呆れたように額を押さえた。
「せっかくの旅行なんだから、いつもより少しだけ素直になってみたらどう?」
「私、いつも素直に話しているつもりなのだけれど……」
「それはそうだけど、もっと大切なことがあるでしょう?」
大切なこと。
その言葉に、エレナはふと口を閉じた。
ルシアンと一緒に未来を歩みたい。
これから先も、さまざまな景色を共に見つけていきたい。
その気持ちは、もう何度も自分の中で確かめてきた。
けれど、彼にそれをどこまで伝えられているだろう。
「……ミレイユ」
「何?」
「もし、大切な人に伝えたいことがあるのに、うまく言葉にできなかったら、どうすればいいと思う?」
ミレイユは少しだけ驚いたあと、柔らかく笑った。
「完璧な言葉を探すのをやめればいいんじゃない?」
「完璧な言葉?」
「そう。素敵な言葉で伝えようとするから、難しくなるのよ。自分が本当に思っていることを、そのまま話せばいいじゃない」
エレナは彼女の言葉を心の中で繰り返した。
「……本当に思っていることを、そのまま」
「ええ。少なくとも私は、そうするつもりよ」
「ミレイユも?」
ミレイユは一瞬だけ視線をそらした。
「……カイルに、ちゃんと話してみようと思っているの」
「自分の気持ちを?」
「まだ、全部分かっているわけじゃないけれどね。でも、あの人のことをもっと知りたいし、私のことも知ってほしい。だから、少しずつ話していくつもり」
その表情には、以前にはなかった真剣さがあった。
エレナは嬉しくなって、彼女の手をそっと握った。
「きっと、ミレイユなら大丈夫よ」
「ありがとう。……でも、もし失敗したら慰めてね?」
「もちろん」
「それから、うまくいったら一緒に喜んで!」
「ええ、もちろんよ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
それぞれの歩み方は違う。
けれど、大切な人と向き合いたいという気持ちは、きっと同じだった。
***
夕暮れが近づいたころ、エレナは王宮の書庫を訪れた。
旅先の資料をもう一度確認するためだったが、目的の本を探している途中で、思いがけないものを見つけた。
古い航海日誌の隣に、一冊の旅行記が並んでいたのだ。
表紙には、遠い国の山々と海が描かれている。
エレナが手に取ると、背後から声がした。
「それが気になるのかい?」
振り返ると、ルシアンが立っていた。
「ええ。海辺の町について調べていたら、ほかの国の旅行記も気になってしまって」
「君らしいね」
「でも、今度の旅行の準備だけでも、まだ十分ではないのに……」
エレナは少し困ったように笑った。
ルシアンは彼女の手元の本を見て、静かに言った。
「今度の旅で、全部を見つける必要はないよ」
「え?」
「海辺の町を訪れて、灯台に登って、資料館を見て。それだけでも、きっとたくさんの思い出ができる。ほかの国へ行くのは、その次でもいいんだ」
「……その次?」
「そう。今回の旅が終わったら、次はどこへ行きたいか、また一緒に考えればいい」
エレナは彼を見つめた。
次の旅。
その言葉が、胸の奥にゆっくりと広がっていく。
一度きりの旅行ではなく、その先にも二人の時間が続いている。
彼は、当たり前のようにそう考えてくれているのだ。
「ルシアン……」
「どうしたの?」
エレナは、胸の中にある想いを確かめるように、ゆっくりと言葉を選んだ。
「私……これからも、あなたと一緒にいろいろな場所へ行きたいわ」
ルシアンの表情が変わった。
「海辺の町だけではなくて、山の町にも、遠い国にも。あなたが見たいと思っている場所も、私が見つけたいと思っている景色も、二人で少しずつ見つけていきたいの」
一度口にすると、言葉は自然に続いていった。
「そして、旅から帰ってきたら、また新しいことを始めたい。読書室の子どもたちに旅のお話をしたり、自分の物語を書いたり……そうやって、いろいろなことを積み重ねていきたいの」
エレナは少しだけ頬を染めた。
「だから……これから先も、あなたの隣を歩いていけたら嬉しいわ」
書庫の中に、静かな沈黙が落ちた。
ルシアンは、すぐには答えなかった。
ただ、彼女を見つめていた。
やがて彼は、ゆっくりと手を伸ばし、エレナの手を取った。
「……僕も、同じことを考えていたよ」
その声は、いつもより少しだけ低く、真剣だった。
「君と一緒に旅をしたい。君が新しい夢を見つけるたび、その話を聞きたい。君が迷ったときには、隣で一緒に考えたい」
彼は彼女の手を優しく握った。
「そして、旅が終わっても、その先の毎日を君と過ごしたい」
エレナの瞳が揺れた。
「ルシアン……」
「君が望む未来を、僕も一緒に選んでいきたいんだ。君の夢を僕のものにするのではなく、僕の望みを君に押しつけるのでもなく。二人で話して、二人で決めていきたい」
彼は微笑んだ。
「だから、これからも僕の隣にいてくれるかな?」
エレナは迷わず頷いた。
「ええ。私も、あなたの隣にいたいわ」
その答えを聞くと、ルシアンは安堵したように目を細めた。
そして、彼女の手の甲にそっと唇を寄せた。
エレナの頬が、一瞬で赤くなる。
「……ルシアン!」
「嫌だった?」
「そ、そういうことではなくて……!」
「なら、よかった」
彼は楽しそうに笑った。
エレナは恥ずかしさに俯いたものの、繋がれた手を離そうとはしなかった。
窓から差し込む夕暮れの光が、二人の影を長く伸ばしている。
かつて、彼らは幾度もの出会いと別れを経験してきた。
けれど、今ここにいる二人は、過去に決められた道を歩いているわけではない。
互いの気持ちを確かめ、自分たちの意思で、これからの人生を選ぼうとしている。
その事実が、エレナには何よりも大切だった。
***
その夜、エレナは青いノートを開いた。
旅の計画を書き留めたページをめくり、新しいページの最初に、今日の出来事を記した。
『未来のことを、あなたと話した。
まだ知らない景色も、これから始めたいことも、二人で少しずつ選んでいきたい。
そして、旅が終わったあとも、その先の毎日を一緒に歩いていきたい。
あなたがそう望んでくれたことが、嬉しかった』
そこまで書いて、エレナはペンを止めた。
本当は、もっと書きたいことがあった。
彼の言葉を聞いたとき、どれほど嬉しかったのか。
これから先も彼の隣にいたいと答えたとき、胸の奥がどれほど温かくなったのか。
けれど、今はまだ、すべてを言葉にすることができなかった。
エレナは小さく笑い、最後に一文だけ書き加えた。
『いつか、この気持ちをもっと上手に伝えられるようになりたい』
ノートを閉じると、彼女は窓の外を見つめた。
旅立ちの日は、もう遠くない。
海辺の町で、二人はどんな景色に出会うのだろう。
そして、その旅を終えたとき、どんな新しい願いが生まれるのだろう。
まだ答えは分からない。
それでも、エレナは不安を感じていなかった。
答えが分からないからこそ、二人で見つけていける。
その未来を、心から楽しみにしていた。




