あなたに伝えたい、まだ胸に秘めた想い
海辺の町への旅行が、少しずつ現実味を帯びてきた。
ルシアン・アストレアが休暇の日程を調整し、エレナ・ヴァレンティアも読書室を安心して任せられるよう、マルタたちと準備を進めている。
出発の日は、まだ正式には決まっていない。
それでも、二人の間では、旅先で何を見たいのか、どんな時間を過ごしたいのかという話題が自然に増えていた。
そして今日、エレナは一つの計画を思いついた。
「旅の記録を、二人で一緒に残すのはどうかしら?」
王宮の庭園でルシアンと向かい合いながら、彼女は青いノートを開いた。
「一緒に?」
「ええ。私が見つけたものだけでなく、あなたが気づいたことも書いてほしいの。例えば、同じ海を眺めても、私とあなたでは違うことを感じるかもしれないでしょう?」
ルシアンはノートを覗き込み、楽しそうに微笑んだ。
「面白そうだね。君の目にはどんな景色が映るのか、僕も知りたい」
「私も、あなたが何を考えるのか知りたいわ」
「では、約束しよう。旅の間は、交代で記録を書くことにしようか」
「交代なの?」
「もちろん。君ばかり書いていたら、僕の記録が残らないだろう?」
「……そうね。あなたの文章も読んでみたいわ」
エレナが素直に答えると、ルシアンは一瞬だけ目を見開いた。
「そんなに期待されると、少し緊張するな」
「ルシアンでも緊張することがあるのね」
「君に読まれる文章だからね」
「まあ……!」
思いがけない言葉に、エレナの頬が赤くなる。
彼はそんな彼女を見て、穏やかに笑った。
「君の物語を読むのが楽しみだと言ったのは、僕だからね。自分の言葉を見せることにも、きちんと向き合わないと」
「……私、あなたに読んでもらうためにも、もっと頑張るわ」
「頑張りすぎないようにね。君が楽しんで書いていることが、一番大切だから」
その言葉に、エレナは小さく頷いた。
誰かに読んでもらいたいと思うことと、誰かに認めてもらわなければならないと思うことは、きっと違う。
彼に自分の物語を届けたい。
けれど、何よりもまず、自分自身が物語を書くことを楽しみたい。
そんな気持ちを大切にしていこうと思った。
「ところで、ルシアン」
「何かな?」
「旅の記録の最初のページは、あなたに書いてほしいわ」
「僕が?」
「ええ。私が最初に訪れたい場所を決めたのだから、今度はあなたの言葉で始めてほしいの」
ルシアンは少し考えたあと、静かに頷いた。
「分かった。君がそう望むなら」
彼の返事を聞き、エレナは嬉しそうにノートを閉じた。
旅の準備は、物を揃えるだけではない。
互いの願いを知り、相手の言葉に耳を傾け、同じ未来へ向かうための時間でもある。
そのことを、エレナは少しずつ実感していた。
***
午後、読書室では新しい問題が発生していた。
「大変だよ、エレナお姉ちゃん!」
少年が、いつになく真剣な顔で駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
「王冠の鳥さんが、王様をやめちゃったんだ!」
「……え?」
エレナは思わず聞き返した。
机の上には、先日作った雲の上の町の地図が広げられている。
その中央に描かれていたはずの王冠の鳥には、大きなばつ印がつけられていた。
「どうして王様をやめてしまったの?」
「だって、王様は毎日お仕事をしなきゃいけないんだよ。鳥さんは自由に空を飛びたいんだって!」
「なるほど……」
「それで、王様の代わりに誰が町を守るのか、みんなで考えているところなんだ!」
周りの子どもたちも、真剣な顔で頷いた。
「竜が王様になればいいと思う!」
「でも、竜は火を吹くから、お城が燃えちゃうよ!」
「じゃあ、船乗りのおじさんは?」
「ずっと海にいるから、町に帰ってこられないよ!」
それぞれの意見が飛び交う中、エレナは地図を眺めた。
王冠の鳥は、これまで門番や管理責任者、そして王様まで務めてきた。
けれど、本当は自由に空を飛びたかったらしい。
「ねえ、みんな」
エレナは子どもたちに尋ねた。
「王様になった鳥さんは、幸せだったのかしら?」
子どもたちは一斉に黙り込んだ。
「……ううん。お仕事ばかりで、飛べなかったんだもん」
少女が小さく答えた。
「そうね。立派な王様になれたとしても、鳥さんが望んでいたこととは違ったのかもしれないわ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
エレナは微笑んだ。
「鳥さんが自分の望む生き方を選べるようにしてあげたらどうかしら。町を守る役目を、みんなで分け合うの」
「みんなで?」
「ええ。誰か一人だけが頑張らなくてもいいように」
その言葉を聞いた子どもたちは、顔を見合わせた。
やがて少年が、勢いよく手を挙げた。
「じゃあ、竜は空から町を見守る! 船乗りのおじさんは海を守る! 僕たちは町のお花を育てる!」
「それなら、鳥さんも自由に飛べるね!」
「うん! 鳥さんは王様じゃなくて、旅人になるんだ!」
新しい案が決まると、子どもたちは嬉しそうに絵を描き始めた。
王冠を外した鳥は、広い空へ向かって羽ばたいている。
その下では、竜も船乗りも、町の人々も、それぞれの役割を果たしていた。
エレナはその絵を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
誰かを大切に思うことは、その人のすべてを自分の望む形に変えることではない。
相手が何を望んでいるのかを知り、その願いを尊重すること。
それは、彼女がルシアンとの関係の中で大切にしてきたことでもあった。
「エレナお姉ちゃん、この鳥さん、どこへ行くと思う?」
少年が尋ねた。
「そうね……まだ誰も行ったことのない場所を探しに行くのかもしれないわ」
「じゃあ、海の向こうにも行くかな?」
「きっとね」
エレナは笑った。
「帰ってきたら、どんな景色を見つけたのか、みんなに教えてくれると思うわ」
その言葉を聞いた子どもたちは、再び絵に向き直った。
誰も知らない景色を探しに行く鳥。
そして、その鳥が帰ってくるのを待つ町の人々。
それは、どこか自分たちの姿にも似ているような気がした。
***
読書室を出たエレナは、王宮の廊下でミレイユ・ローゼンに呼び止められた。
「エレナ、ちょうどよかったわ!」
「ミレイユ? どうしたの?」
「少し付き合ってほしいところがあるの」
そう言って彼女が向かったのは、王宮に近い小さな工房だった。
以前、読書室の子どもたちのために木製のおもちゃを用意してくれた職人が、新しい作品を作っているらしい。
「カイルから聞いたの。ここに、旅の記録をまとめるのに使えそうな小物があるんですって」
「カイルさんから?」
「ええ。あなたたちが旅行に行くと聞いて、役に立ちそうなものを調べてくれたみたい」
ミレイユは何気なく答えたが、その声には少しだけ嬉しさが混じっていた。
工房に入ると、職人が二人を出迎えた。
棚には木箱や小さな額縁、革ひもで留めることのできる記録帳などが並んでいる。
エレナはその中に、小さな木製のしおりを見つけた。
表面には、波の模様が丁寧に彫られている。
「きれい……」
「旅の記録帳に使うなら、こういうものもいいと思いますよ」
職人が説明してくれた。
「木の種類によって色合いが違うんです。こちらは海辺で拾われた流木を加工したもので、同じ模様は一つとしてありません」
エレナはしおりを手に取り、そっと指でなぞった。
一つとして同じものがない。
それは、旅先で見つける景色や、誰かと過ごす時間にも似ていると思った。
「これを二つ、いただけますか?」
「二つですか?」
職人が尋ねると、エレナは微笑んだ。
「はい。一つは私のノートに、もう一つはルシアンの記録帳に使いたいんです」
「素敵ですね。お二人でお揃いにされるのですか?」
「……ええ」
答えた途端、頬が熱くなった。
隣ではミレイユが、にやにやと笑っている。
「まあまあ。お揃いですって?」
「ミレイユ!」
「いいじゃない。二人の旅の記念なんだから」
「そうだけれど……!」
エレナが困ったように視線をそらすと、ミレイユは声を立てて笑った。
けれど、彼女自身も棚に並ぶ品々を見つめながら、何かを考えているようだった。
やがて、木製の小さな鳥の飾りを手に取る。
王冠をかぶった、足の長い鳥だった。
「……これ、読書室の子どもたちが見たら喜びそうね」
「そうですね。あの鳥は、すっかり物語の主役になっていますから」
エレナが答えると、ミレイユは鳥の飾りを大切そうに包んでもらった。
「カイルにも見せてあげようかしら。あの人、きっとまた真面目な顔で鳥の役職について考えるわよ」
「ふふっ。そうかもしれないわね」
二人は顔を見合わせて笑った。
***
工房を出たあと、ミレイユは包みを抱えたまま、少しだけ歩調を緩めた。
「ねえ、エレナ」
「何?」
「私、今度カイルに、ちゃんと聞いてみようと思うの」
「何を?」
「……あの人が、私のことをどう思っているのか」
エレナは足を止めた。
ミレイユは恥ずかしそうに笑ったが、その表情には、以前よりもはっきりとした決意があった。
「もちろん、今すぐ答えを聞きたいわけじゃないの。でも、私ばかりあの人のことを考えているのは、少し悔しいじゃない?」
「ミレイユらしいわね」
「でしょう?」
彼女は胸を張った。
「それに、私だって自分の気持ちをきちんと伝えられるようになりたいの。いつまでも、冗談ばかり言って逃げているわけにはいかないもの」
エレナは優しく微笑んだ。
「応援しているわ」
「ありがとう。……でも、あなたも人のことばかり応援していないで、自分のことも頑張りなさいよ?」
「私のこと?」
「そうよ。ルシアン殿下との旅行。せっかく二人きりなんだから、伝えたいことがあるなら、ちゃんと言葉にするのよ」
その言葉に、エレナは静かに頷いた。
伝えたいこと。
彼と一緒に未来を歩みたいという気持ち。
まだ知らない景色を、これからも隣で見つけていきたいという願い。
そして、いつか旅が終わったあとも、彼と同じ場所へ帰りたいという想い。
それらは、胸の中に確かに存在している。
けれど、どんな言葉で伝えればいいのか、まだ分からなかった。
「……そうね。私も、ちゃんと考えてみるわ」
「うん。それでこそエレナよ」
ミレイユは満足そうに頷いた。
二人は再び歩き始めた。
それぞれの胸に、大切な人へ伝えたい想いを抱きながら。
***
夜、エレナは自室で青いノートを開いた。
今日、手に入れた波模様のしおりを挟み、ゆっくりとページをめくる。
そこには、旅先で見たいものや、ルシアンと交わした約束が書き留められていた。
エレナは新しいページに羽根ペンを走らせた。
『旅先で見つけたいものは、景色だけではない。
同じ景色を見たとき、隣にいる人が何を思うのか。
その人が、どんな願いを胸に秘めているのか。
そして、自分が何を伝えたいと思うのか。
それを知ることも、旅の大切な目的なのだと思う』
書き終えると、エレナはしばらくその文章を見つめた。
それから、最後に一行を書き加えた。
『いつか、この記録を読み返したとき、今日よりもっと深く、あなたのことを知っていたい』
彼女はそっとノートを閉じた。
窓の外には、穏やかな夜空が広がっている。
海辺の町へ旅立つ日まで、あと少し。
その旅で、二人がどんな景色に出会うのかは、まだ分からない。
けれど、エレナには一つだけ、確かなことがあった。
どんな場所へ行っても、隣にいる彼と向き合い、自分の言葉で想いを伝えていきたい。
それが、彼女自身が選んだ未来だった。
そして、その未来の先にあるものを、今度は二人で見つけていきたいと思っていた。




