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まだ知らない海へ、あなたと交わす願い

青いノートを開くたび、エレナ・ヴァレンティアの心は少しずつ旅立ちへと向かっていた。


ルシアンから贈られた革表紙のノートには、海辺の町で訪れたい場所や、見てみたい景色が増えている。


港に並ぶ商船。

潮風が吹き抜ける市場。

旅人たちの記録が眠る資料館。

そして、夕暮れの海を眺められる丘。


最後の項目を書き終えたエレナは、羽根ペンを置いた。


「……これなら、旅の予定もだいぶ形になってきたわね」


ただ、眺めているうちに、一つだけ気になることが浮かんだ。


自分は旅先で見つけたいものをたくさん書き出している。


けれど、ルシアンはどうなのだろう。


彼自身が見たい景色や、行ってみたい場所について、まだきちんと聞いていなかった。


「私ばかり、行きたいところを決めてしまっているわ」


エレナはノートを閉じ、窓の外を見た。


彼と一緒に未来を選びたい。


そう約束したのだから、旅の行き先も二人で考えたい。


彼が何を望んでいるのか、知りたいと思った。


そうして翌日、王宮でルシアンと会ったエレナは、さっそく尋ねることにした。


「ルシアン、少し聞いてもいいかしら?」


「もちろん。どうしたんだい?」


「今度の旅行だけれど……あなたは、どんな場所へ行ってみたい?」


ルシアンは意外そうに瞬きをした。


「僕が行きたい場所?」


「ええ。私は海辺の町に行きたいと思っているけれど、あなたにも見たい景色があるでしょう?」


彼は少し考え、やがて穏やかに微笑んだ。


「そうだね。実は、一つ考えていた場所があるんだ」


「本当?」


「海辺の町から少し離れたところに、古い灯台があるらしい。今は使われていないそうだけれど、丘の上から海を一望できると聞いたことがある」


エレナの目が輝いた。


「灯台……!」


「君が好きそうだと思ったんだ。遠くから来る船を見守り続けてきた場所だからね」


「どうして、あなた自身が行ってみたいと思ったの?」


尋ねると、ルシアンは窓の外へ視線を向けた。


「昔から、一度見てみたいと思っていたんだ。どこまでも続く海を、何にも遮られずに眺められる場所に立ってみたかった」


その言葉には、いつもの穏やかさとは少し違う響きがあった。


エレナは彼の横顔を見つめた。


王宮で育った彼は、幼いころから多くのものを与えられてきたはずだ。


けれど、王族としての務めや、過去に背負わされた事情によって、自由に出かけたり、気ままに旅をしたりする機会は限られていたのだろう。


「それなら、ぜひ行きましょう」


エレナは迷わず言った。


「私も、その灯台から海を見てみたいわ」


「ありがとう。君がそう言ってくれて嬉しいよ」


「お礼なんていらないわ。あなたの願いも、私にとって大切なものだもの」


ルシアンは一瞬、言葉を失った。


そして、彼女の手をそっと取った。


「……君は、時々、本当に嬉しいことを言うね」


「時々なの?」


「いつも、と言いたいところだけれど、そう言うと君が困った顔をするから」


「もう。私がどんな顔をするか、分かっていて言っているでしょう?」


「もちろん」


彼は楽しそうに笑った。


エレナもつられて笑う。


こうして二人の旅の計画に、新しい目的地が加わった。


それは単に訪れる場所が増えたというだけではなかった。


ルシアン自身が心の中にしまっていた願いを、彼女に話してくれたこと。


そして、その願いを一緒に叶えようと約束できたこと。


エレナにとって、それが何よりも嬉しかった。


***


その日の午後、エレナは読書室へ向かった。


扉を開けると、子どもたちが木製の船を囲んで話し合っていた。


「この船は、海の向こうまで行くんだよ!」


「でも、途中で嵐が来たらどうするの?」


「竜に助けてもらえばいいじゃない!」


「竜だって、嵐は怖いかもしれないよ?」


それぞれの意見が飛び交い、物語はなかなか先へ進まない。


エレナが近づくと、少年が顔を上げた。


「エレナお姉ちゃん! ちょうどいいところに来た!」


「どうしたの?」


「船が海の向こうへ行くんだけど、途中で何があると思う?」


エレナは机の上に置かれた地図を覗き込んだ。


雲の上の町から出発した船は、お菓子の森を通り、長い川を下って海へ出ることになっている。


その先には、まだ何も描かれていない大きな空白が広がっていた。


「そうね……まだ誰も行ったことのない島があるかもしれないわ」


「島!?」


子どもたちの目が一斉に輝いた。


「そこには何があるの?」


「珍しい花が咲いているとか?」


「宝物が埋まっているんじゃない?」


「王冠の鳥さんが、実は島の王様だったりして!」


「待って。その鳥さん、いつから王様になったの?」


エレナが思わず尋ねると、少年は真剣な顔で答えた。


「だって、もう門番も管理責任者もやったから、次は王様かなって」


「ずいぶん順調に出世しているのね……」


エレナは笑いをこらえながら頷いた。


「それなら、王様の鳥さんが島で何をしているのか、みんなで考えてみましょうか」


子どもたちは大喜びで紙と色鉛筆を取り出した。


やがて、誰も知らない島の絵が少しずつ描かれていく。


大きな木。

色とりどりの花。

透き通った水辺。

そして、島の中央には王冠をかぶった鳥のための立派な城が建てられた。


「この島には、まだ知らないものがいっぱいあるんだね!」


一人の少女が、絵を眺めながら呟いた。


「そうね」


エレナは優しく答えた。


「知らないからこそ、見つけたときに嬉しくなるのかもしれないわ」


その言葉を口にしたとき、彼女はふと、自分の旅のことを思い出した。


海の向こうに何があるのか。


灯台から眺める景色は、どんな色をしているのか。


実際に訪れてみなければ、分からないことばかりだ。


けれど、分からないことを怖がる必要はない。


自分で歩いて、見つけて、感じていけばいいのだから。


「エレナお姉ちゃんも、海の向こうへ行くの?」


少年に尋ねられ、エレナは微笑んだ。


「いつか、もっと遠くまで行ってみたいと思っているわ」


「誰と?」


その問いに、エレナは一瞬だけ頬を赤くした。


「……大切な人と、一緒に」


子どもたちは顔を見合わせ、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、帰ってきたら絶対にお話を聞かせてね!」


「もちろん。私が見つけたものを、みんなにも伝えたいわ」


「約束だよ!」


差し出された小さな指に、エレナは自分の小指を絡めた。


「約束よ」


その小さな約束は、彼女が旅に持っていきたいものの一つになった。


***


夕方、読書室の片づけを終えたエレナが廊下を歩いていると、向こうからミレイユ・ローゼンがやってきた。


「エレナ、ちょっと相談があるのだけれど」


「相談?」


「そう。少しだけ、時間をもらえる?」


いつもより真剣な表情に、エレナはすぐに頷いた。


二人は近くの庭園へ向かい、花壇のそばにあるベンチへ腰を下ろした。


しばらく言葉を探していたミレイユは、やがて小さく息を吐いた。


「……私、最近、カイルのことばかり考えてしまうの」


エレナは驚いた顔をしたものの、すぐに穏やかな表情へ戻った。


「そうなのね」


「そうなのよ。あの人、いつも堅苦しいし、真面目すぎるし、何を考えているのか分からないことも多いでしょう?」


「ええ」


「でも、子どもたちのために木のおもちゃを作ってくれたり、私が何気なく話したことまで覚えていてくれたり……」


ミレイユは自分の指先を見つめた。


「そういうところを見ると、なんだか胸が落ち着かなくなるの」


「カイルさんに、もっと自分のことを知ってほしいと思う?」


エレナが尋ねると、ミレイユは目を丸くした。


「……どうして分かったの?」


「ミレイユが、いつもより真剣に話してくれているから」


それは答えになっているようで、なっていないような言葉だった。


けれど、ミレイユは少しだけ笑った。


「そうね。もっと知ってほしいのかもしれない。私も、あの人のことをもっと知りたいと思うし」


「なら、少しずつ話してみたらどうかしら。カイルさんが何を考えているのか、ミレイユ自身の言葉で聞いてみてもいいと思うわ」


「でも、もし変なことを聞いてしまったら?」


「そのときは、二人で笑えばいいのよ」


エレナがそう言うと、ミレイユはしばらく彼女を見つめ、それから吹き出した。


「本当に、あなたらしい答えね」


「そうかしら?」


「ええ。難しいことを考えすぎずに、まずは一歩踏み出してみようってことでしょう?」


「……そうね。私も、最近になって分かったことなのだけれど」


未来の答えを先に知る必要はない。


自分の気持ちを完全に理解してからでなければ、誰かに近づいてはいけないわけでもない。


迷いながらでも、少しずつ進んでいけばいい。


エレナはそう信じていた。


「ありがとう、エレナ。なんだか、少し気持ちが軽くなったわ」


「よかった」


ミレイユは立ち上がり、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「……ところで、あなたとルシアン殿下の旅行はどうなっているの?」


「えっ?」


「二人で海辺の町へ行くのでしょう? 何か素敵なことが起きそうじゃない?」


「まだ出発もしていないわ!」


「だからこそ、想像するのが楽しいのよ!」


ミレイユは楽しそうに笑った。


「海辺の町で二人きり。夕暮れの灯台。静かな海……ああ、想像しただけで素敵だわ!」


「ミレイユ!」


エレナは真っ赤になって抗議した。


けれど、ミレイユは止まらない。


「それで、ルシアン殿下から何か特別な言葉をかけられたりして……」


「もう帰るわ!」


「あっ、待って! 冗談よ、冗談!」


逃げるように歩き出したエレナの後ろから、ミレイユの笑い声が追いかけてきた。


その声を聞きながら、エレナもまた、こらえきれずに笑ってしまった。


未来を考えることは、時に恥ずかしく、時に不安で、そして思いがけず楽しい。


そういう気持ちも含めて、自分の人生なのだろう。


***


夜。


エレナは自室で、ルシアンから贈られたノートを開いていた。


新しく決まった灯台のこと。

子どもたちと作った、まだ知らない島のこと。

そして、ミレイユが話してくれた気持ちのこと。


何を書こうか迷った末、彼女は灯台の項目の下に、一文を書き加えた。


『海を眺めるとき、隣にいるあなたが何を思うのか、知りたい』


書き終えた瞬間、胸が少しだけ熱くなった。


自分が見たい景色だけではなく、彼が見たい景色も一緒に見たい。


自分が感じた喜びだけではなく、彼が感じた喜びも知りたい。


そして、もし彼が何かに迷ったときには、自分も隣で考えたい。


それが、エレナの望む旅だった。


彼女はノートを閉じ、窓の外を見た。


夜空には星が瞬いている。


遠くの海も、古い灯台も、まだ実際には見ていない。


それでも、そこへ向かう道を考えるだけで、心は満たされていった。


やがて、エレナは小さく微笑んだ。


「……早く、一緒に見たいわね」


誰に聞かせるでもない言葉だった。


けれど、その願いは確かに、彼女の未来を照らしていた。


まだ見ぬ海へ。


まだ知らない景色へ。


そして、隣にいる大切な人と、二人で選ぶ明日へ。


エレナの旅は、出発の日を迎える前から、少しずつ始まっていた。

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