大切な人に贈りたい、旅の始まりの約束
海辺の町への旅を決めてから、エレナ・ヴァレンティアの毎日は少しだけ変わった。
朝には読書室の運営についてマルタと相談し、午後には子どもたちと物語を作り、夜には青いノートを開いて旅の計画を書き加える。
忙しいはずなのに、不思議と疲れは感じなかった。
むしろ、やりたいことが一つずつ形になっていくたび、心の奥に新しい喜びが生まれていた。
「……あとは、旅先で何を見つけたいのか、もう少し考えたいわね」
机に頬杖をつきながら、エレナはノートを眺めた。
海辺の町を訪れることは決まったものの、そこで何をするのかはまだ漠然としている。
港を歩く。
市場を見て回る。
海の見える場所で物語を書く。
どれも魅力的だが、せっかくルシアンと二人で出かけるのなら、ただ観光するだけではなく、二人だからこそできることを見つけたい。
「……二人だからこそ、できること」
口にしてみると、急に頬が熱くなった。
一緒に景色を眺めるだけでも十分に幸せだと思う。
けれど、それだけでは言葉にできない願いが、胸の奥にあるような気がした。
エレナが考え込んでいると、扉を叩く音がした。
「エレナ、少し時間はあるかな?」
「ルシアン様? ええ、どうぞ」
入ってきたルシアンは、手に一冊の本を持っていた。
「何を考えていたんだい?」
「旅先で何をしたいのか、考えていたところです。せっかくですから、思い出に残る旅にしたいと思って」
「なるほど。僕も同じことを考えていたよ」
彼は本を机に置いた。
それは、海辺の町の歴史や風習について記された旅行案内書だった。
「君が市場を見て回りたいと言っていたから、少し調べてみたんだ。あの町には、港に集まった旅人たちが書き残した記録を保管している小さな資料館もあるらしい」
「旅人たちの記録……?」
「そう。昔の航海日誌や、遠い国で見たものを描いた絵も残されているそうだ」
エレナの目が輝いた。
「ぜひ行ってみたいわ!」
「そう言うと思った」
ルシアンは楽しそうに笑った。
「君は本当に、知らないものを見つけるのが好きなんだね」
「ええ。でも……」
エレナは少しだけ声を落とした。
「最近は、見つけたものを誰かに伝えることも、同じくらい好きになったの」
読書室で子どもたちと物語を作るようになってから、彼女は何度も感じていた。
自分一人では気づかなかったことも、誰かに話すことで新しい意味を持つ。
同じ景色を見ても、人によって感じることは違う。
その違いを知ることが、こんなにも楽しいなんて、以前は知らなかった。
「だから、旅先で見たものをあなたにも伝えたいし、あなたが何を感じたのかも聞いてみたいの」
「それなら、いい方法があるよ」
ルシアンは、机の引き出しから小さな革表紙のノートを取り出した。
「これを、君に」
「私に?」
受け取ったノートは、深い青色の革で丁寧に装丁されていた。表紙の隅には、小さな銀色の星が一つだけ刻まれている。
エレナは思わず息を呑んだ。
「……きれい」
「君が使っているノートを見て、旅の記録を残すなら、こういうものもいいかと思ってね」
「もしかして、私のために用意してくださったの?」
「もちろん」
あまりにも自然に答えられて、エレナは言葉を失った。
彼は大げさな贈り物をするわけではない。
けれど、彼女が大切にしているものを覚えていて、彼女が喜びそうなものを考えてくれる。
その気持ちが、何より嬉しかった。
「ありがとう、ルシアン。大切にするわ」
「気に入ってくれたならよかった」
エレナはノートを胸元に抱いた。
「でも、どうして星なの?」
「君のノートにも星が描かれていたから。君が好きなものなら、僕も少し知っておきたいと思ったんだ」
「……もう。そんなことを言われたら、ますます大切にしたくなってしまうわ」
「大切にしてくれるのは嬉しいけれど、使ってくれないと困るな」
「もちろん使うわ!」
思わず強く答えると、ルシアンが目を丸くした。
その表情に気づき、エレナは慌てて咳払いをした。
「……旅の記録を残すために、きちんと使います」
「それは楽しみだね」
彼の笑顔を見ていると、エレナの胸はますます温かくなった。
まだ出発してもいないのに、旅の思い出が一つ増えたような気がした。
***
翌日の読書室では、子どもたちがいつも以上に張り切っていた。
机の上には大きな紙が広げられ、その中央には雲の上の町が描かれている。
「今日は、この町から海までの道を作るんだ!」
少年が宣言すると、別の子どもが勢いよく手を挙げた。
「途中にお菓子の森を作ろうよ!」
「お菓子の森!?」
「そう! 木にクッキーがなっているの!」
「それじゃあ、鳥さんが全部食べちゃうよ!」
「大丈夫! 王冠の鳥さんが見張っているから!」
例の足の長い鳥は、いつの間にか物語の中で重要な役割を与えられていた。
門番に始まり、道案内を経て、今ではお菓子の森の管理責任者である。
「ずいぶん出世したのね……」
エレナが感心したように呟くと、隣でミレイユ・ローゼンが吹き出した。
「管理責任者って! あの鳥、いつの間にそんな立派な役職に就いたのよ!」
「子どもたちに信頼されている証拠ね」
「でも、本人はずっと同じ鳥なのよね?」
「そうね。本人はきっと、肩書きが増えたことに気づいていないと思うわ」
二人が笑っていると、読書室の扉が開いた。
「皆さん、今日は少し面白いものを持ってきました」
カイル・フェルディナが、木箱を抱えて入ってきた。
子どもたちは一斉に彼の周りへ集まった。
「何それ?」
「新しいおもちゃ?」
「見せて、見せて!」
「順番にお願いします。押し合うと危ないですよ」
カイルは落ち着いた声で子どもたちをなだめ、木箱を机に置いた。
中から出てきたのは、小さな木製の橋や船、そして細い塔の模型だった。
「これを使えば、皆さんの物語に町や港を作れると思いまして」
子どもたちの歓声が響いた。
「すごい! これなら海までの道が作れる!」
「この橋を渡ったら、お菓子の森だね!」
「船もあるよ! 竜が疲れたら船に乗せてあげよう!」
子どもたちはさっそく模型を並べ始めた。
エレナはカイルに微笑みかけた。
「ありがとうございます。こんなにたくさん用意してくださったのですね」
「いえ。以前、皆さんが町を作りたいと話していたので、役に立てばと思っただけです」
「カイルさんは、いつも子どもたちの話をよく覚えていらっしゃいますね」
「……必要なことですから」
いつもの返事だったが、彼の表情は少しだけ柔らかかった。
その様子を見ていたミレイユが、横から口を挟んだ。
「ふうん。子どもたちのために、ずいぶん丁寧な仕事をするのね」
「手を抜く理由がありませんから」
「それなら、私が頼んだことも、ちゃんと覚えているのかしら?」
カイルは一瞬、考えるように彼女を見た。
「もちろんです」
「……え?」
「先日、あなたが話していた新しい物語の案でしょう。雲の上の町に、旅人が集まる広場を作るという話です」
ミレイユは目を見開いた。
確かに話した。
ただ、ほんの何気ない会話の中で、一度だけ。
「覚えていたの……?」
「あなたが楽しそうに話していたので」
あまりに真面目な返事だった。
ミレイユは何か言おうとしたが、言葉が出てこない。
エレナはその様子を見て、そっと微笑んだ。
「ミレイユ、顔が赤いわ」
「赤くない!」
「そう?」
「そうよ! この部屋が少し暑いだけ!」
「窓を開けましょうか?」
「エレナまでからかわないで!」
その声に、子どもたちが不思議そうに顔を上げた。
「ミレイユお姉ちゃん、どうして赤いの?」
「だから赤くないってば!」
今度こそ、読書室に大きな笑い声が広がった。
カイルは状況を理解できないまま、首を傾げていた。
「……何か、問題がありましたか?」
「いいえ、何も」
エレナは笑顔で答えた。
「とても素敵なものを届けてくださっただけです」
「そうですか。それならよかったです」
カイルは安心したように頷いた。
その無自覚な様子に、ミレイユは片手で顔を覆った。
どうしてこの人は、こういうときに限って、何も分かっていないのだろう。
けれど、その不器用な優しさが嫌いではないことも、もう分かっていた。
***
夕方、読書室の片づけを終えたエレナは、子どもたちが作った町の模型を眺めていた。
木の橋の向こうに、お菓子の森。
その先には港があり、小さな船が海へ向かっている。
そして、すべてを見守るように、王冠をかぶった足の長い鳥が立っていた。
「本当に、賑やかな町になったわね」
「はい。子どもたちの想像力には驚かされます」
隣に立ったマルタが、優しく笑った。
「エレナ様がここを作ってくださったから、皆、自分の考えを安心して話せるのでしょう」
「私だけの力ではありません。マルタさんや、手伝ってくださる皆さんがいるからこそです」
「それでも、最初に扉を開こうと決めたのは、あなたです」
マルタの言葉に、エレナは静かに模型を見つめた。
この場所を作ろうと思ったとき、ここまで賑やかになるとは想像していなかった。
子どもたちが笑い、物語を作り、誰かの考えに自分の考えを重ねていく。
その光景を見ていると、自分もまた、誰かと一緒に未来を作っているのだと感じられた。
「……私、旅から戻ってきたら、また新しいことを始めたいと思っています」
「どんなことですか?」
「まだ分かりません。でも、旅先で見つけたものを物語にしたり、子どもたちに紹介したり……ここでできることを、もっと増やしたいんです」
「素敵な考えですね」
「ただ、欲張りすぎかもしれません」
エレナが苦笑すると、マルタは首を横に振った。
「やりたいことが増えるのは、悪いことではありませんよ。一つずつ、周りの人と相談しながら進めればいいのですから」
その言葉は、最近のエレナが何度も学んできたことだった。
一人で全部を背負わなくてもいい。
誰かに頼ることは、弱さではない。
大切なものを守りながら、新しい夢を選ぶこともできる。
「ありがとうございます、マルタさん」
エレナは笑顔で礼を言った。
読書室を出るころには、空は淡い橙色に染まっていた。
王宮へ戻る道の途中、エレナは鞄の中にある青いノートをそっと確かめた。
ルシアンが贈ってくれたノート。
まだ白いページがたくさん残っている。
そこには、これから見つける景色も、旅先で交わす会話も、思いがけず生まれる喜びも、少しずつ書き込まれていくのだろう。
そして、いつかページをめくったとき、今日のことも思い出せるはずだ。
旅の準備を始めた日。
子どもたちが町を作った日。
ミレイユが頬を赤くして、カイルが首を傾げていた日。
どれも、今の自分にとって大切な物語の一部だった。
「……早く、あなたと旅に出たいわ」
誰にも聞こえないほど小さな声で、エレナは呟いた。
まだ知らない景色が、遠くで彼女を待っている。
けれど、旅立つまでの日々にも、見逃したくないものがたくさんあった。
エレナは歩みを止めず、夕暮れの道を進んでいった。
未来は、遠くにあるものだけではない。
こうして一日ずつ重ねていく時間の中にも、確かに息づいているのだから。




