あなたと歩む未来を、少しずつ形に
朝の光が窓辺に差し込むころ、エレナ・ヴァレンティアは青い表紙のノートを開いていた。
銀色の星が散りばめられたそのノートには、これから訪れてみたい場所と、そこで見つけたいものが少しずつ書き加えられている。
海辺の町。
古い街並みが残る山あいの町。
珍しい花が咲く庭園。
隣国にあるという大きな図書館。
ページを眺めるたび、まだ見ぬ景色への期待が胸の中で膨らんでいった。
「……こうして見ると、行きたい場所がずいぶん増えたわね」
思わず呟くと、向かいに座っていたルシアン・アストレアが微笑んだ。
「いいことじゃないか。以前より、君のノートはずっと賑やかになった」
「最初は、読書室のことを書こうと思っていたのだけれど」
「今では君自身の物語も始まっている」
彼の言葉に、エレナは頬を緩めた。
以前の自分なら、未来を考えるとき、何かに導かれるように答えを探していたかもしれない。
けれど今は違う。
どこへ行きたいのか。
何を見てみたいのか。
誰とその景色を分かち合いたいのか。
その答えを、自分の心で選んでいい。
「ルシアン。最初に行く場所だけれど、海辺の町はどうかしら?」
「海か。いいね」
彼はノートに視線を落とした。
「港には遠くの国から商人が集まると聞いたことがある。珍しい品物もあるだろうし、君の物語の題材も見つかるかもしれない」
「それに、海を見ながら物語を書くのも素敵だと思うの」
「では、君が書いている物語の最初の旅先は海辺の町にしようか」
「私たちの旅の最初の目的地でもあるのね」
「そう。君の物語と、僕たちの旅。その両方の始まりだ」
その言い方が嬉しくて、エレナはノートの余白に小さく書き加えた。
『最初の目的地――海辺の町』
そして、その下にもう一つ。
『見つけたものは、二人で分かち合うこと』
書き終えた彼女は、ふと顔を上げた。
「でも、出発する前に決めておかなければならないことがあるわ」
「読書室だね」
ルシアンの返事は早かった。
エレナは頷いた。
「私が留守にしている間も、子どもたちが安心して通えるようにしたいの。せっかく始まった場所だもの。私の都合で急にお休みになってしまうのは避けたいわ」
「その考えは大切だと思う。でも、君が一人ですべてを背負う必要はない」
「ええ。だから、まずはマルタさんに相談してみようと思っているの。今の運営を続けながら、私がいない日にも開けられる方法を考えたいわ」
「僕も手伝うよ。必要なら、王宮から協力してくれる人を探そう。ただし、君が望む形を優先して」
その言葉に、エレナは穏やかに微笑んだ。
彼はいつも、彼女の代わりに決めようとはしない。
手を差し伸べてくれるけれど、最後に選ぶのは彼女自身だ。
その優しさが、今のエレナには何よりも心強かった。
「ありがとう、ルシアン」
「礼を言われるようなことじゃないよ。君と一緒に考えたいだけだから」
彼はそう言って、ノートの隣に自分の手を置いた。
エレナはその手にそっと指を重ねた。
旅立ちは、まだ少し先。
それでも二人の未来は、こうして一つずつ形になり始めていた。
***
午後、エレナは読書室を訪れた。
扉を開けると、子どもたちの賑やかな声が迎えてくれる。
「エレナお姉ちゃん! 見て、見て!」
真っ先に駆け寄ってきた少年が、一枚の大きな紙を掲げた。
そこには、雲の上に建てられた町が描かれていた。
尖った屋根の家々が並び、空には竜が飛んでいる。その隣には、例の足の長い王冠の鳥が、なぜか町の門番として立っていた。
「まあ、素敵な町ね。鳥さんが門番なの?」
「うん! この鳥さんは、悪い人を見つけるのが得意なんだ!」
「なるほど。それなら安心ね」
エレナが真剣に頷くと、少年は誇らしげに胸を張った。
「それでね、今度はこの町から海に行くんだ!」
「雲の上から海まで? ずいぶん遠い旅になりそうね」
「竜に乗ればすぐだよ!」
隣の少女が、すかさず口を挟んだ。
「でも、竜さんだってお腹が空くでしょ? 途中でご飯を食べなきゃ!」
「そうだ! じゃあ、空の町でお菓子をいっぱい持っていこう!」
子どもたちは一斉に意見を出し始めた。
エレナは笑いながら、彼らの話をノートに書き留めた。
空の町のお菓子。
海へ向かう竜。
道案内をする王冠の鳥。
昨日まで別々だったアイデアが、今日も新しい物語へと繋がっていく。
「エレナお姉ちゃんも、一緒に海に行く?」
少年に尋ねられ、エレナは一瞬だけ目を丸くした。
それから、優しく答えた。
「ええ。私も、近いうちに海を見に行く予定なの」
「本当!?」
「本当よ。ただし、竜には乗らずに馬車で行くことになると思うわ」
「じゃあ、竜のほうが速いね!」
「それは……否定できないわね」
思わず苦笑すると、子どもたちは楽しそうに笑った。
その様子を少し離れた場所から見守っていたマルタが、近づいてきた。
「エレナ様、今のお話ですが……ご旅行を計画されているのですか?」
「はい。まだ具体的な日程は決まっていないのですが、ルシアン様と海辺の町へ行けたらと思っています」
「それは素敵ですね。ですが、読書室のことも気になっていらっしゃるのでしょう?」
エレナは頷き、考えていたことを説明した。
マルタは話を聞き終えると、穏やかな表情で答えた。
「でしたら、私に任せてください。これまでのお手伝いをしてくださった方々にも相談してみます。毎回同じ人がいなければならないわけではありませんし、事前に予定を組めば、無理なく続けられると思います」
「本当ですか?」
「もちろんです。ただし、子どもたちの安全を第一に考えましょう。大人が二人以上いることや、保護者への連絡方法など、今まで決めてきたことは変えずに」
「はい。ありがとうございます、マルタさん」
胸の奥にあった心配が、少しずつ軽くなっていく。
読書室を大切にすることと、自分の夢を諦めないこと。
どちらか一方を選ぶ必要はないのかもしれない。
誰かに頼り、相談し、皆で支え合うことで、両方を守る道を見つけられるのだ。
エレナはそう思った。
***
読書室を出たあと、エレナは中庭でミレイユ・ローゼンと合流した。
「エレナ、聞いたわよ。海辺の町へ旅行するんですって?」
「まだ計画を始めたばかりよ」
「それでも十分よ! 海辺の町なんて、素敵じゃない。新鮮な魚料理に、港に並ぶ珍しい品々。それに、夕暮れの海!」
ミレイユは両手を広げ、目を輝かせた。
「ねえ、帰ってきたら絶対にお話を聞かせてね。どんな景色だったのか、何を食べたのか、ルシアン殿下がどんな顔をしていたのか!」
「最後の質問だけ、ずいぶん具体的ね」
「だって、そこが一番大事じゃない!」
ミレイユは悪戯っぽく笑った。
「二人きりの旅行なんでしょう? 今までとは違う思い出が、たくさんできるはずよ」
「……そうね」
エレナは少しだけ頬を染めた。
旅先でルシアンと並んで歩く自分を想像する。
初めて見る海。
潮風の匂い。
夕焼けに染まる港。
そして、隣で同じ景色を見つめる彼の横顔。
それだけで、胸が温かくなった。
「ふふ。今の顔、恋する女の子そのものね」
「ミレイユ!」
「はいはい、これ以上はからかわないわ」
そう言いながらも、ミレイユの笑顔はなかなか消えなかった。
やがて彼女は、ふと視線をそらした。
「……私も、いつか誰かと旅行してみたいな」
「誰か?」
エレナが尋ねると、ミレイユは一瞬でこちらを向いた。
「だ、誰かは誰かよ!」
「そうなのね」
「その顔は絶対に分かっている顔でしょう!?」
「何も言っていないわ」
「言っていなくても分かるの!」
二人は顔を見合わせ、とうとう笑い出した。
けれど、笑い声が落ち着いたあとも、ミレイユの頬には淡い赤みが残っていた。
エレナは、それ以上追及しなかった。
いつかミレイユ自身が、自分の気持ちを言葉にできる日が来るだろう。
そのときまで、彼女の歩幅を大切にしてあげたかった。
***
同じころ、王宮の一室では、カイル・フェルディナが旅行に関する資料を整理していた。
海辺の町までの道のり。
途中で立ち寄れる宿。
街道の状態。
季節による天候の変化。
それらを一つずつ確認し、必要な情報をまとめていく。
そこへミレイユが顔を出した。
「カイル、何をしているの?」
「殿下とエレナ様のご旅行に関する資料を整理しています。まだ正式な日程は決まっていませんが、事前に調べておけば役に立つでしょう」
「へえ……」
ミレイユは机の上を覗き込んだ。
細かい文字で記された情報に、思わず感心する。
「あなたって、本当に準備がいいのね」
「必要なことをしているだけです」
「そういうところ、頼もしいと思うわ」
カイルの手が止まった。
ミレイユは何気なく口にしたつもりだったが、彼の反応を見て、少しだけ首を傾げた。
「……どうしたの?」
「いえ。あなたにそう言われるとは思っていませんでした」
「どういう意味よ?」
「あなたは、私のことを融通が利かない人間だと思っているのかと」
「それは……否定できないけれど」
「やはりそうですか」
「でも、融通が利かないのと頼もしいのは、別の話でしょう?」
ミレイユは腕を組み、得意げに笑った。
「それに、あなたは口では堅苦しいことばかり言うけれど、子どもたちのために木のおもちゃを作ったり、私が気に入っていた鳥の飾りを覚えていてくれたりするじゃない」
カイルは黙り込んだ。
その沈黙に、今度はミレイユのほうが落ち着かなくなる。
「あ、別に、深い意味はないわよ? ただ、そういうところもちゃんと見ているっていうだけで……」
「ありがとうございます」
思いがけず真っ直ぐな返事が返ってきた。
ミレイユは言葉を失った。
カイルは資料を揃えながら、静かに続けた。
「あなたが何を大切にしているのか、知っておきたいと思っています。読書室の子どもたちのことも、あなた自身のことも」
「……私のことも?」
「あまり驚かないでください。あなたは、思っていることがすぐ顔に出るので、分かりやすいだけです」
「ちょっと! それ、褒めていないでしょう!?」
「褒めています」
「絶対に嘘よ!」
いつものように言い返しながらも、ミレイユの胸は妙に騒がしかった。
カイルは、誰にでも同じように気を配る人だ。
それは知っている。
けれど、自分の好きなものを覚えていてくれたことも、言葉にした気持ちを真剣に受け止めてくれたことも、嬉しかった。
その嬉しさに、どんな名前をつければいいのか。
まだ、彼女には分からなかった。
「……資料、私も見ていい?」
ミレイユは気持ちを落ち着かせるように尋ねた。
「もちろんです。分かりにくいところがあれば説明します」
「じゃあ、遠慮なく聞くわ。私だって、旅の計画くらい手伝えるんだから」
「期待しています」
「その言い方、ちょっと腹が立つわね!」
再び始まった言い合いに、カイルは小さく笑った。
その笑顔を見て、ミレイユは思わず目を見開いた。
普段は落ち着いている彼が、こんなふうに自然に笑うことを、彼女は少しずつ知り始めていた。
そして、その笑顔をもっと見たいと思った自分の気持ちに、今度は気づかないふりができなかった。
***
夕暮れどき。
エレナは自室に戻り、青いノートを開いた。
今日、決まったことを書き留めていく。
海辺の町への旅。
読書室を留守にする間の運営。
マルタたちとの相談。
そして、ミレイユとカイルのこと。
最後の一行を書きかけて、エレナは小さく笑い、そこだけは書かずにおいた。
代わりに、ページの下へ新しい言葉を綴る。
『旅に出るためには、帰る場所を大切にすることも必要なのだと思う』
書き終えたところで、扉が控えめに叩かれた。
「エレナ、入ってもいいかい?」
「ええ、どうぞ」
入ってきたルシアンは、彼女の手元のノートを見て微笑んだ。
「今日も書いていたんだね」
「はい。少しずつだけれど、旅の準備が進んでいるわ」
「僕のほうも、休暇の日程を調整しているところだ。まだ確定ではないけれど、君の希望に合わせられるようにしたい」
「ありがとう。でも、無理はしないでね。あなたにも王族としての務めがあるのだから」
「分かっているよ。だからこそ、きちんと調整するんだ」
彼は窓辺へ歩み寄り、夕暮れの空を見つめた。
「以前の僕は、未来を守るために、今を犠牲にすることも仕方がないと思っていた」
エレナは静かに彼の隣へ立った。
「今は違うの?」
「違うよ。未来を大切にすることと、今を大切にすることは、きっと両立できる。君と出会って、それを学んだんだ」
彼は振り返り、エレナを見つめた。
「だから、これからは一緒に考えていきたい。どこへ行くのかも、何を成し遂げたいのかも。君が望む未来を、僕も隣で見つけていきたい」
エレナは彼の手を取った。
「私も同じ気持ちよ。あなたと一緒に、まだ知らない景色を見てみたい。そして、見つけたものを二人の物語に残したいの」
「なら、約束しよう」
ルシアンは彼女の手を優しく握り返した。
「どんな景色に出会っても、嬉しいことも、迷うことも、一緒に分かち合おう。どちらか一人だけで答えを決めるのではなく、二人で選んでいこう」
「ええ。約束するわ」
二人は、しばらくそのまま手を繋いでいた。
窓の向こうでは、夕焼けがゆっくりと夜の色へ変わり始めている。
かつて、エレナは未来を知ることができれば、迷わずに歩けるのだと思っていた。
けれど今は、未来が分からなくてもいい。
隣にいる人と話し合い、悩み、ときには立ち止まりながら、自分たちの足で進んでいけるのだから。
エレナはノートを閉じる前に、最後の一文を書き加えた。
『まだ知らない景色へ。あなたと一緒に、一歩ずつ』
それは、これから始まる旅への言葉であり、彼女が選び続けたい未来への、小さな誓いでもあった。




